諸君。
友情について考えてみようではないか✨
――ということでは全然なくて、ですね。
単に 馬琴先生の「南総里見八犬伝」を読んでいたら (3回めか4回めかの再読)
「友だち」
というコトバが ふいに出てきて驚いた。
というはなしです。
こんなです。
不題(こゝにまた)、滝田の近村、蒼海巷(あをみこ)といふ処に、杣木朴平(そまきのぼくへい)と喚るゝ(よばるゝ)、荘客(ひやくせう)ありけり。戦国の沿俗(ならひ)とて、撃剣拳法(けんじゆつ やわら)いへばさらなり、膂力剛く(つよく)、こゝろ悍く(たけく)、難に臨て死をだもおそれず、伉侠(をとこ)を立るものなりければ、神余(じんよ)の家則いたく乱れて、民のわづらひ大かたならず、縡(こと)みな山下柵左衛門が所行(わざ)なるを見て竟(つひ)に得堪ず、われに些も劣らざる、洲崎の無垢三といふ、友だちを、潜びやか(しのびやか)に招きよせ、
「和主は何と思ふらん。……(以下略)……
(岩波文庫、曲亭馬琴著「南総里見八犬伝(一)」33ページより)
オープニング近く。八犬士のはなしはまだ始まらず、
八犬士のお母さん・伏姫……のそれまたお父さん 里見義実が主役なのですが、
房総半島のはなしです。
安房国長狭郡(ながさのこふり)を 神余長狭介光弘(じんよながさのすけみつひろ)という人が支配していたのですが、
この光弘、
玉梓(たまつさ)という美女を寵愛しまして
政治をまったくやらなくなりまして
で、そこで登場したのが ↑に言及されます
山下柵左衛門 という悪いやつでして、
こいつが美女に溺れた光弘のかわりに支配者になりまして
(ついでにいうと玉梓とデキてたりする)
長狭郡の民衆は重税に苦しめられるようになったというわけです。
で、
杣木朴平という いかにも脇役な名前の男が
「友だち」
の洲崎無垢三と語らって 山下を暗殺しようというはなしになるというくだり……
はあ。
ようやく「南総里見八犬伝」冒頭のシチュエーションの説明が終わったのですが。
この
「友だち」
すごく違和感がないですかね?
「友だち」って……
「友だち百人できるかな?」
――の、友だちですよ?
「ごめんなさい。あなたのことはとてもいい友だちだと思っているわ。でも……」
――の、友だちですよ?
どっちかというと子供が主に使うコトバというイメージがしませんか?
「友だち」
一国の権力者を殺そう、というはなしに
「友だち」というワードを使いますか?
腕力強い、正義感の強い野郎どもが
「友だち」???
これから命を預ける――一緒に死ぬかもしれない(じっさいそうなった)相手を
「友だち」???
どうも江戸時代の「友だち」は
今の「友だち」と若干ニュアンスが違うようなのです。
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例をもう1個あげますかね。
中里介山先生の「大菩薩峠」です。
「わたしは今、珍らしい人に逢いました、たしかにそうだろうと思いますわ」
「それはどなた」
お君もまたお松の晴れやかな調子につりこまれて、美しい笑顔を見せました。
「当ててごらんなさい」
「誰でしょう」
「お前様の、いちばん仲のよいお友達」
「わたしのいちばん仲のよいお友達?」
と言ってお君は美しい眉をひそめました。仲の善いにも悪いにも、このお松をほかにしては、友達らしい友達を持たぬ自分の身を顧みて、お松の言うことを訝るもののようでありました。
「言ってしまいましょう、わたしは、たった今、米友さんに逢いましたよ」
「あの友さんに?」
「はい」
(ちくま文庫、中里介山著「大菩薩峠5」212ページより)
シチュエーションはいちいち説明しません。ものすごく長くなるので……
お松さんとお君さん 二人のお嬢さんの会話なのですが。
お君さん&米友(よねとも)
というのが「友だち」である、とされております。
(米友、友という字が入っているのでややこしいが)
ポイントは
・お君さん→絶世の美女
・米友→めっぽうイノセントでめっぽうケンカに強い。
ただし、小人で醜男。
――という絶対に結ばれないカップルである、という点です。
この「友だち」にはまったく違和感がない。
わけです。
お松さん&お君さんという同性の親しい間柄を「友だち」といい、
「恋人」「夫婦」になれない男女の間柄を 「友だち」といっているわけです。
このように大正~昭和の 「大菩薩峠」における「友だち」は、
いまのニュアンスとそうかわらないようなのです。
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お君さん&米友
美女&醜男の絶対結ばれないカップルというと―――
なぜかわたくしが思い出してしまったのが
リドリー・スコット御大の「ブレードランナー」でして……
プリス(ダリル・ハンナ)&J・F・セバスチャン(ウィリアム・サンダーソン)ですが……
プリスが friend なる単語を口にするところがあったりします。
プリスはセバスチャンにむかってはっきりと our friend ということで
恋人である ロイ・バティ(ルトガー・ハウアー)とはっきり区別をしているわけです。
ついでに friend を The Concise Oxford Dictionary で調べて見ますと――
n. 1 a person with whom one enjoys mutual affection and regard (usu. exclusive of sexual or family bonds).
ってな感じでして (以下、いくつも意味があるのですが省略)
「お互い 愛情や関心を楽しみあう関係」とでもいうんでしょうかね?
注意してみていきたいのは
「性的、もしくは家族の結びつきは含まない」
とはっきり強調しているところでしょうね。
なにがいいたいのかというと……
英語のfriend の影響で けっこう硬派なコトバだった「友だち」が
今のような……
ちと軟弱な意味に変化してしまったのではなかろうか?
というトマス・ピンコによる勝手な推測です。
まあ、この推測を「断定」に変えていくためには
明治時代の文芸作品における「友だち」の例をたくさん集めて、
同時代の英語のfriend の意味を探って(英語も変化しているわけでしょ?)
英語、もしくはその他のヨーロッパの国の言語が日本語にどのような影響を与えたかを探って
……等々、けっこうめんどうくさい作業が必要になってくるとおもいますので、
僕はやりません(笑)
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じゃ、日本語の辞書を引いてみましょう。
ということに ようやくなりました。
まず、大槻文彦先生の「言海」をみてみます。
ちくま学芸文庫のは明治37年版だそうです。
〇ともだち(名)友達 多クノ友。トモガキ。朋友。
……だ、そうです。
なんかよくわからんので、
「ともがき」を調べると……
〇ともがき(名)友垣 (垣は相扶持スル意ト云、或云友ガ君ノ略カト)ともだちニ同ジ。
……だそうです。
ともだちに同じといわれてもね。
じゃこいつはどうだ?
〇とも(名) 朋・友 相知リテ常ニ相交ル人。トモガキ。トモダチ。知音。得意。
んー
相知リテ常ニ相交ル人
ですか。
しかし、馬琴の「友だち」はもうちょっと深刻な意味があるような……
では……白川静先生の「字訓」はどうだ??
と見てみますと……
「友だち」は載っていない。
かわりといってはなんですが……
とも【友・伴】
したしい人、同じような身分の仲間のものをいう。また従者の意に用いる。
ともがら【類・党・輩・儕・曹】
「とも」にその身分関係を示す「がら」をそえて、同じ階層・身分に属するものの全体をいう。「がら」は親族関係を「うがら」、同輩者を「やから」というのと同じ接尾語である。ト・モは乙類。「ともどち」は日葡辞書にみえ、「ともだち」に対して詩歌語であるとしている。
「ともどち」というのが 詩歌語であって
どうも「ともだち」は 日常語なのではないか? という感じですかね?
で、「字統」をみてみます。
ここでようやく「南総里見八犬伝」の「友だち」みたいなニュアンスが登場します。
「友」はどうも 古代中国では 「双」
もしくは 下に「曰」 上に「双」と書く字 (困ったことに これは入力できない)
であったらしいです。
【友】
会意 又(ゆう)と又とに従う。又は右手の形。各々手をもって助け合う意。[説文]に「同志を友と為す。二又に従ふ。相交友するなり」という。金文の字形は、多くは双のように手をならべた形に作る。[説文]に古文二字を録し、その第一字は双の形、第二字は習の字形で、「亦古文友なり」とするが、これはおそらく金文に「ゆう」(トマス注:上記の入力できない字です。「曰」の上に「双」)に作る字であろう。曰(えつ)は祝禱を収めた器。その上に双方の手をおくのは、盟誓のときの形式で、いま就任式や婚礼のとき、聖書の上に双方の手をおくのと同じ。
「字統」だの「字通」だの……
白川先生の字書に書いてあることは、古代中国の字の意味ですが、
なんかようやく
「南総里見八犬伝」の「友だち」
曲亭馬琴の「友だち」に近い定義が出てきた気がする。
祝禱の器の上に双方の手を置いて誓う……
という間柄ですから、
気に食わない権力者を 一緒に暗殺しようという「友だち」にふさわしい気がする。
馬琴はやっぱし「説文解字」とか読んでいたんじゃなかろうか? とか勝手な推測もしてみる。
「同志を友と為す」
ですからね。
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えーさいごに……
というか、ここまで読んでいただいた方がおられるのかどうか わからんのですが……
2019年4月15日
横須賀の空母ロナルド・レーガン
手前は 海上自衛隊のYT95 曳船95号です。
Operation Tomodachi
……3・11のときのアメリカ軍の「トモダチ作戦」のことをいいたいわけです。
正直申しまして
「トモダチ」というコトバのニュアンスに
?
という感じだったのですが、
なにか軽い……ふわふわしたイメージだったのですが。
(注:あくまで語感のことをいっております。アメリカ軍の行動がどうとかいっているわけではありません!)
じつは 「トモダチ作戦」の「トモダチ」は
古代中国の「友」
それから江戸時代・曲亭馬琴の「友だち」
……「同志を友と為す」という本来の意味にすごく近かったのではあるまいか?
などとおもいました。