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池田理代子「おにいさまへ…」×今野緒雪「マリア様がみてる」・比較 考察

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池田理代子先生の「おにいさまへ…」を読んだので、その感想です。

いわゆる「少女漫画」は、だいぶ前に「風と木の詩」を読んで以来だとおもいます。

 

感想。といっても、ご存じの方はご存知かと思うが

例の「ソロリティ」なので(笑)

どうしても「マリア様がみてる」との比較になってしまいます。

 

ちなみに今野緒雪先生自身は「おにいさまへ…」の影響は語ってはいないのではないかと思われます。

(違っていたら教えていただきたい)

 

(質問:いわばBLと対になるようにして生まれた『マリア様』ですが、今野さんはBLを読んでいましたか?)

今野:ハードなものは読んでいないですけど、ソフトなものは。萩尾望都先生、木原敏江先生、山岸涼子先生……BLというよりも少年愛的なものですが、私の世代は漫画で触れるひとが多かったと思います。もともと、漫画は大好き。いま名前を挙げた先生もそうですし、大島弓子先生、岩舘真理子先生、内田善美先生、小さい頃だったら上原きみ子先生……いっぱいいて挙げ切れないです。

(ユリイカ・2014年12月号「百合文化の現在」35ページより)

 

ユリイカのインタビューでも直接、その名前は出てきていません。

が、元漫画家志望だった今野先生、池田理代子作品を読んでいない、とは考えられない、のではあるまいか?

 

もとい、比較してみます。

・「おにいさまへ…」×「マリみて」似ているところ①

「ソロリティ」=「山百合会」

 

ふうむ。

「山百合会」は「マリみて」誕生以前――誕生の二十数年前から存在していたのか……と思ってしまいました。

 

いろいろと違うところはありますが、

「学内の選民による貴族主義的な秘密結社」というところは似ています。

こういう見方は 「マリみて」ファンは否定なさるとおもいますが、

身も蓋もない言い方をしてしまえば、そういうことです。

 

おしえてあげるわね

ソロリティというのはね…

アメリカの女子大生の社交グループのことなの

会員になるには 家がらや財産や

教養、容姿、人がら

健康などを上級生のメンバーズに審査されて

投票で選ばれるわけ

(マーガレットコミックス「おにいさまへ…①」28ページより)

 

まあ、そこを「姉妹」(スール)という愛のシステムで救っているのが

今野緒雪の独創なわけですが。

 

・「おにいさまへ…」×「マリみて」似ているところ②

反「ソロリティ」=反「山百合会」

 

そして……貴族主義的秘密結社を否定する勢力がある、というのも似ています。

「おにいさまへ…」――薫の君、こと折原薫

「マリア様がみてる」――ロサ・カニーナこと蟹名静

 

ただ作家として、根っこにある理論が……

池田利代子――マルクス主義・フロイト心理学という(はっきり言って古臭い)19世紀的イデオロギー

今野緒雪――資本主義的な「ゲームと儀式」

という風にまったく異なるため、

今野緒雪は「山百合会」を生かし続けますが、

池田利代子は「ソロリティ」を廃止してしまいます。

 

マルクス主義から見て「ソロリティ」の貴族主義は許しがたいですし、

フロイト心理学から見ると 「同性愛」は「異性愛」に至る過程でしかありませんので

やっぱり「女の子による女の子のためのシステム」などというものは否定されてしまうわけです。

 

・「おにいさまへ…」×「マリみて」似ているところ③

信夫マリ子=細川可南子

 

「おにいさまへ…」――おそらく一番魅力的なキャラクターである 信夫マリ子が

「マリみて」のモンスター的異物・細川可南子に似ていてたまげました。

 

二人とも男嫌いの設定ですが……

 

ちょっとあなた!

男の人とつきあっているんですって!?

だめよッ!! だめだめだめ ぜったいにだめ

あなたはね知らないのよ 男がねえ どんなにきたならしくて

おぞましくて じぶんかってで

おまけに無責任で いやらしくて

狂暴で はじ知らずで

そりゃあ多少はやさしいけど そんなのは見せかけだけでねーっ

とにかく男の人なんて だめーっ!!

(マーガレットコミックス「おにいさまへ…②」46ページより)

 

「男の人のこと嫌いなの?」

「大嫌いです。最低の生き物だと思います」

 そう宣言するからには、本当に男の人のことを大嫌いなのだろう。

(中略)

「最低な男の人もいるかもしれないけれど、すべてじゃないわよ」

「でも、大半はそうです」

 可南子ちゃんは、自信を持って言い切った。これは、かなり根深そうである。

「でも、男性がいて女性がいて、それで人類が成り立っているって保健の授業で習ったはずだよ。可南子ちゃんにだって、お父さんいるでしょう?」

「いません」

「えっ、……そ、そう」

「あんな人、父親じゃありません」

「――」

(コバルト文庫「マリア様がみてる 涼風さつさつ」143ー144ページより)

 

信夫マリ子・細川可南子 両者ともに「父親」との関係に悩んでいるあたりも似ています。

 

□□□□□□□□

その他、似ているところはいろいろあるんですが……

……

〇主人公(御苑生奈々子&福沢祐巳)がそれぞれ 幼児体型や無垢さを強調されるところ。

〇フランス趣味

など……

キリがないので今度は違うところをみていきます。

 

・「おにいさまへ…」×「マリみて」違うところ①

私服―制服

 

「おにいさまへ…」―「青蘭学園」……制服はいちおうあるが、皆私服で通学している。

「マリみて」―「リリアン女学園」……「汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ」

 

「マリア様がみてる」は、例の名高いオープニングが

「タイが、曲がっていてよ」という名ゼリフですので、

これは制服(セーラー服)でないといけないわけです。

 

「おにいさまへ…」は、毎回毎回、主要キャラクターは違う服装で登場します。

どうも、少女漫画というメディアの特性上――読者サービスの面から考えて――私服が選ばれたのはないか?

という気さえしてきます。

あと、戦前のエリート女学校「文化学院」が、制服を定めていなかったというのと関係があるのかもしれません。

 

しかし、なぜ「おにいさまへ…」は私服でなければならず、

「マリア様がみてる」は制服でなければならないか?

うまく言語化できそうにありません。

この「私服」―「制服」問題はなんだか日本文化の根幹に関わるような、そんな気さえしてきます。

 

・「おにいさまへ…」×「マリみて」違うところ②

異性愛に収れんする―収れんしない

 

「おにいさまへ……」―折原薫&辺見武彦、信夫マリ子&一の宮貴 二組の異性愛カップル

「マリみて」―鳥居江利子&山辺先生、という例外はあるが、基本異性愛は存在しない

 

上記の通り、池田理代子先生はどうも フロイト心理学の影響下にありそうですので、

同性愛は否定せざるを得ない。

正直、「おにいさまへ…」の後半はつまらんのですが、

つまらん原因は、異性愛に収れんしてしまうあたりにあるとおもわれます。

 

・「おにいさまへ…」×「マリみて」違うところ③

スティグマを負った人物―スティグマは存在しない

 

「おにいさまへ…」―マイナスのスティグマを負った人物が多数登場。

「マリみて」―藤堂志摩子のエピソードで明らかなようにスティグマはまったく問題視されない。

(お寺の娘であることを気に病んでいるが、まわりはまったく気にしていない)

強いて言えば、小笠原祥子が例外なのか??

 

「おにいさまへ…」はマイナスの烙印を押された人物ばかりです。

・御苑生奈々子→父と血がつながっていない。後妻の連れ子。

・信夫マリ子→父はエロ小説家、と罵られる。

・朝霞れい→めかけの子、と罵られる。

さらに、主要キャラクターである 折原薫は乳がんの手術の傷跡があります。

主要キャラクターは全員が全員、なんらかのスティグマを負っており、差別され、

それが物語を推進するという――まあ、きわめて古臭い基本構造があります。

 

「マリみて」の基本構造は……

詳しくはトマス・ピンコのブログの「マリみて」関連の記事をみていただきたいですが……

「ゲーム」→「儀式」→「ゲーム」→「儀式」……

というイデオロギーから自由な構造をとっているため、

スティグマは物語を推進する燃料にはなりえませんし、

リリアン女学園内部にはそういった差別構造は見当たらないようにおもえます。

 

□□□□□□□□

とまあ、「おにいさまへ…」×「マリア様がみてる」の比較は以上となります。

なんだか「おにいさまへ…」を古臭い、と片づけてしまったような感じもしますが、

信夫マリ子の魅力、そして朝霞れいを想い続ける主人公は、作者の古臭いイデオロギーからはみ出ているようにおもえますし、

(だからこそ、作品としては破綻しているのだとおもう)

 

なぜ「おにいさまへ…」は私服であり、「マリア様がみてる」は制服なのか?

というのはけっこうデカい問題をうしろに秘めているような気もします。

 

さいごに……

御苑生奈々子と信夫マリ子が一緒にお風呂に入るシーンなんですが、

 

この1カットが、

山岸涼子先生「白い部屋のふたり」の表紙にそっくりだ、というのは何事なんでしょうか??

 

例の「ユリイカ」の「百合文化の現在」で……

 

「女どうしの愛」が少女マンガにおいて描かれ始めたのは、男どうしの愛=少年愛が描かれ始めたのと同じ、七〇年代初めのことであった。

 最初期の作品に、仲のいい女友達にボーイフレンドができたことへの少女の嫉妬といらだちを描いた、矢代まさこ「シークレットラブ」(一九七〇年『デラックスマーガレット』掲載)があるが、これはその後の展開の基になったとはいいがたい。

 この時期、衝撃的な現われ方をして、その後の「女性同士の愛」作品の原型を作ったと言えるのが、一九七一年、『りぼんコミック』に掲載された山岸涼子「白い部屋のふたり」である。

(「ユリイカ」2014年12月号「百合文化の現在」101ページ、藤本由香里『「百合」の来し方 「女同士の愛」をマンガはどう描いてきたか?』より)

 

なのだそうで、

(だからわたくしはけっこうなプレミア価格のついた中古コミック本を買ってしまったんですが)

 

つまりは山岸涼子リスペクトという意味でのこのカットなのか?

それともあたしの方がすごいのが描ける、という意味のカットなのか?


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