この本は、科学啓蒙書のたぐいをよむと
けっこう引用されていたりして、
であるから、理系のインテリにはけっこうウケのよい作品であるらしいな、
ということはわかっていたのだけれど、今まで読む機会がなかった。
読んでみたらとてもおもしろかった。
ダグラス・アダムスという人。英国人。
どうも一発屋であるらしい。
あんまり「銀河ヒッチハイクガイド」がすごすぎて
あとは何を書いても処女作と比較されてしまうという可哀そうなヒト。
二○○一年四十九歳で亡くなっている。
↓下の画像に写っている「宇宙の果てのレストラン」
というのは、「ヒッチハイク」の続編です。
なるほどすごくおもしろかったけど、
けっきょく「ヒッチハイク」以上にはならない点、
「ニューロマンサー」のウィリアム・ギブスンに似ている。
あの人も、書くもの書くものおもしろいが、けっきょく
「ニューロマンサー」が一番いいね、ってことになっちゃう。
おもいきって時代ものとか現代物とか書いてみればいい、とかおもうのだが、
「あの、消費者が先生に期待してるのってそこじゃない気がするんですけど」
とかいわれちゃったりして、
なかなかそうもいかないのだろう。
①あらすじ
…というほどのものもないので困る。
が説明すると、
ある日、地球が消滅する。
ヴォゴン人というきまじめな宇宙人が、
バイパスを建設するのに
なんか邪魔だとおもったので、
滅ぼしてしまったのである。
(だが、まあ宇宙航法の新技術が発明されて、地球が消えた直後に
やっぱりバイパスの必要はありませんでした、というオチがあったりする)
そこから先は文庫本のカバーを引用しよう。
「どこをとっても平凡な英国人アーサー・デントは、最後の生き残りとなる。アーサーは、たまたま地球に居た宇宙人フォードと、宇宙でヒッチハイクをするハメに。必要なのは、タオルと〈ガイド〉――。シュールでブラック、途方もなくばかばかしいSFコメディ大傑作!」
というのだが、「平凡な英国人」というのはどうなのでしょうね?
英国人に知り合いはいないのだが…
以下、地球が消滅したときの主人公アーサーの心理描写。
イギリスはもう存在しない。それはわかった――なぜだか実感できた。別のを試してみた。アメリカも消えた。これはうまく呑み込めなかった。もうちょっと小さいところから始めることにした。ニューヨークも消えた。反応なし。まあだいたい、彼にとってニューヨークは夢物語みたいなものだったし。ドルは二度と復活することはない。かすかにうずくものがあった。ボガードの映画は二度と見られないのだとつぶやいてみたら、したたかにぶん殴られたような衝撃があった。マクドナルドもだ。マクドナルドのハンバーガーなんてものは。もうどこにもないのだ。
気が遠くなった。すぐに我にかえったが、気がついたら母親を思ってすすり泣いていた。
(河出文庫「銀河ヒッチハイクガイド」83~84ページより)
こんな反応がフツーなのかね?英国人は。
ま、もちろんコメディなので、こうなのだが、
英国人ってばほんとにこんな反応をしそうだから、コワイ。
ピンク・フロイドの名盤中の名盤「狂気」で
かのロジャー・ウォーターズ御大もいっているではないか。
Hanging on in quiet desperation is the English way
(英国人らしくひそかな絶望に身をゆだねる…)
と。
②感想
これはもうキャラクター設定がすべて、
という感じがします。この本は。
オタクっぽい英国人アーサーを助けたのは
銀河ヒッチハイカーのフォードである。
フォード・プリーフェクトはかねがね、人類について不思議に思っていたことがある。自明も自明なことをたえず口にし、しつこくくりかえすというあの習性はなんなのだろうか。今日はいいお天気だねとか、きみはすごく背が高いねとか、わあ大変だ深さ十メートルの穴に落っこちたみたいだけど大丈夫かい?とか。この奇妙な行動を説明するためにまず考えたのは、しょっちゅう唇を動かしていないと口が動かなくなるのだろうという説だった。
(同書67ページより)
この人は「銀河ヒッチハイクガイド」という…
「地球の歩き方」の宇宙版みたいなガイドブックの会社の特派員である。
このアーサー、フォードの「仲間」?として、
ウツ病ロボットのマーヴィン、というのと
元銀河帝国大統領のゼイフォードという
詐欺師めいた野郎が登場します。
(大統領というのはホントらしい)
先ほどの片隅でロボットはぱっと顔をあげたが、やがてその首をほとんどわからないぐらいにふった。のろのろと立ちあがるさまは、実際より二キロほど身体が重いかのようだ。それを見ていると、ただこちらに近づいてくるだけなのに、途方もない難事に雄々しく立ち向かっているのかと錯覚しそうになる。トリリアンの前で立ち止まったが、まるで彼女の左肩を透かして向うを見ているようだ。
「先にお断りしておきますが、わたしはとても気が滅入っています」ロボットはぼそぼそと暗い声で言った。
「やれやれ」ゼイフォードはうめいて座席に沈みこんだ。
(同書123ページより)
ゼイフォードとつきあうのは楽ではなかった。とくに厄介なのは見分けがつかないことだ――他人を油断させるために馬鹿のふりをしているのか、自分で考えるのがめんどくさいので人に考えさせるために馬鹿のふりをしているのか、なにがどうなっているのかほんとうにわからないので、それを隠すためにとんでもない馬鹿のふりをしているのか、あるいはほんとうに馬鹿なので馬鹿をやっているのか。ゼイフォードは感動的に頭が切れると言われているし、それは事実そのとおりだ――が、そうでないときもある。彼は明らかにそれを気に病んでいて、演技をするのはそのせいだ。見下されるよりは煙に巻くほうがいいと思っているのだ。それこそきわめつきに馬鹿なまねだとトリリアンは思うが、もうそのことで議論する気にはなれなかった。
(同書135ページより)
あとはこの四人を勝手に泳がせておけば
自然に物語は出来上がる…そんな気がする。
(いや、その段階までもっていくのがすごい仕事なんだよね)
…四人に加えて、↑に引用した文章でちょこちょこ登場する
トリリアン、という女の子キャラも出てくるんだが、
彼女はいまいち性格がはっきりしない。(気がする)
やはりコメディの基本というのは、うだつの上がらない野郎どもが
「モテてぇなぁ~」「カネ欲しいなぁ~」「一発ヤリてぇなぁ~」
なんてウダウダやってるところにあるのであって、
そこに女子が混ざったりすると
ラブストーリーか英雄物語に変容してしまうおそれがあるわけです。
作者ダグラス・アダムスはそのあたりの微妙なバランスがよくわかっている。
だが、まあ…
「一発屋」である所以もそのあたりなのかもしれません……