タミヤ様…
ただ商品の内容は、
接着剤とかパテとか1/35のドイツ兵とか…
ではなく、ふつーにジュースでした。清涼飲料水でした。
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神保町にて。
三省堂の古書のコーナーで
・INAX出版「ジュゼッペ・テラーニ 時代を駆けぬけた建築」
を買った。
それがきっかけで色々とテラーニ関連の書物を買った。
前々からこの「ファシスト建築家」はすごく気になっていたので
この際いろいろ調べてみることにした。
↓・「GA No.74〈ジュゼッペ・テラーニ〉カサ・デル・ファッショ1932-36・アントニオ・サンテリア幼稚園1936-37」
表紙は名高きカサ・デル・ファッショ…「ファシストの家」
はい。ヤバいです。
ファッショです。ムッソリーニです。黒シャツ隊です。ローマ進軍です。
ヒトラーのお師匠です。日独伊三国同盟です。悪の枢軸です。
これはコモという伊太利北部の町のファシスト党の本部です。
なんでそんなヤバいものが…壊されず残っているのか?
それは…たぶん…
…美しすぎるから、です。
↓中身はこんな…なんか、宝石箱みたいな建物。
行ってみたい。見てみたい…触ってみたい。
そんな「ファシストの家」
中身は色々危険な要素がいっぱいらしいです。
ケネス・フランプトンの「モダン・アーキテクチャー②」を引用します。
これら鉄製の枠を持ったガラスのドアは、ファシスト団が広場という政治的アリーナに、颯爽と登場する時のために、電気仕掛けで一斉に開くものである。
(「MA②1920-1945」156ページより)
カサ・デル・ファッショに意図された政治的イデオロギーは、内部、特にホールの「正義、秩序、祖国」と銘された飾り板(これは完成されなかった)、総裁室の壁面いっぱいに引き伸ばされた、マリオ・ラディチェによる抽象化したムッソリーニの写真に示されている。
(同書157ページより)
こういう人なので…
僕はてっきり、アルベルト・シュペーアのイタリア版のような人だと
思いこんでおりましたが…全然違いました。
アルベルト・シュペーアってのはナチの建築家で、
かのアドルフ・ヒットラーのほぼ唯一の友人…であったといわれてる人。
軍需相なんかもやってたそうな。
しかるに…
このテラーニは、別にムッソリーニとは個人的な関係もない。
テラーニ自身は熱烈なファシストであったらしいが、
ファシスト党の御用建築家…みたいのでは全然…ない。
そうか…考えてみるとイタリアには
ファシストが好きそうな巨大建築がゴロゴロしてるからな…
べつに新しく作る必要もなかった。
なにより頭の固いファシストのお偉いさんたちには
テラーニの軽やかで美しい建築が理解できなかったに違いない。
…もとい、
ジュゼッペ・テラーニのもうひとつの代表作が、
↓↓「アントニオ・サンテリア幼稚園」
というなんとも詩的な建築であることは…
子どもたちのためのやさしげな建築であることは…
この建築家の器量のデカさ、
「ファシスト建築家」とかいうレッテルにおさまりきらない
とんでもない才能をうかがわせるものがある。
テラーニの生涯はずいぶん短かった。
39歳…というから、普通の建築家ならようやくデビューしようか、という
年齢です。
1940年、徴兵されて、ロシア戦線へ…
ロシア戦線…おそらく人類史上最悪の戦場を、
この宝石のような建築を作る男が体験してしまったわけです。
彼は精神を病み、病院列車で本国へ送還されます。
1943年1月20日、極度の疲労から病院列車に乗せられて、テッラーニは帰郷する。
彼の最後のプロジェクト、「カテドラルのためのスタディ」
その数日後、彼の許嫁のマリア・カサルテッリの住宅の階段室で死ぬ。7月19日のことであり、ムッソリーニ失脚の6日前であった。
(鹿島出版会・B・セーヴィ編「ジュゼッペ・テッラーニ」242ページより)
この…彼が精神を崩壊させていくあたり、
何冊か本を読んでみましたが、
どうもわからない。
どの本でも数行で片づけられている感がある。
時代のあまりの激動のせいで、資料もなく、
誰も記憶がないのかもしれません。