あいかわらずのマリみて関係の記事なのですが――
ようするに 自分向けの「頭の整理」みたいな記事です。
最近考えていることの整理をしておきたいな、と。
なので、表題の「白き花びら」の分析は、前置きのあとに始まります。
①萩尾望都作品があまりおもしろくなかった。
先日、池田理代子先生の「おにいさまへ…」の感想を書きましたが、
あれがおもしろかったので 70年代の黄金期の少女マンガに足を踏み入れてみようとおもったわけです。
んで、周囲の評価が高い……萩尾望都先生を読んでみたいのですが、
あまりにまわりが「天才」「天才」いうもので、
ラジオを聞いていても 「アフターシックスジャンクション」で コンバットRECなる人物が
「天才」「天才」連呼する始末なもので。
で、お高いプレミアム版で 「トーマの心臓」「ポーの一族」買ってしまったのですが、
……これが、んーー
トマス的にはあんましおもしろくなかった、ということがありました。
池田理代子先生の、
まあ、はっきりいうと 作品全体としては破綻しているような気がする「おにいさまへ…」のほうが
はるかに傑作のような気がしてならないわけです。はい。
なぜ、萩尾望都にはまらないのか?
理由は色々考えられるのですが、
・独逸嫌い……
知り合いの某美魔女さんなどによると「ドイツじゃないとダメなのよ」ということらしいのですが、
わたくしはやはり、戦死した帝国海軍軍人の末裔としては
さっさと降参してしまったあんな国は許しがたいし、
ドイツ車なんぞも大嫌いなわけですよ。それと、
・女の子のイチャイチャがみたい
んー女の子が出てこない。
「ポーの一族」にメリーベルとかいうのがでてくるけど、まったく個性は感じられない。
とか理由は色々ありそうなのですが、
じつはもっと作品&作家の根幹……根っこのところに問題は潜んでいるのではあるまいか?
とおもい始めたのです。
それが
②アーキテクト型×ストーリーテラー型
ということです。
日本語にしてしまえば
「建築家型」×「語り部型」ということになりましょう。
これはわたくし個人の勝手な分類でして、
高名な〇〇先生の分類によると……などというものではないです。
小説家、漫画家、シナリオライター、映像作家、などには、
「アーキテクト型」「ストーリーテラー型」
この二種類があるのではないか? というはなしです。
どっちが優れている、とかどっちが天才、とかいうのはなく
タイプの問題です。
ただ、トマス・ピンコ個人の好みとしては「アーキテクト型」が好きで、
「ストーリーテラー型」はいまいち好きくない、ということになりそうで、
で、さっきの話題に戻ると――
・池田理代子「おにいさまへ…」は、
作品全体はガチャガチャしていて破綻しているが、「アーキテクト型」であるので好き。
・萩尾望都「トーマの心臓」「ポーの一族」は、
作品としては完璧で美しい、物語はしっかり組んであるというのはわかるのだが、
「ストーリーテラー型」であるので嫌い。
(個々の設定が甘い気がする)
ということになります。
では、「アーキテクト型」「ストーリーテラー型」とはそもそも何ぞや?
ということになりますと……
〇「アーキテクト型」
まず、作品の舞台設定・人物設定を綿密に組立てる。
そのあとで 人物を具体的に動かしていく。
〇「ストーリーテラー型」
まず、物語がおもい浮かぶ。物語の起承転結がはじめにある。
そのあとで 人物、舞台設定を決めていく。
ということになります。
池田理代子、萩尾望都でいうと……
〇池田理代子→「アーキテクト型」
綿密に調べ上げた革命期のフランスに、オスカルなる人物を放り込む=「ベルサイユのばら」
ソロリティ・システムのある青蘭学園に、御苑生奈々子、信夫マリ子、という人物を放り込む=「おにいさまへ…」
〇萩尾望都→「ストーリーテラー型」
登場人物の設定は、物語の中心(トーマの死)に従属している=「トーマの心臓」
バンパネラ(吸血鬼)の細かい設定はどうでもよくて、これまた物語ありきである=「ポーの一族」
ということになります。
繰り返しになりますが、どちらが優れている、ということではなく あくまでタイプの問題です。
また、はっきり2タイプに分別できるものでもなく
どちらの資質も兼ね備えた人もいるのだろう、とおもいますし、
どっちのタイプにもあてはまらない人もいるんだろう、とおもいます。
ただ、わたくし個人は 「アーキテクト型」……
舞台設定と人物設定を綿密に……綿密すぎるほどに組むのが好きで
あーしはストーリーとかははっきりいってどうでもいいです。
というタイプの作家が好きで――
・ペトロニウス(「サテュリコン」)
・曲亭馬琴(「南総里見八犬伝」)
・中里介山(「大菩薩峠」)
・稲垣足穂
・ドストエフスキー
・トマス・ピンチョン
・小津安二郎
考えてみると、自分の好きな作家は皆「アーキテクト型」であることに気づきます。
上の三人ははっきりいって作品としては完成する気がゼロの作家です。
稲垣足穂は「人物設定」はやらずにひたすら「舞台設定」だけやってるようなダメな人で
ドストエフスキーも さてどんなお話だったか? は覚えていないわけですが、
個々のキャラクター、ラスコーリニコフだのイワン・カラマーゾフに関しては
強烈によく覚えているわけです。
トマス・ピンチョンは設定を綿密にやりすぎるので 執筆時間がかかりすぎのバカな人で
出来あがった作品はわけがわからないですし、
小津安二郎は「ストーリー」ははっきりいってどうでもいいので
何度も何度も「婚期を逃がした娘が結婚する」というおはなしを飽きずに撮ってた変な人です。
③今野緒雪=「アーキテクト型」=時計とカメラと。
はい。
で、ようやく本題。
我らが今野緒雪先生は どこからどうみても「アーキテクト型」であろう、とおもうわけです。
まず、私立リリアン女学園という舞台設定がしっかりとあって、
姉妹(スール)システム・山百合会のシステムもしっかりとあって、
そこにきっちりと人物設定の組み上がった 福沢祐巳やら 小笠原祥子を放り込む。
設定。設定。設定。
これが「マリみて」の方法論のすべてで――
「物語」なんぞは後回し。
逆に言ってしまうと、今野緒雪が「通俗ストーリー」を語ってしまうと……
つまり「ストーリーテラー型」みたいなことをやってしまうと、
それはどうしても失敗してしまう、ということになります。
その代表例が「白き花びら」だとおもうわけですが、
それは後回しにしまして……
「時計」と「カメラ」の話です。
具体的な細かい分析はそのうちやろうとおもうのですが、
「マリみて」は「時計」と「カメラ」(写真)が動かしているような気がしまして……
まあ、誰もがお気づきのように
「時計」→時間・移りゆく時間の象徴。
「カメラ」(写真)→止まった時間の象徴。
ということになります。
ざっとみていきますと……
「マリア様がみてる(無印)」序盤は……
そう言いながら、桂さんは時計を見た。
朝拝の鐘が鳴る。
つづいて校内放送で賛美歌が流れる。
(コバルト文庫、今野緒雪著「マリア様がみてる」18ページより)
「私が、写真部に所属しているのはご存知よね?」
蔦子さんは祐巳に向き直ると、唐突に言った。
「え、……ええ」
有名人ですから。
授業中以外は、ほぼカメラを手放さない。シャッターチャンスを逃した時の悔しさを思うと、そうせざるをえないという話を、いつだったか聞いたことがある。
(同書19-20ページより)
そして「小笠原祥子さまと祐巳との、ツーショット写真」が21ページに出てくるという展開。
カメラという横軸と時計という縦軸がおはなしのリズムを決めているようにおもえます。
2巻目の「黄薔薇革命」をみると、この構造はさらにはっきりしていて……
「ああ。それにしても、どうして目覚ましのセットを変えるの忘れちゃったんだろう」
日曜日の夜寝る前に行ったトイレの便座の上で一度は「変えておこう」と思いついたのに、自分の部屋に戻る頃にはすっかり忘れてしまっていたのだ。
手を洗った刺激が記憶に蓋をしてしまったのか、はたまたトイレのドアの閉まりが悪くて往生してしまったのがいけなかったのか。いやいや、階段の踊り場で弟と会って立ち話してしまったのが一番の原因かもしれない。
その上振り替え休日は久しぶりに朝寝を決め込もうと、一昨日の夜は目覚ましスイッチをオフにして布団にもぐったものだから、今朝起きるまで目覚まし時計のセット時間のことなんて思い出すこともなかった。
(コバルト文庫、今野緒雪著「マリア様がみてる 黄薔薇革命」10-11ページより)
「『祐巳、何をそんなに急いでいるの?』」
声の主を確認しようとゆっくり振り返ってみれば、最新式の小型カメラのレンズと目があった。
「ごきげんよう。どう? 祥子さまだと思った?」
言葉とともに、カシャッという音がかぶって聞こえた。写真部のエース、武嶋蔦子さんだった。
(同書12ページより)
祐巳、祥子さまの妹になる→山百合会の正式メンバーになる→目覚まし「時計」の設定時刻が変わる、
という素晴らしい描写があって、その直後「カメラ」「写真」の登場となります。
④「白き花びら」分析。
(写真を撮っていれば二人は別れずに済んだのではなかろうか?)
(もしくは、聖さまが腕時計をしたばかりに……)
で、ようやく「白き花びら」の分析です。
結論をいってしまえば、
この短編は「時計」(時間)はたくさん登場するのに
「カメラ」(写真)は一切登場しない、という
「マリみて」にしては異常な構造が目につきます。
もともと時計が嫌いで、いちいち時間を確認するということをしない性分。目覚ましのアラームを聞くくらいなら遅刻した方がましと本気で考えているのだから、こういう失敗は今後とも起こりうることだと諦めている。
(コバルト文庫、今野緒雪著「マリア様がみてる いばらの森」209ページより)
「もう、よろしいでしょうか」
少しの沈黙の後、栞は腕時計を見てつぶやいた。
「そろそろ行かないと」
(同書216ページより)
まず、ですな。聖―栞の出会いは
腕時計を持たない少女(聖)―腕時計を持つ少女(栞)
の出会いとして描かれているのが凄まじいです。
で、このあと「時計」「時間」はぜんぜん出てこなくなりまして……
温室の中での 例の美しいラブシーンなどありまして……
(ふと思ったのだが、
ガラスの温室=カメラ(語源は「部屋」)
なのだろうか?
というか、天才・今野緒雪はそこまで考えていそうだ……)
終盤、
聖―栞が駈落ちしようというところで 「時間」「時計」の乱れ打ちです。
私は約束の時間より四十分も早く、待ち合わせ場所に着いてしまった。
M駅の三、四番線ホームに午後五時。わかりやすいように、進行方向側の一番端を選んでいた。
栞はまだ来ていなかった。
私は少し戻って近くのベンチに腰掛け、駅ビルの書店で買った時刻表を開いた。このホームに降りる階段は一つだから、バスで駅まで来る栞は、必ずこのベンチの前を通るはずだった。
時計嫌いの私が今日は腕時計をして、栞と会える時間を待ちわびた。
けれど、栞を待つ時間は苦にならなかった。むしろ、私はその時間を楽しんでいた。
(同書263ページ)
聖さまが腕時計をしてしまう時点で、鋭い読者は「やや」と気づいてしまうわけです。
不吉な予感を。
で、
「五時十二分」「五時四十分になっても、栞は現れなかった」
と具体的な時刻(時計をみなければわからない正確な時刻)を示して 栞が来ないことを表現します。
で、お姉さまの登場。
「十一時過ぎたわ。もう、今日中に東京を出るのは無理じゃない?」
呆れたような、ほほえみを浮かべ立っていたのはなつかしいお姉さまだった。
(同書268ページより)
街路樹の下を並んで歩いていると、突然、お姉さまの腕時計のアラームがなった。
「ハッピー・バースデー!」
私以外の二人が、立ち止まって同時に叫んだ。
私は、十二月二十五日になって、自分が一つ年を取ったことを知った。
(同書273ページより)
――という風に「時計」「時刻」の乱れ打ちで結末になだれ込んでいきます。
うがった見方をすれば……
久保栞は、時計のない……時間のない佐藤聖が好きだったのでしょう。
時間のない人間となら、一緒に生きられるとおもったのでしょう。
それが、駅にいた佐藤聖は 腕時計をして時刻表をもっていた。
また「時計」&「カメラ」という目でみれば、
聖―栞は 武嶋蔦子に写真を撮ってもらえば めでたく姉妹になれたのではないか?
(祥子-祐巳のように)
ただ不幸なことに 蔦子さんはまだ中等部の生徒だったためにそのような事態は起こらず、
藤堂志摩子が白薔薇ファミリーからあぶれるということもなくなった、わけです(笑)
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・久保史緒里(くぼしおり)さん、なる方が 乃木坂46にいらっしゃるのですね。
現実がようやく 今野緒雪のセンスに追いついてきた、ということか。
・Huluでアニメ版「マリア様がみてる」をようやくみております。
私ごときが偉そうにいうのは何ですが、たいへんよく出来ておりますな。
毎日涙を流しながら、見ております。
瞳子ちゃん、かわいい。
というか、あの髪型はアニメ化を見越してのことだったのか?
まさかね。
「マリみて」二次創作では
恥骨マニアさんの「座禅ガールズ」というのがたいへん気に入りました。(かなり前の作品だが)
「座禅」でなにもかもを解決しようというギャグ漫画。
(志摩子さんの実家の小寓寺で山百合会メンバーが座禅するというだけ)
ですが、「姉妹(スール)」の儀式でなにもかも解決しよう滅茶苦茶が「マリみて」なので
今野緒雪の方法論に実に忠実だといってよいだろう。