「こうろうむ」――…ホンロウモン、である。
岩波文庫で全12巻。
中国清朝の、ま、全盛期…乾隆帝の時代の長編物語。
とうとう読んでしまいました。
いろいろ感想をグダグダ書いていこうとおもいます。
感想①「小説」というジャンルに関して。
しょっぱな、小難しいことを書きます。
前に「南総里見八犬伝」(岩波文庫で全十巻)
を読んだ時にも感じたことを今回「紅楼夢」でも感じました。
それは…
「なぜ東洋は『小説』(という文学ジャンル)を生まなかったのか?」
という疑問です。
あるいはこう言い換えてもいいです。
「アジア・オリエントの諸国家に対し、明らかに後進文明圏であったヨーロッパは、なぜ『小説』を生んだのか?」
と。
『小説』とは何か?…というのは
色んな説明の仕方があるとおもいますが、
僕のいう『小説』というのはすなわち、
「『物語』の崩壊形態」であるといってよいです。
――かつて『物語』というものがありました。
それは人間の生活の背後に
「神々の闘争」(ギリシアの物語)であるとか、
「救済神話」(ユダヤ・キリスト教の物語)であるとか…
そういう、人間の生活以上の大きく、かつかっちりとした構造を
措定する、というそういう仕組みのことです。
つまり
「A国とB国が戦争をしてA国が敗けた」
このことを
「A国を応援する神々が、B国を応援する神々に敗けた」
というような描写をするシステムのことです。
(ホメロスがそうですな)
因果応報というのも、ま、そうです。
なにか悪いことがAさんの身に起きると、
それはAさんの前世の悪い行いのせいである、とする…
これは人間の生活が「輪廻」というシステムに支配されている…という
一個の『物語』であるわけです。
(んー、べつに仏教を茶化そうとしているわけではないです)
えー…
ようするにこれが『物語』というものです。
ところがヨーロッパブンガクの進化方向は
この非常にかっちりと安定した構造を持っていた『物語』を
どんどん崩壊させていく方向をとったのです。
その崩壊の端緒が一体なんだったのか?
そのあたりは僕にはよくわからんのですが、
たぶんダンテの「神曲」あたりがあやしいのではないかとおもわれます。
「神曲」は、…ま、誰もがご存知の通り、詩人ダンテが
永遠の恋人ベアトリーチェに導かれ、地獄、煉獄、天国をさまよい歩く…
そういう非常に「かっちりと安定した構造」を持っております。
だが…だが…
この『物語』は完全に裏切られる。
というのは、本来ダンテが想定したはずの構造によれば
もっとも卑しく、もっとも汚らわしいはずの「地獄」が、
どうしたわけだか
もっとも魅力的で、もっとも崇高になってしまったのです。
実際に読めばすぐにわかるとおり…
「地獄」が一番楽しく、「煉獄」まあまあ楽しく、
「天国」に至っては読むに堪えないつまらなさ、となってしまっている。
初期ルネサンスの巨人ダンテはこうして、
本人の意思とはかかわりなく、『物語』をぶっ壊してしまったわけです。
で、この壊れかけた『物語』が完全にぶっこわれて『小説』が誕生した瞬間。
これははっきりしている…とおもいます。
すなわちセルバンテスの『ドン・キホーテ』のことです。
世界じゅうどこを探してもこの作品より深遠で力強いものはない。これはいまのところ人類の思想の最も偉大な、そして究極の言葉である。これは人間が表現しうるかぎりの、最も辛辣な皮肉である。そこでもしもこの世の終わりがきて、まあ、あの世のどこかで、「どうだね、地上でのお前たちの生活が分かったかね、それについてお前の引き出した結論は?」とたずねられたならば、「これがわたしの人生についての結論です――こんな結論を引き出したということであなたはわたしを非難することがおできになりますか?」と、黙ってドン・キホーテを差し出すこともできようというものである。
(ちくま学芸文庫・ドストエフスキー「作家の日記2」271ページより)
…と、ドストエフスキーが書いているのもむべなるかな。
セルバンテスは、かつてあった『物語』を
強烈に皮肉り、ぶち壊し、そうやって出来た荒野に、
ドン・キホーテ、なる一人の「主体」、イデオローグを立たせたわけです。
こうして『物語』に変って『小説』が登場し…
そしてそれが19世紀のフランスやらイギリスやらロシアやらで絶頂期を迎えて、
20世紀、ジェイムズ・ジョイスなる男がそれをまたぶっ壊す…
ということになりますが、そのあたりはま、いいです。
(というか書く能力が僕にはないです)
―――…
…で、ようやく話が東洋に戻ります。
この『小説』の定義に従えば、
あまりといえばあまりにかっちりした構造をもった「八犬伝」は
もちろん『小説』ではありません。これは『物語』です。
日本人は夏目漱石によって『小説』なる…
おっそろしく乱暴かつ暴力的なブンガクジャンルを知るのです。
(泉鏡花あたりの端正な『物語』とソーセキの『猫』を比べてみればよくわかりますな…)
11世紀に「源氏物語」を生んだ日本文学は
自分の力で『小説』を生むことはけっきょくなかったわけです。
では…
「紅楼夢」はどうなのか?
「紅楼夢」は『小説』なのであろうか?
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結論からいうと…
ぼくは…なんか…「紅楼夢」は、
(ヨーロッパ的な意味の)『小説』ではないにしても、
でも…でも…
『物語』をぶっ壊す…
『物語』にヒビを入れるところまではいってるんじゃないか??
と思っております。
その理由は…主人公・賈宝玉が叫ぶ…
女の子のからだは水で出来てる。
男のからだは泥で出来てる。
ぼくは女の子を見ると、せいせいした気持ちになるが、
男を見ると、臭くって胸がむかつくんだ。
(岩波文庫「紅楼夢(一)」60ページより)
…この強烈なイデオロギー宣言によります。
金持ち女好きお坊ちゃん賈宝玉は
この女尊男卑イデオロギーにより、
「男尊女卑」という…
あまりにあたりまえすぎる『物語』にヒビをいれるわけです。
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うー…「紅楼夢」読んでない人にはなんだか分からない記事になりました。
次は「紅楼夢」の内容にも触れていこうか、とおもいます。
あ、あと…
『小説』『物語』というコトバの使いかたですが、
僕個人のやり方で、アカデミックなものでは全然ないです。
あと…
『小説』>『物語』…で、
なにがなんでも『小説』の方が偉い、ということは全くない。
それは「南総里見八犬伝」を読めばすぐにわかることです。
あるいは「オデュッセイア」やら「創世記」やら…
どっちが進化している、ということでもなく、
ただ単に出現の時間が『小説』の方が後だった、ということになります。
勘違いなさらぬよう。
なんか妙に長くなりました。次回…あるかな??