あいかわらずの地味な記事。
……なので誰も気にはならないとおもいますが、
前回「その2」の記事の訂正をいたします。
銀座のデパートに関しまして。
そもそも当時のアサヒグラフとしても……
松坂屋・三越・松屋の建ち並ぶ「東側」を
「銀座」のメイン……主役と考えてゐたんでしょう。
――などと書いたのですが、今回の記事(その3)を書くにあたりまして、、
昭和3年(1928)当時
銀座三越は銀座四丁目の例の場所に存在していなかった。
ということがわかりました。
つまり、上の文章は、訂正の必要があり……――
そもそも当時のアサヒグラフとしても……
松坂屋・松屋の建ち並ぶ「東側」を
「銀座」のメイン……主役と考えてゐたんでしょう。
ということになります。これが正解です。
のちほど触れますが、われわれが見慣れている「あのポジション」に三越ができるのは
昭和5年(1930)のことらしいです。
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その3です。
写真⑧銀座五丁目(尾張町一丁目)
またまた建築現場……
震災復興の帝都であります。
番号をふります。
40……〇第一銀行支店
建築現場。なんですが・・
おなじみ「銀座細見」の記述によれば
大正10年→東海銀行
大正14年→株式会社東海銀行京橋支店
昭和5年→第一銀行支店
とあります。
写真をよくみると↓↓……
中央下あたり、人力車が二台停まっているそのうしろ
「第一」と書いてあります。
第一銀行支店で確定でしょう。
41……〇中屋シャツ店
写真からは店名が判断できませんが、
「銀座細見」によると
大正10年→中屋シャツ店
大正14年→中屋シャツ店
昭和5年→中屋シャツ
ということですので、中屋シャツで確定。
ワイシャツ専門店、ということですかね(?)
42……〇白牡丹本店建築場
「銀座細見」によれば、ここも中屋シャツ同様、
大正10、14年、昭和5年と 白牡丹の場所です。
で、白牡丹とはなんぞや? ということになりますが……
次第に尾張町に近づく。このあたりから二丁目にかけてが最も雑沓、喧噪。第一銀行のつぎに白牡丹、昔は女の化粧道具一切はこゝでなければいけなかつたもの。
(ちくま学芸文庫、今和次郎編纂「新版大東京案内 上」197ページより)
名鉄ニューメルサの向いに、徳川11代将軍家斉の時代(18世紀後期から19世紀前期)から小間物商を営む「白牡丹」が店を構えていた。
(学芸出版社、岡本哲志著「銀座を歩く 江戸とモダンの歴史体験」66ページより)
和装小物の店で、2000年代まで存在していたらしいです。
43……〇水沢漆器店
44……〇全勝堂野島時計店
45……〇フタバ商店外国美術雑貨店
以上、3軒。写真からはまったく手掛かりがつかめないですが、
「銀座細見」から確定と判断しました。
また45番のフタバですが、
フタバ商店は、銀座で一番凝った洋雑貨を売る店、その代りここはストックが少ないから、ショーウィンドで見つけ次第買わないとすぐなくなってしまう。余り人の知らないことだが、ここの息子さん林二郎君は木工品の名手で、椅子や小函などをよく作る。
(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」220ページより)
とのことです。
フタバ商店、行ってみたい……
「銀座 フタバ」で検索すると 「フタバ画廊」なるものが出てくるのだが、
これは関係があるのか?(場所は違うし、もう閉鎖してしまったらしいが)
次の写真。
写真⑨銀座五丁目(尾張町一丁目)
番号をふります。
小さな店がぞろぞろ並んでおります。
この界隈は建物のファサードに
店名をはっきりと書いてくれているので、大変に助かります。
46から55まで すべてはっきり読み取れます。
46……〇三河屋家具雑貨店
47……〇関口洋品店
(「銀座細見」によると、貴婦人子供用品専売、とある)
☆☆貴婦人って!!(笑)
でもこじんまり素敵なファサードの店です。
48……〇増見屋
(「銀座細見」によると、呉服店とのこと)
49……〇大勝堂
「銀座細見」によると、「時計宝石貴金属商」
「新版大東京案内」に……
日本一を誇る貴金属の天賞堂と村松それから大勝堂。
(ちくま学芸文庫、今和次郎編纂「新版大東京案内 上」196ページより)
と、天賞堂と並んで紹介されていますから、名のある老舗だったのでしょう。
50……〇ヲリヤマ
(「銀座細見」によると、鞄屋さん)
51……〇藤屋
(「銀座細見」によると、モスリンと書いてある)
52……〇十一屋
写真を見る限り、和風の、なんか冴えない雰囲気なんですが、
扱っている商品はオシャレだったらしい。
震災の影響で、この冴えない建物なのか? ともおもったのだが
「銀座 歴史散歩地図」所収の 大正11年の絵をみるかぎり、
震災前もこんな感じの店舗だったようだ。
だが、しかし、
以下書きますように 当時、
「カトラリー=十一屋」
というようなすごい店だった由。
まず「銀座細見」
食器は五丁目の十一屋だ。山の手の文化生活屋に喜ばれそうなものなら何でもある。清爽な感じのいい店である。
(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」220ページより)
そして――戰前アサヒグラフにも――
昭和2年6月15日號 2ページ。表紙を開いてすぐ、という最高の場所に広告を出しております。
正確な日付は忘れましたが 昭和3年の初夏にもやっぱり同じ場所に広告を出していました。
年1回。初夏に広告を出すっぽいです。
食器業界のことは詳しくわかりませんが、
冷たいものが欲しくなる季節にむけて、ということなんでしょうかね。
現在は存在しないようです。十一屋商店。
「銀座 十一屋」で検索すると
銀座一丁目の 「十一屋ビル」というのが出てきます。
関係があるのか?
また――「十一屋 食器」で検索すると、
「燕物産」という会社のHPに行き当たりまして、
銀座の十字屋に関しては、ネット上ではこれが一番詳しい解説かもしれません。
日本の産業に金属洋食器を誕生させた銀座十一屋商店!
カトラリーの歴史を語る上で欠かせないのが、東京銀座にあった「十一屋商店」です。
等々、書いてあり、
宮内省御用達だったこと、帝国ホテルはじめ、当時の高級レストランに
商品を納入していたことがわかります。当時のカトラリーの画像も多数載ってます。
とにかくすごい店だったらしいです。
53……〇早川亭
「銀座細見」によると「牛鳥料理店」とのこと。
銀座七丁目に 松喜牛鳥料理店というのがありましたが
(わたくしの記事の番号だと28番になります)
当時はこういう言い方をしたんでしょう。
これは震災後できた店のようです。
54……〇高級玩具 ハッピイトイス
ハイカラな店名。
ファサードに「内外」「高級玩具」と書いてあり、
男の子と女の子の絵が描いてあります。
「銀座細見」によると、昭和5年この場所に店を構えているのは
なんと「ハッピーシガー」です(笑)
おもちゃ屋が煙草屋になってしまった……
お子さま向けがアダルト向けに……
55……〇美濃常
「銀座細見」をみても何の店だかわからず
「新版大東京案内」には店名の記載がなく、困ったのですが、
「銀座 歴史散歩地図」所収の大正11年の地図に「洋品雑貨」とありました。
つまり、震災前からの店です。
さて、いよいよ銀座の中心にやってまいりました。
尾張町交叉点です。
写真⑩ 銀座四丁目・銀座五丁目(尾張町一丁目)
番号をつけます。
さすがに当時もにぎやかだったんでしょう。
自動車はたった2台ですが。あと電車(市電)も見えるな。
奥にちらっとみえるのは歌舞伎座でしょうか?
56……〇カフェライオン
まず「新版大東京案内」をみますと、
……カフエ・ライオン、銀座のカフエに動物園的名称を流行させた総本山だが、当時東京一の大カフエだつた堂々たる昔日の面影はなく、階下は精養軒その他の売場となつてパンや牛肉や佃煮などが場末の公設市場のやうに雑然と並び、中に一寸一ぱいのおでん屋やビールスタンドが出来たのも人目を驚かす。尤も区劃整理後の尾張町交叉点は、いたづらに街幅ばかりがだたつ広くて、田舎町らしい趣さへ漂はせてゐるのだから、似合ひの景物だとも言へる。
(ちくま学芸文庫、今和次郎編纂「新版大東京案内」197-198ページより)
つづいて「銀座細見」
ライオンはその後ますます頽勢に赴いて、区画整理後は二階だけになってしまい、階下は精養軒の洋菓子だの森永のキャンデー、みずじの寿司などに店貸しをして、博覧会の売店のような観を呈して、ライオン閉店の悲観説をさえ称えられるようになった。実際当時精養軒の内部では西店すなわちもとの新橋カフエの後に大カフエを作って、尾張町の方はやめてしまおうというような噂もあったらしいが、それも止めになったと見えて、間もなく改築成り、下の売店連中を追い出して、断然昭和カフエ戦線に旧来の威容を示すことになった。
(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」82-83ページより)
この写真の↓↓…‥‥昭和3年頃というのは、「大東京案内」の頃の1階が売店みたいになっちゃってる頃なのかな?
「銀座細見」によると、その後本業をがんばりはじめたようですが……
昭和7年を描写している 広瀬正「マイナス・ゼロ」によると
この場所は「エビスビヤホール」と書かれています。
「マイナス・ゼロ」はタイムマシンもので、リアルタイムの描写ではないわけですが、
作者は大正13年生まれの京橋の人なので、描写は正確かとおもいます。
57……〇山崎高等洋服店
これが、例の銀座三越の場所。
けっこう立派な建物なので はじめは
「昭和3年当時の三越はこんななんだろう」
と思い込んでしまったのですが、
写真をよくみると
山崎、と書いてある……三越じゃない……
昭和3年当時の尾張町交叉点の様子。
アサヒグラフ昭和3年9月12日號にわかりやすいマンガが出てますので載せます。
はなしは逸れますが、この年の夏は冷夏だったらしいです。
カフエライオン
竹葉
山崎
……と店名があります。今も変わらないのは「竹葉」だけ。
もちろん、小津安二郎と水久保澄子がお食事をした、あの「竹葉」です。
あと、信号は手動式なのだな↓↓
(中央部分、丸い交通標識みたいなものがそれです。廻転して「進」「止」が入れ替わる仕組み)
とか、いろいろなことがわかるイラストです。
女性のファッションも、デフォルメされていますが、よくわかります。
58……×不明
ここは店名書いておらず、わかりません。
「銀座細見」からも判断ができません。
このあたりは近々、「山崎高等洋服店」ともども「銀座三越」になってしまうのでしょう。
もう取り壊しが決まっているのかな?
写真をよくみると――店名は書いていないのですが、
「在品全部大投売」
とやけっぱちなことが書いてあります。
銀座のまん真ん中のくせにアメ横みたいです。
写真⑪銀座四丁目
番号を振ります。
ここもまた「震災復興」の雰囲気。
59……〇木村屋総本店
これまたビッグネーム。あんパンの木村屋。
――というと、服部時計店(和光)の隣、西側じゃね? とおもうのですが、
「銀座細見」によりますと、
大正10・14年→銀座四丁目・東側
昭和5年→銀座四丁目・西側(服部建築場の隣)
となってまして、
昭和3年当時は写真でご覧の通り、「東側」にあった模様。
60……〇神谷ネル店
写真からはっきり店名が読み取れます。
「銀座細見」から判断するに
昭和5年時点では、この一帯はすべて「銀座三越」になってしまって
神谷ネル店は「64」番の場所に移転するようです。
61‥…×フヂヤ洋品店?
写真から店名判別できず。
「銀座細見」の大正14年の記述から「フヂヤ洋品店」か?
ともおもいますが、移り変わりが激しい銀座ですので
なんとも言えません。
62……〇松村金銀店
写真から店名がわかります。震災前からの老舗。
「銀座細見」によると 昭和5年は「銀座三越」のお隣のポジションになりますので
わたくしのつけた番号の「57」から「61」まで銀座三越になってしまうということか??
63……〇近藤書店
これまた写真からはっきり読み取れます。
「銀座細見」から引用しますと
本屋は四丁目の近藤春祥堂と、七丁目の紀伊国屋の二軒だ。エスキーモのところには以前新橋堂という本屋があったが、地震後なくなってしまった。
(同書219ページより)
64……×中央堂時計店
不明。「銀座細見」によるとこの場所は……
大正14年→中央堂時計店
昭和5年→神谷ネル店
で、将来的には「60」番の神谷ネル店が移転してくるわけですが、
昭和3年当時のことはわかりません。
65……〇佐野正宝飾店
66……〇やぶそば
どちらも写真から店名が確定できます。
やぶそばに関しては……
銀座には第一流に属する蕎麦屋はない。四丁目にあった藪はちょっと喰わせたが、今は廃業してしまった。
(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」199ページより)
ということで、昭和5年には「宝来パン」というパン屋さんがあったようです。
その4につづく。