吉田篤弘という人の書いた「チョコレート・ガール探偵譚」という小説の感想を
これからグジグジと書いていくわけですが、
最初に一言で感想を言ってしまいますと、
・これは、ナルシスティックな好事家(ディレッタント)による、自分語りの書物である。
ということになりそうです。
で、「自分語り」とは何なのか? というと、
・「チョコレート・ガール」なる可愛い名前のサイレント映画の謎を追い求めるオレ……
かっこよくね?
ということになりそうです。
んだが、物価高の今どき1800円+消費税支払って
結論「かっこよくね?」
ではねえ。
かっこいいわけねえよ。
吉田篤弘ファンのあなたには申し訳ないですが、
1920・30年代大好き・水久保澄子大好き、ミミちゃん・ファンのわたくしは
ようするにそういう本だと思いましたよ。
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えー
↓左側のおしゃれな書物が 平凡社・吉田篤弘著「チョコレート・ガール探偵譚」
この人は本の装丁もやっているらしいので、
中身も外側も吉田さんのデザインなのだろう。
(クラフト・エヴィング商會名義になるのかな。
個人的には ちくま文庫の稲垣足穂コレクションの装丁でその名前を知った。
ただ、その人が小説も書く人だとは知らなかった)
↓右側は、タイトルに書いたが 松竹座ニュースという
名古屋の映画館が発行していたパンフレットです。
90年前のものです。
このパンフレットが何なのかもおいおい説明します。
色合いが似ているのは偶然なのか?……
感想① プロの少女(??)……
はじめはおもしろく読んでいたのです。「チョコレート・ガール探偵譚」
なにしろ、表紙をめくってはじめに現われるのは――……
このおしゃれなポートレートなわけですから
期待は高まります。
古本ではなくて、新刊本を……
1800円+消費税払った甲斐はあったのです。
ですが、メッキがはがれた……
というか、「なんでこんなシロモノに1800円+消費税払ってしまったのか」(しつこい)と愕然としてしまったのは……
この一節です。
そして文章中の「プロの少女」という言葉です……
或は、又、處女らしい感情をあらはであるがサツパリと見せてくれたのは、貧しき母に對する皮肉的な反抗の場合である。そこにはみぢんもてらはないプロの少女の氣持がくつきりと現はれてゐる。
(トマス注:1932年発行の「映画評論」所収の「チョコレート・ガール」の批評)
――「プロの少女」という云い方が面白い。これは「少女」という属性を活かしてキャンデーストアの売り子をつとめていることを指しているのか、それとも、筋金入りの「本物の」という意見合いでそう云っているのか。もし、後者であるなら、きわめてモダンな表現だ。
(平凡社、吉田篤弘著「チョコレート・ガール探偵譚」83ページより)
補足しますと、スターバックスの店内で 昭和7年(1932)の雜誌を読みふけるという……
これまた「かっこよくね?」シーンなのですが……
このかっこいい吉田先生……なんと、
×「プロ」を「プロフェッショナル」の略であると勘違い(笑)
しているのです。
これにはたまげました。
この当時の文章で「プロ」と出てくればそれは
〇「プロレタリアート」(労働者)の略(常識)
だからです。
つまり、「映画評論」の文章は 単に「プロレタリアートの少女」といっているだけのはなしで
奇をてらっているわけでもなんでもないのですが、
その何でもない文章を、かっこいい吉田先生は
「プロフェッショナルの少女」(笑)
なるほど、これは面白い云い方である。
きわめてモダンな表現だ(笑)
などと書いているわけです。
いやしかし、作者及び登場人物が、わざと間違える。
わざとバカなふりをする、というテクニックはあります。
そのほうが「物語」の展開がおもしろくなるし、わかりやすくなるからです。
こないだTBSラジオの「アフターシックスジャンクション」を聴いてたら、
「ちょっと難解な話題を専門家に訊く時、リスナーに分かりやすくするため
バカのふりをして基本的な情報をたずねる」ことがあると、
宇多丸さんだったか忘れましたが、そんなことをいってました。
この場合も、スタバで探偵気取りのかっこいい吉田先生ですから、あとになって
「ははん、プロはプロレタリアートの意味であるか」「ほっほっほ。思い違いをしていたことよ」
と分かるようにする、そういう若い読者向けのサービスなのだろうと思い直しますと――
3ページ後……
その少女に、二人の愛する人が出來た。一人はブルジョアの息子であり、一方は貧しき勞働者である。とすれば、この少女ならずとも、自然とその愛の心はブルジョアの息子の方へ向くだらう。もし、その反對に向くとすれば、その少女は非常に苦勞した者か(戀愛上)、非常な悧巧者か、馬鹿か、ひねくれ者に違ひない。如何に左翼鬪女士だつてこの道はレニーン主義とは凡そ別なものであらう。
(トマス注:これまた「映画評論」の1932年の批評)
(同書85ページより)
こんな文章が……はっきりと「ブルジョア」と出てきますので
さすがの吉田先生も「プロ=プロレタリアート」と分るだろう‼ とおもったのですが、
…………………………………
………………‥………
まったくその形跡はありません。
かっこいい吉田先生は「プロ=プロフェッショナル」と勘違いしたまま。
きわめてモダンな表現だ。
などと偉そうに、上から目線で言い切ったままに終わるのです。
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感想②「君と別れて」の不在。
えー「プロの少女」=「プロフェッショナルの少女」という勘違い。
吉田篤弘は小説家であって、
映画研究の専門家、昭和史の専門家ではないから、許される、という見方は当然あります。
やあやあ、トマス君。
たかだか「小説」に対して、そんなアカデミックな正確性を求められても?
という意見もありえましょう。
でもねえ、「チョコレート・ガール探偵譚」ですよ。
「探偵」といっちゃってるわけです。
「探偵」と言い切っているからには、シャーロックホームズなり金田一耕助なり、誰でもいいですが、
人並外れた幅広い知識、そして人並外れた直観力
これが必要なわけです。
それが……ねえ、あーた、プロ=プロレタリアートと分からないんですよ。
すぐあとの文章に「ブルジョア」と出てくるにもかかわらず。
はっきりいや、頭悪いんです、この人。
「チョコレート・ガールずっこけ譚」なら、わかります。
勘違いして、いいでしょう。
しかし「探偵譚」なら許されない(ですよね?)
というか実際僕は、この一節以降、この作者の書いていることにまったく信用がおけなくなりました。
なので、1800円+消費税を払ってしまった手前、
いろいろ言いたい悪口はあるんですが、
ここは一つだけ書きましょう。
「チョコレート・ガール」(成瀬巳喜男監督)と姉妹のような作品
「君と別れて」(これも成瀬作品)がなぜまったく分析されないのか?
という問題です。
「チョコレート・ガール探偵譚」
成瀬巳喜男の「チョコレート・ガール」が明治製菓とのタイアップであることが何度も何度も書かれますが、
同じ成瀬巳喜男作品で、
なおかつ 同じ水久保澄子主演作品の「君と別れて」
この現存している作品が、この書物で言及されるのは
トマス調べではたった一か所だけ。
(トマス注:以下 フィルムアート社「映畫読本 成瀬巳喜男 透きとおるメロドラマの波光よ」の引用)
人気急上昇、片岡千恵蔵やマキノ正博までファンになった水久保澄子主演の青春映画。「国民新聞」懸賞映画小説当選作を作者自身が脚色。実は明治製菓とのタイ・アップ、とは感じさせない、抒情流れる佳作となった。蒲田駅前に明治製菓の喫茶店があり、成瀬も常連で、観察行届き、〈成瀬巳喜男の正統派的映画手法は、幾分定石的とも思われる程の、スマートさに貫かれている〉(和田山滋)。翌年の『君と別れて』の先駆的作品となる。
(同書41-42ページより)
「君と別れて」……
他にも言及されるところがあるかもしれないが、まあ、一切分析されないのははっきりしています。
かわりに詳しく分析されるのは 我らが小津安二郎の「非常線の女」ですから、
(153ページから163ページまで 10ページたっぷり「非常線の女」の話題)
小津ファンのわたくしは正直うれしいといや、うれしいのですが、
分析するのが「プロの少女」の吉田先生であってみれば、
まあ、たいした感想は出てこないだろう、と――おもったとおりの結果です。
かわりに、ちょっとだけわたくしが「君と別れて」をみてみますと・・・
(ついでに言っておくと、「チョコレート・ガール」は現存しない、とされている。
地球上のどこかにプリントがあるかもしれないが、今のところ発見されていない)
水久保澄子&おなじみ磯野秋雄君とのおデートシーンに……
(おデートなどという呑気なものではないことが、おいおい判明するのだが)
ずかっと、スクリーン一杯
明治チョコレートが出現するんですよね。
これは……
このクロースアップショットは……
「チョコレート・ガール探偵譚」と名乗っている以上、
書かないといけないんじゃないですかね??
ついでに書くと「君と別れて」
映画としての出来は、はっきりいうと「非常線の女」に劣りますが、
こんな↓↓
水久保澄子が歯を見せて笑うショットなどあったりして……
彼女の魅力を理解したいのならば 斷然 現存している「君と別れて」を見るべきだと思います。
ついでに書くと……
「玄関番とお孃さん」のほうが扱いが大きいんですよね。
186-187ページに取り上げられています。
ここらへんも「あれ??」というところです。
いや、かわいいんですけどね。この作品。
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感想③ 結論、めいたもの。
はっきり書くと、
この吉田篤弘先生、自分以外のものに興味がないのでしょう。
われわれが読書なり映画なり、あるいは旅行なりで体験する悦びというのは、
哲学用語でいう「他者」
ジャック・ラカン用語でいう「現実界」
との出会いだとおもうのですが――
つまりは、意味不明・理解不能な事象との遭遇、がおもしろいわけなんですが、
「チョコレート・ガール探偵譚」にはそれがまったくありません。ゼロです。
具体的に言うと、水久保澄子その人がまったく浮かび上がってこないんですよね。
えんえん水久保澄子に関して書かれているにも関わらず、人間・水久保澄子がまったくみえない。
なぜなら 吉田篤弘が見せたいものは
「チョコレート・ガール」=水久保澄子を追い求める、おしゃれなオレ様
でしかないからです。
その点すさまじいのは「全日記 小津安二郎」で……
これは「日記」ですから、公開なんか考えていませんけど、
一九三三年九月二十日(水)
昨夜 さむざむとした藁ぶとんの寝台で夢をみた
服部の大時計の見える銀座の二階で
僕がビールをのんで
グリーンのアフタヌンの下であの子はすんなりと脚を重ねてゐた夢だ
(フィルムアート社、田中眞澄編纂「全日記 小津安二郎」50ページより)
一九三三年十一月十日(金)
ペッカリーの手套はぜいたくだ
所で僕は持つてゐる
〈おつちやんはおしやれさんね〉
と云ふ子がゐる
してみれば僕は案外洒落者であるかも知れぬ。
(同書54ページより)
「おっちゃん(小津のあだ名)はおしゃれさんね」
と、そういったのは誰だか明記されていないが、
この頃の小津の日記の中心人物はグリーンのドレスの「あの子」――水久保澄子だから
水久保澄子の言ったことだろう、という推測は、まあ間違っていないようにおもいます。
で、ペッカリーの手袋、というと最高級品で、
そんじょそこらにいる豚さんではないわけだから、とんでもなく高かったことでしょう。
つまりはここに……
「プロの少女」水久保澄子の、
「ブルジョア」家庭の呑気な次男坊、小津安二郎への若干冷ややかなメッセージを読み取るのは不可能ではない。
そして結ばれるはずがない二人の間柄をも。
小津安二郎はたった一行で 「おつちやんはおしやれさんね」、それだけで、
不気味で理解不能な「他者」を描いてしまっているわけです。
小津にとっての水久保澄子とはたぶん、こういう人なのです。
吉田篤弘が、意識的にか無意識的にか、避けてしまったのは、
こういう強烈な一言・コトバ
なのだろうとおもいます。
そして「プロの少女」水久保澄子のメッセージは、
時空を超えて「チョコレート・ガール探偵譚」を批評しているようにも冷ややかに響くのです。
「あなたはおしゃれさんね」と。
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さて、タイトルの松竹座ニュース1932年8月19日號なんですが、こんなです。
たまらなくオシャレなのですが
名古屋の松竹座という映画館のだしていたパンフレットです。
発行日付がよくわからんのですが、
(表紙の数字 10.37 の意味がわからん)
購入した古本屋さんの情報
1932年8月19日という日付をそのまま信用することにします。
裏表紙は「クラブ白粉」の廣告。
モデルさんは川崎弘子……だよね?
川崎弘子の洋服姿をはじめてみたもので……
けっこう似合ってる。
中に「チョコレート・ガール」の宣傳がはいってます↓↓
「チョコレート・ガール探偵譚」は
やっぱり松竹座のパンフレットの 「チョコレート・ガール」の宣伝を目にしたところからはじまりますので
「ははん、バカにしたくせに、なんのかの影響受けてやんの」
とおもわれる方もおられるかもしれないですが、
すみません。こっちのパンフレットを手に入れる方が先でした。
少し前、当ブログにいただいたコメントで 「チョコレート・ガール」への言及があったので
それで調べものをする過程で手に入ったパンフレットです。
「チョコレートガール探偵譚」はそのあとで買いました。
1800円+消費税(あくまで強調)
パンフレットはそれよりちと高かった。
吉田先生のパンフレットは 9月22日発行らしく、スチールは入っていなかったらしい。
僕のは 古本屋の記述を信じると、約1カ月前のものでスチールが入ってます。
ミミちゃんは、粗い印刷でも、なんというか「映え」ますね。