……と、大げさなタイトルですが、
アサヒグラフ・昭和3年5月9日號に
昭和3年当時の銀座通りのパノラマ写真が載っていたので、
写真の中のそれぞれの店名を探ってみようという試みです。
本気でやるとすると、上京して中央区の図書館なり、なんなりに行ってみるべきだとおもいますが、
そこはイバラキ県民のトマス・ピンコ、重い腰をあげずに
手持ちの資料、およびネット情報だけでとりあえずやってみることにします。
ちなみに手持ちの資料は
・安藤更生著「銀座細見」(中公文庫)
→大正10年8月末日・大正14年5月11日・昭和5年12月20日の銀座通りの店名が掲載されている。
・赤岩州五編著、原田弘・井口悦男監修「銀座 歴史散歩地図 明治・大正・昭和」(草思社)
→大正11年・昭和5年・昭和12年等の銀座の地図が掲載されている。
・今和次郎・吉田謙吉編著「考現学採集(モデルノロヂオ)」(学陽書房)
→昭和6年の銀座通りの街並み・広告のスケッチが掲載されている。
以上3冊となります。
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では、新橋側からやってみます。
写真① 銀座八丁目(南金六町)
こんな感じです↓↓
撮影時、昭和3年の時点では 銀座は四丁目までしかなく、
このあたりが「銀座八丁目」という地名に変わったのは昭和5年のことらしいです。
なので、本来は当時の地名「南金六町」と呼ぶべきですが、
分かりづらいので 「銀座八丁目」と呼ぶことにします。
新橋側から番号をふっていきます↓↓
そして、それぞれの店名を以下に書いていくわけですが――
資料・写真からはっきりと店名が特定できるものもありますが、
いっぽう、さっぱり店名が判らない店も多数あります。
そこで……
〇……店名が確定しているもの。
△……店名が確定できないが、ある程度推測できるもの。
×……店名が不明なもの。
この3パターンの記号を付けていくことにします。
1……×不明
しょっぱなから不明です。
今なら天國ビルがある、この場所。
天ぷらの天國がこの角地に移転してきたのは昭和5年のことらしいです。
天國のHPによると木造二階建て「御殿のようだ」といわれた豪華な店舗だったらしいです。
もとい、……この場所。
「銀座細見」によると 大正10年は「新橋ビヤホール」 大正14年は「洋酒食料品精養軒支店」となっております。
写真をよく見ますと 「高級レインコート」という文字がみえ、洋服屋さんかな? とおもったりするんですが、
横書きの文字は「大オクシヨン」? 大オークション?? とも読め、
そうなるとなんだか人だかりがしているのも納得ではあるんだが?
とにかくよくわかりません。
あるいは「大木クシヨン」……「大木クッション」だったりして(?)
しかしクッション屋という商売があるのか?
当時、自動車の座席のことも「クッション」といったようですが??……
きりがないのでやめます。
2……〇株式會社・電友社(電氣之友社)
これは確定。電機関係の会社か? とおもったのですが、
どうも出版社であるらしいです。
「銀座細見」では大正10年 大正14年 昭和5年にその名前が見えますので
移り変わりが激しい銀座にしては長生きな会社です。
「モデルノロヂオ」のスケッチから推測するに……
昭和5年の時点では 3~4階建てくらいのビルヂングに建て替わっていたような(?)感じです。
これは電友社だけの限らず、
銀座・そして東京全体の傾向ですが……
昭和3年では 関東大震災後の「バラック建築」が残っていたが、
昭和5年では きちんとした「本建築」に建て替え始めた。
ということが諸資料から言えるように思えます。
↓↓しかし……ごちゃごちゃと3段も「電友社」「電氣之友社」「電友社」と書き並べるくどいセンス(笑)……
3……△ストック商會
△ですが、ほぼ確定〇に近いと思います。
「銀座細見」の記述では 「電友社」のお隣は「ストック商会」
そして「モデルノロヂオ」の銀座通りのスケッチは ちょうど写真のこの形をしております↓↓
もちろん建物は同じでも中身は変わる、というパターンもよくありますけどね。
ストック商會は
婦人服屋さんであった由。
店構えも上品な印象です。
ちょうど店の前を通りかかったのは 学生服の男の子と和服の女の子のカップルでしょうか?
など色々想像できて楽しいです↓↓
4……〇株式會社 宇都宮回漕店
これは確定。写真からはっきり店名がわかります。
「回漕店」?
と現在の目でみると「??」となりますが。
当時の東京は運河があちこちに張り巡らされた「水の都」だったわけです。
そしてトラック運送はあまり発達してなかったでしょうから
まあ、今の運送会社みたいなものだったんでしょう、きっと。
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写真② 銀座八丁目(南金六町・出雲町)
2枚目の写真にうつります。
ここはごちゃごちゃ間口の狭い店が多いです。
先回りして言ってしまいますと
番号9の店が高名な「カフエ・プランタン」になります。
5……〇リグレー株式會社(チューインガム)
これも確定。
このリグレーはなんとチューインガム屋さんであった由。
(そういう商売が成り立ったのか!(笑))
前掲の「銀座 歴史散歩地図」p50に
「大正五年(一九一六)、日本へ最初にチュウインガムを輸入販売した会社である」
とあります。
6……△市川屋寫眞機店
いまいちよくわからない。
「銀座細見」によると大正14年、ここには「市川屋寫眞機店」があったようで、
写真をよくみてみると「市川屋」とも読めます。
が、「確定」とまでは言えない。
チューインガムのリグレーは息がながいですが、リグレーの左隣のこの場所はころころ店が変わっていて
昭和5年は十字堂という「額」屋さんがあったようです。
7……×不明 福永書店? 巴商会?
ごちゃごちゃした一画の中、この店だけ間口が広いですが、
写真からは店名が読み取れません。
アピールする気がないんだろうか(笑)
「銀座細見」によると 大正14年→福永書店 昭和5年→巴商会 とあります。
巴商会は「風呂」と書いてあるんだが、これまたよくわからない。
銭湯なのか? 風呂桶でも売っていたのか??
銭湯?……にしては煙突がないよね? この写真は……
とにかく不明です。
8……〇三倉商會 靴店
確定、でいいと思います。
写真では店名がはっきり読めないんですが、
看板にでっかく靴の絵が描いてありますので、これはどうみても靴屋さんです。
9……〇カフエプランタン
確定です。
このプランタンは 文学史の方面から、カフェ文化の方面から等々
色々と語られており わたくし如きが云々書いてもしょうがないので
興味ある方はそれぞれ調べてください。
ただ中公文庫「銀座細見」p71
「銀座でカフエと銘を打った店は、松山省三氏のカフエプランタンにはじまる」
これは引用しておきましょう。
今、この場所は「カフェーパウリスタ」があるそうです。
10……×不明
わかりません。
写真をみる限り「萬國」なんとかと書いてあるようですが、
わかりません。
「銀座細見」では昭和5年 トラヤ帽子店と書いてあるんですが、
トラヤ帽子店のHPをみると 銀座出店は同・昭和5年のことらしく
つまりは昭和3年は トラヤ帽子店ではない、ということになります。
11……〇佐藤煙草店
これははっきり「たばこ」と読めますので確定。
昭和5年には別の店に変わってます。
12……〇池田屋商店
はっきり読めますので確定。
「銀座細見」によると、洋傘・毛皮を扱っていたようです。
↓↓一見 ごちゃごちゃした一画なんですが、
カフエプランタンが中心にあって 輸入品(チューインガムだの靴だのタバコだの)を扱う店が多く、
あんがいオシャレな一画だったのかもしれないです。
13……〇東京製パン銀座賣店(1階)・有賀虎五郎撮影所(2階)
確定です。アールデコっぽいおしゃれな建物↓↓
1階パン屋、2階写真屋とは 今の感覚からすると「ん?」となりますが、
考えてみると
両方とも「西洋渡来」ということでは同じカテゴリーなわけです。
2階。ATELIER T.G. ARIGA.
T.G. とはなんぞや? と一瞬悩んだんですが、
「虎五郎」のことですね(笑)お茶目。
洋行帰りの写真屋さんでしょうか?
14……〇菱川レース店(1階) ×エビスビール??(2階)
1階の菱川レース店、これは読めますので確定。
問題は2階で……
「エビスビール」とでかでか書いてあるのは、これはただの看板なのか?
じっさいにビアホール的なものがあったのか?
「銀座細見」では 昭和5年
「菱川レース店」の隣りに「秀華」という中華料理屋があったように記載されていますが……
この2階がそうなのか?
それともとなりの建築現場が「秀華」になるのか??
15……〇空地・建築現場
これはどこからどうみても建築現場です。
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写真③ 銀座八丁目(出雲町)・銀座七丁目(竹川町)
3枚目の写真にうつります。
番号をつけたものがこちら↓↓
16……△出雲商店(活動写真機械)(1階) ×不明(2階)
黒々して不愛想な倉庫みたいな建物ですが、
「出」の文字ははっきり見えますので、おそらく1階は出雲商店なのでしょう。
ただ確定とはいいきれない感じ。
2階は文字が読めず、「銀座細見」等みてもなんだかわかりません。
17……〇川崎第百銀行支店
確定。いかにも「ザ・銀行」という石造クラシック建築。
「銀座細見」をみると 大正10年・大正14年・昭和5年と この角地は一貫して川崎銀行です。
注目したいのは……
八丁目と七丁目の間の道路の、なんというか「門」みたいなやつで
天勝一座
とあります。
字が細かくて、いまいちよく読み取れませんが……
新橋演舞場で天勝一座の公演があるっぽいです(推測)
天勝は……マジシャンの初代松旭斎天勝
まあ、元祖プリンセス天功みたいなひとですが……
明治・大正期のとんでもない大スター
美女の中の美女、というのが当時の評価。
この写真の頃――昭和初期も活動してましたが、芸能生活の晩年、といっていいのかな。
アサヒグラフにもけっこう登場します。
「まだまだ天勝は綺麗だ」とかいう調子の扱いだったとおもう。
Wikiの写真を転載させていただきますが……↓↓
むぅ、かわいいぜ、天勝たん……
明治・大正の美女って、今の目から見ると「ん?……」というパターンが
無きにしも非ず、なのだが、
天勝ちゃんは今の目から見てもかわいい。
世界中の男どもを悩殺したらしいです。お胸もけっこうありそうです。
もとい、
18……〇ゑり治商店
確定です。
「半襟」を扱っていたらしいです。
半襟って? と調べてみると 「ははん、あれか」と分かりますので
わからない方はググってください。
もちろん和装に詳しい貴女には説明の必要はないですよね。
しかし、銀座の一等地、角地にこういうお店があったんですね。
「銀座細見」には
「定評ある半ゑり帯側ゑり治」とあります。
19……〇文明堂
店名は読めますので確定ですが……
「銀座細見」に「新井文明堂玩具店」とあるのがわからない。
写真には「雑誌」と書いてありますのでね↓↓
商売替えしたのか? おもちゃも雑誌も売っていたのか?
20……〇三澤洋服店
写真からはまったく店名が判別できませんが、
「銀座細見」によると 大正10年・14年 昭和5年と
震災前から一貫してここは「三澤洋服店」であったことがわかります。
21……〇日本樂器株式會社東京支店
写真からはぼんやりとしか店名が読み取れないのですが、
「銀座細見」の記述から、日本楽器と確定できます。
よくわからないのは 震災前の呼び名が「共益商社」という名前で
やはり楽器やら蓄音器やら扱っていたようなのですが、
同じお店と考えていいのでしょうか?
いずれにせよ、二階で楽器制作、一階で販売とかしてたのか?
などと想像すると楽しいです↓↓
以上、今回はこんなところです。
いろいろ調べるのは楽しいですが、まあまあたいへんですね。
はたして一丁目までたどりつけるのか??
あ。そうそう
大変残念なのですが、アサヒグラフ。なぜか「東側」の写真しか掲載してません。
5月9日號の次號にも その次にも「西側」は登場しません。
あまり反響がなかったのかな??
こんなに楽しい企画なのに……
こうなると西側もみたいよなぁ……