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今野緒雪=小津安二郎 「マリア様がみてる」=小津作品。

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とうとう、とんでもないことを言い出しましたが……

 

気づいてしまったからには仕方がない。

なぜ、わたくしがこれほど「マリみて」に、はまってしまったのか?

 

これはもう 「今野緒雪=小津安二郎」 という公式を提示するよりほかないわけです。

 

□□□□□□□□

以下、証明なのですが……

まずは「少女小説」の歴史における、「マリア様がみてる」の特異性というのをみていきたい。

 

①吉屋信子、氷室冴子、今野緒雪

少女小説の三大巨匠の 物語の組み立て方をみていきたいとおもうのです。

「物語」を動かす原動力、エンジン。そもそもの動力のことです。

 

たとえば……

「桃太郎」の物語でいうと、それは

親孝行というイデオロギー、他国を侵略して財宝を持ち帰る植民地主義イデオロギーであったりします。

(自分を育ててくれたおじいさん・おばあさんに恩返しをする。 得体のしれない鬼は退治してしかるべきである。等々)

 

「白雪姫」だと、それは

めんどうくさい思春期・成長期はすっ飛ばして、はやく大人になりたいローティーンの女の子の願望であったりします。

(目を覚ますと、そこに王子様が→結婚)

 

「物語」というのは表面上に見えている現象のその奥に……

必ず上記のような 原動力を持っているものです。

 

ただ、これからみていきたい三大巨匠は プロの作家ですので

エンジン・動力、はもっと複雑になるのですが……

 

ものすごく単純化して

結論を書いてしまうと――

・吉屋信子→月並み(ステレオタイプ)な物語。

・氷室冴子→イニシエーション。神話。

・今野緒雪→「構造」の空隙・違和感・〈マクガフィン〉=〈対象a〉

ということになります。

ひとりひとりみていきましょうか。

 

a,吉屋信子

吉屋先生は 名作「花物語」をざざっとめくってみればわかるのですが、

・生き別れの美しい母

・被差別部落

・狂気・精神病

・家族の病気・死

・不本意な結婚

・都落ちモチーフ

・親の事業の失敗

といった月並みな物語。がエンジンです。

既視感、といいますか、時代がかった大げさなおはなしといいますか、

 

はっきりいうと、「ベタなドラマのシナリオ」という感じ。

 

ただ、

 そして二人はそれから波止場近くの海港の見渡せる公園に出て行った。

 立ち入るべからずの柵のある芝生の上に、この不逞の少女達は平気で牝鹿のような、しなやかな靴下の脚を投げ出した。そこから見える港には、二三艘の巨船が錨を降ろしている。

「あれフランスのお船ね」

 と陽子が黄いろいマストの上に三色の仏蘭西の旗のひるがえるのを見て指さした。

「お船って、形のいいものねえ」

 陽子が感嘆して見とれた。

 陽子は子供のように船を喜んで眺めた。牧子もそうして船を眺めているうちに、いつかは、ああした船に乗って、島影一つ見えぬ広い広い果てしない大洋の中を進みつつ、水平線に沈む紅き夕陽の光に流離の涙を流しつつ、地球を旅してみたいと思う大きな(夢)の願いが胸のうちに湧き出でた。

 初秋の黄昏近き海空は、おいおいに沙のカーテンをおろしたように影さして、そして船の円い窓々は、ぽっと美しく灯ともった。

(国書刊行会、「吉屋信子少女小説コレクション1 わすれなぐさ」190~191ページより)

 

こんな名文も、こんな世界も……

もはやだれにも書けないわけで、それにプラスして

中原淳一だの松本かつぢだのの美麗な挿絵と共にパッケージされてしまうと……

もはや向かうところ敵なしの風格です。

 

b,氷室冴子

氷室先生は、一言でまとめてしまうと

「イニシエーション」の物語 です。

ひとりの女の子が「大人になる」あるいは「大人になりつつある」 その物語。

 

氷室冴子という人は

吉屋信子リスペクトから出発して

吉屋信子というクラシックをぶっ壊す、

ポストモダンというのか 脱・構築というのか、

そんな感じの人です。

 

 追い出されたというのは冗談にしても、何か複雑な生いたちでもあるんじゃないかな。あの子が家の話をあまりしないのも、そのせいかもしれない。少なくとも、吉屋信子大先生の小説ではたいてい何かあることになってるし。

(集英社コバルト文庫、氷室冴子著「クララ白書Ⅰ」64ページより)

 

「クララ白書」

主人公のしーのが親友のマッキーのことを気遣っている心理描写なのですが……

じっさいは 「吉屋信子大先生の小説」にでてくるような、「何か複雑な生いたち」なんてものはなく、

ものすごくくだらないおはなしだったりします。

「しーの」だの「マッキー」だのというふざけた固有名詞も 吉屋信子作品にはまったく出てきませんしね。(当たり前だ)

 

で、イニシエーションの話ですが――

「クララ白書」のオープニングは

徳心学園中等科の寄宿舎「クララ舎」に入舎することになった

しーの・菊花・マッキーが、入舎の課題をいかに果たすか、というおはなし。

 

 私達は大食堂の鍵をあけて入り込み、なんとか調理室に忍び込み、さらに食糧庫に踏み込まなきゃならないのよ。そして何をするかというと、ドーナツを三年生舎生+舎監シスター分、つまり四十五人分つくりあげ、大皿に盛って大食堂の真ん前の舎監長のテーブルに恭しく置いとくんだって。

 これは近年にない厳しい課題だそうです。去年は北斗大学の学生寮の窓ガラス一枚を頂いてくるだけのことだったとか。四十五人分のドーナツなんて、どうつくればいいのよ。期限は二週間。あと一週間しかないんだよー。もし成功しなかったら、まさか追い出されはしないだろうけど、これからずっと同じ三年生から軽蔑されるわ。そんなのはたまらない。私はやります。やってやる――。

(同書12~13ページより)

 

心底すごいと思うのは、大食堂侵入のシーン。

 

「あの窓ね」

 菊花がごくんと息をのんだ。

「まず、しーのがやんなさいよ。あんたが一番小さいんだから」

 私は頷き、窓に頭を突っ込んだ。しかし蒔子に止められた。足から入らなくては、降りる時大変だというのだ。

 そこで椅子を持ってきたが、低くて使いものにならない。それでは、とテーブルを運んできたが、テーブルと小窓の高さはほぼ同じで、小窓が十センチばかし高いだけだ。

 私は机に上がって腕立て伏せの格好になり、両足をいっぺんに小窓に突っ込んだ。お尻のところがちょっとつかえた程度で思ったよりすんなり入れた。しかし胸が少しもつかえなかったのは少なからぬショックではあった。菊花も蒔子も胸と頭がつかえ、ひいひいと悲鳴をあげていたのだからなおさらだ。

(同書46~47ページより)

しーの達は ドーナツを作るべく大食堂に夜中侵入しなければならない。

そのために小窓から忍び込むわけですが……

これがまあ ミルチア・エリアーデのいう「イニシエーション的胎内復帰」そのまんまなんですわ。

 

 イニシエーション的胎内復帰の第二の型についていえば、おびただしい数の形態と変化型を含んでおり、諸宗教や形而上学や高度に発達した社会の神秘主義にまで、ますます複雑な意義を担わせるようになった分流や展開を生み出した。というのは、この胎内への危険な復帰のイニシエーションの型は、第一に英雄が海の怪物にのみこまれ、やがてその腹を押しやぶって勝ち誇ってあらわれるという神話に見られる。第二には、シャーマンの神話と奇跡的な語り物――シャーマンは恍惚(トランス)の間に巨大な魚や鯨の腹中に入ると想像されている。第三に、「歯の生えた膣(ヴァギナ・デンタタ)」をイニシエーションとして通過する神話とか、地母神の口とか胎内と同一視される危険な洞窟や岩の裂け目へ降下すること――この降下は英雄を他界へ運ぶことである。最後の第四は、絶えずゆれ動く二つのひき臼の間、刻々にかみ合わさろうとする二つの岩の間、糸のように狭くナイフの刃のように鋭い橋、「相反通路」(paradoxical passage)に関係ある神話や象徴のすべてに認められるものである(相反(パラドクシカル)とは、日常経験として不可能を意味する。今引用した通路のイメーヂはのちの神秘主義や形而上学で、超越状態になることを表現するのに使われる)。

(東京大学出版会、ミルチャ・エリアーデ「生と再生」110~111ページより)

 

つまりこれは「神話」なのです。

しーの達三人の英雄は、「歯の生えた膣」をくぐりぬけて 地母神の胎内に侵入し、ドーナツを揚げる、という――

不可能なミッション(イニシエーション)を達成するわけです。

 

以上、氷室冴子先生についてはいろいろ書きたいこともありますが……これまでにしておきます。

ようは氷室作品の土台にあるのは「神話」ということです。

あ。そうそう、

しーのが 学園祭で演じるのが 古事記のサホビメ・サホビコの近親相姦カップルの「神話」であるあたりもやはり、注目したいところ。

 

c,今野緒雪

で、肝心の「マリみて」なのですが……

まあ、さんざん見てきた通りなのですが……

福沢祐巳ちゃんの曲がったタイ=「構造」の空隙=〈マクガフィン〉=〈対象a〉

とかなんとか、いってましたが、

吉屋信子、氷室冴子と比べるとわかりやすいんじゃないでしょうか?

 

ようするに 小笠原祥子×福沢祐巳のカップルの物語に、ですね。

吉屋信子的な ステレオタイプな物語は入っていないわけです。

親の事業の失敗がどうとか、身内の死、とか、そういうわかりやすいおはなしはないわけです。

 

といって、氷室冴子みたいな……

エリアーデ・ユングみたいな、なんか神話モチーフのおはなしがあるわけでもない。

 

あるのはただ、リリアン女学園の大スター・小笠原祥子さまに「妹」がいないという

「構造」上の不均衡、なわけです。

表の赤丸の部分です↓↓

この空間の歪みが 祐巳ちゃんの曲がったタイによって埋められるというお話しなわけです。

(もちろん これを補完するのが サファイアだったり、ガラスの温室だったりするわけです)

 

2巻目「黄薔薇革命」は

なぜ、不安定があたりまえの山百合会の構造の中で

黄薔薇ファミリーだけが安泰なのか?

ということをめぐるおはなし。

つまり 不安定があたりまえの中 「安定」していること それ自体が不均衡なわけです。

 

3巻目「いばらの森」 4巻目「ロサ・カニーナ」は、

白薔薇姉妹 佐藤聖&藤堂志摩子の間にぽっかりあいた 空隙、空間の歪みをめぐるおはなしです。

 

ついでのついでにいってしまいますと、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)のかつての恋人の名前が

「栞」

という――ページとページの間に挟むもの、なのだから、

どう考えても 今野先生の意図は明らかです。

 

志摩子さんと聖さまの間に (不在・ゼロの)栞さんがはさまっているわけです。

 

□□□□□□□□

②「マリア様がみてる」と小津安二郎作品の共通項

 

で、やっと小津との比較ですわ。

ここまでみてくれば なんとなく 「マリみて」と小津作品の共通項も見えて来たのではなかろうか。

まあ、手始めにみていくと、

 

a,わかりやすい物語・神話はない。(なにも起こらない)

b,すこぶるブルジョア的である。

 

というのは、誰にもわかるところですね。

国家機密をめぐってスパイたちが暴れまわることはないし――

神話の英雄みたいな人物が暴れまわることもない。(例、黒澤の「姿三四郎」「七人の侍」「用心棒」)

親・子供が病死してうんぬんというのもあまりないし――(両者ともあることはある。がメインにはならない)

それから どっちかというと生活に余裕のある社会階層の人たちが描かれる点も似ています。

貧乏人はあまり出てきません。

 

おつぎ。

c,姉妹(スール)が描かれる。

というのは、どうでしょう。

 

考えてみると、小津作品。女の子同士のイチャイチャが多いです。

まずは名高き、「非常線の女」(1933)のキスシーン――

(当ブログは 一体何度このショットを掲載したのだろうか??)

 

田中絹代が 洋装の悪い子で、

水久保澄子が和装の良い子。

そして

「浮草物語」(1934)の 八雲理恵子×坪内美子

「戸田家の兄妹」(1941)の 桑野通子×高峰三枝子

といった姉妹(スール)が描かれまして……

 

戦後の紀子三部作。

 

「晩春」(1949)の 原節子×月丘夢路 のイチャイチャ。

 

「麦秋」(1951)の 原節子×淡島千景 (淡島千景の実家の料亭のシーンでけっこうイチャイチャしますな)

 

……にしても、何でしょう。この完璧、としかいいようのない構図は……

「東京物語」(1953) の 原節子×香川京子

 

香川京子は原節子のことを「お姉さん」と呼びます。

このお上品なイチャイチャの感じは なんとなく 小笠原祥子×福沢祐巳を想像したくなります。

二人の背後の提灯箱には 「マリア様がみてる」における聖なる数字「3」が示されています。

いや、べつに 今野緒雪は「東京物語」を意識している、とかではなく……ただの偶然ですが。

 

 

というように 小津安二郎という人は 姉妹(スール)のイチャイチャばっかり撮っていた人

と見れなくもないわけです。

――にしても、メンツが豪華すぎますけど……

 

d,空間の歪みを巡る。

 

「マリみて」と小津作品の共通項。

文句あっか?? という感じの強力な共通点なのですが……

 

小津もやっぱり「構造」の歪み・空隙をめぐって作品を作るタイプの作家なわけです。

 

まずは紀子三部作――「晩春」をみていきましょうか。

「晩春」は、突き詰めてしまえば……

 

S91 竜安寺 方丈の前庭

小野寺「――しかし、よく紀ちゃんやる気になったね」

周吉「うむ……」(と考えている)

小野寺「あの子ならきっといい奥さんになるよ」

周吉「うむ……持つならやっぱり男の子だね、女の子はつまらんよ――せっかく育てると嫁にやるんだから……」

小野寺「うむ……」

周吉「行かなきゃ行かないで心配だし……いざ行くとなると、やっぱりなんだかつまらないよ……」

小野寺「そりゃ仕方がないさ、われわれだって育ったのを貰ったんだもの」

周吉「そりゃまァそうだ――」

 と笑うが、その笑いにはどこか寂しい影がある。

 ――石庭のたたずまい。

 

シーン91 竜安寺の石庭の場面がすべてを語っているようです。

誰かから「娘」を貰った以上、自分の「娘」は誰かに与えなければならない。

この人類の基本「構造」――

構造主義の御大 クロード・レヴィ・ストロースにいわせると……

(前にもどこかで引用しましたが)

 

 われわれが定義したような親族の基本単位の本源的で還元不可能な性格は、実は世界のどこでも例外なしにまもられている近親相姦の禁止の直接の結果である。近親相姦の禁止とは、人間社会において、男が女を獲得するには、これを別の男から得るよりなく、後者は女を娘なり姉妹なりの形で前者に譲り渡すということである。

(みすず書房、クロード・レヴィ・ストロース著「構造人類学」53ページより)

 

「晩春」は 亡くなった紀子の母というゼロ 空間の歪みをめぐって 「構造」が展開されるわけですが……

 

京都の宿屋で

原節子が虚空に見つめるもの――

 

あの映画史上名高き「壺」のショットが指し示しているものは

母=ゼロ・空間の歪み なのか?

それとも

近親相姦という許されぬ「享楽」(ラカン/ジジェク)なのか??

 

いずれにせよ、小津安二郎の方法論は 今野緒雪のそれと酷似しています。

 

「麦秋」だってそうです。

 

「麦秋」の中心は 間宮家の次男坊 省二です。

南方で行方不明――

ほぼ戦死したのだろう、と皆があきらめている……

 

そういう宙ぶらりんのゼロ・空間の歪み・空隙をめぐって作品は組み立てられています。

 

で、こちらも名高き S75

トーハクの庭の一シーン。

 

飛んでいく風船のショット。

 

スクリーン上をひょこひょこと浮遊する黒い 宙ぶらりんの「染み」

空間の歪み。

この風船はすなわち、間宮家の「構造」の染み、歪み。空隙そのものなわけです。

 

そしてまあ、「映画」そのものの空隙、とさえいえるかもしれません。

 

「東京物語」では この「構造」の歪みがあちこちに仕掛けられている感じです。

 

S6

とみ「空気枕、そっちへ這いりやんしたか」

周吉「空気枕、お前に頼んだじゃないか」

とみ「ありやんしぇんよ、こっちにゃ」

周吉「そっちによう、渡したじゃないか」

 

空気枕という 空気(=ゼロ)なのか 枕(=東山千栄子の死のメタファー)なのかよくわからん物体が

どこかへ行ってしまった。

構造の歪みを巡る 「東京物語」がスタートします。

 

東京でのバスツアー

二人が見つめるものは 皇居という名の「空虚の中心」(ロラン・バルト)です。

 

そして紀子(原節子)の戦死した夫――昌二……

戦死するのは決まって次男……(小津安二郎は当然次男坊)……

 

S70

周吉「ああ、この昌二の写真、どこで撮ったんじゃろう」

紀子「鎌倉です。お友達が撮って下すって……」

とみ「いつごろ?」

紀子「戦争にいく前の年です」

とみ「そう――(そして周吉に)まばいそうな顔をして……」

周吉「ウーム……これも首うまげとるなあ」

 

まばいそうな……は、当然

↑ひとつ手前の 皇居(=空虚の中心)をみつめる東山千栄子の表情と重なります。

 

それから……

「写真」「首を傾ける動作」というのは 「マリみて」に頻出します。

んー

タイプの似た作家というのは 似たモチーフに惹かれるものなのか??

 

そして 熱海。

東山千栄子の立ち眩みのショット。

彼女は 空間の歪みに呑みこまれてしまったのでしょうか??

 

そして 遺作の「秋刀魚の味」まで 小津の方法論は変わらないわけです。

この作品の「構造」の中心は 当然 「お母さん」というゼロ。歪み。

 

そして

「帝国海軍」という

ゼロ……空間の歪み。

 

そして、

旧帝国海軍軍人であった平山周平(笠智衆)が

軍艦マーチのかかるバーで 死んだ妻のおもかげを 岸田今日子演じる女の中に見ます。

 

□□□□□□□□

 

んーどうです?

納得していただけましたでしょうか?……

 

◎今野緒雪=小津安二郎

証明できたのでしょうか??

 

いっそのこと、「マリア様がみてる」実写版、小津安二郎に撮ってもらいましょうか??


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