というようなわけで…
小津安二郎青年が恋い焦がれる「あの人」とはいったい誰であったのか?
考察その2
②水久保澄子説
そもそも「みずくぼすみこ」とは何者なのか?
ウィキペディアをコピペしてみよう。
1916年 (大正5年)10月10日 、東京府 荏原郡 目黒村(現在の東京都 目黒区 )に生まれる。洗足高等女学校 を家庭の事情で中退後、東京松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団 )に入団(第5期生)。同期に同じく女優となった逢初夢子 がいる。楽劇部に2年ほど在籍後、映画界入りを希望し松竹蒲田撮影所に採用される。なお、逢初は一足先に既に同所へ入社していた。
それから間もなく成瀬巳喜男 の「蝕める春」(1932年)に出演し三女役を演じ、次女を演じた逢初と共に評価を高めた。次いで出演した島津保次郎 の「嵐の中の処女」(1932年)でアイドル的な人気を獲得。以後も立て続けに「チョコレート・ガール」(成瀬・1932年)、「君と別れて」(成瀬・1933年)などに主演した。また「非常線の女」(小津安二郎 ・1933年)ではレコード店の店員・和子役を演じて、主演の田中絹代 にひけを取らない存在感を示した。
松竹で着実にキャリアを積み重ねていたが、突然自殺未遂事件を起こし、さらに1934年 6月 には日活に電撃移籍してしまう[1] 。この事件は当時マスコミ の格好の餌食となり、興味交じりのゴシップ として大々的に報道された。 スキャンダル にめげず「若夫婦試験別居」(阿部豊 ・1934年)に主演、さらに滝口新太郎 との共演「厳頭の処女」などハイペースで映画に出続けるが、「緑の地平線」(阿部豊・1935年)撮影中にフィリピン から留学してきた医学生を名乗る男と結婚、作品を途中降板し渡航してしまう。怒った日活は代役に星玲子 を立てて、水久保を解雇する。水久保とは松竹蒲田時代から知り合いだったこの男は、南洋の王子様で大邸宅に住んでいるようなことを言っていたが、その実フィリピンの実家は単なる掘っ建て小屋、水久保はこの婚家で日本人というより、当時差別のひどかった中国人 の女中 とみなされこき使われた。騙されたことに気づいた水久保は一年ともたずに逃げ出したが、その際、一児を残してきたと伝えられている。
帰国を果たした水久保だったが、度重なるトラブルを引き起こした彼女を起用しようという映画人はもはやおらず、業界から完全に追放される。その後は各地のダンスホール で踊り子 をやったり、吉本興業 のショーに参加するなどしていた。神戸 でダンサーとして舞台に出ていたのを最後に消息不明となる。なお、映画評論家 の筈見恒夫 は、戦時中満州 で彼女を見かけたという。
当時としては非常に現代的な顔つきで、アイドル女優の走りともいうべき存在であった。マキノ正博
や片岡千恵蔵
が彼女のファンだったという。
…だそうです。
普段のぼくはこういう安易なウィキのコピペをやらんのですが、
(たぶんブログやりはじめて、これが最初?)
普通は、ですね、手持ちの本からシコシコ書き写すのが常なんですが、
なんつっても↑にみるように、映画界を短期間で干されてしまったお人。
しかも最後は行方不明。
もし大陸に渡ったという説が正しいのであれば、
動乱の中国大陸の中……
どこで、いつ死んだのかもわからない。
(ウィキにはそんなこと書いてないけど…終戦当時、強姦強盗の常習犯であるロシア兵が満州に跳梁跋扈していた事なんかも当然考えなければならない…中国の兵隊のレベルだって山賊の類とそう変わらない…)
んで、文献なんかほとんど残ってないんですね。
写真にしたところで…手持ちの文献をあさってみたところで
松竹の小津安二郎DVDボックス第4集のブックレットに小さく、
それと筑摩書房「小津安二郎物語」に成瀬巳喜男「君と別れて」のスチールが
ちょこっと載せられている。以上というようなわけで…これは困った困った。
ま。考えれば考えるほど暗くなってくるので…
澄子たんご本人に関する情報はひとまずおきまして…
小っちゃんの日記を見てまいりましょう。
これが…小津作品への出演機会がたったの一本。
「非常線の女」だけであったのにもかかわらず、
けっこう水久保澄子の登場回数は多かったりする。
1933年2月20日(月)
▲水久保衣装しらべ
(フィルムアート社「全日記小津安二郎」34ページより)
はい。「非常線の女」を撮っております。
で、日記によると封切りは4月30日であったらしい。
であるからして…
6月6日(火)
▲高山 加賀と銀座に出て水久保 逢初と竹葉でめしを喰ふ
▲港屋 村の珈琲店
服部の大時計が八時を打つた 竹葉のよしの戸から銀座の夜の町が美しい 九時がなつて one hour with you だ
(同書45ページより)
銀座のおしゃれなカフェで
one hour with you…
どうみても前回紹介した夢…
服部の大時計の見える銀座の二階で 僕がビールをのんで
グリーンのアフタヌンの下であの子はすんなりと脚を重ねてゐた夢だ
は、どうしてもこの日の出来事のことなんじゃないかと
勘ぐりたくなる…というか絶対そうだよね?
ちなみに
この意味ありげな記述の頃は「非常線の女」はとっくに過去のことになっております。澄子たんと仕事上の関係はなかった。
さて続きまして…
6月29日(木)
▲野球をやつた 種痘をした
▲キャンデーでクリームソーダをのんで水久保に会ふ
(同書47-48ページより)
む、むむむ…「野球」「クリームソーダ」って
あんた小学生?とかおもわせておいて…
ヤルことはヤッテます。
これっておデートなんでございましょうか?
さてお次は一気に年末
11月26日(日)
▲女学生と与太者
歯をなほした水久保澄子はまことに淋しい
大に点を打つて犬になつた類か
(同書57ページより)
澄子たん主演の映画を見てなんかブツブツいってます。
もちろん小津安二郎作品ではないです。
んで、年が明けて1934年
2月6日(火)
水久保澄子退社
(同書72ページより)
↑ウィキペディアの記述の「自殺未遂」とかいうのは
一体いつなのか?この頃のことなのか?
ともかく小っちゃんが残したのはこの一行だけ。
…で水久保澄子に関する最後の記述は以下のとおりになります。
5月30日(水)
会社に行かず 八時筈見と帝劇に会ふ 水久保澄子と会ふ
フレーデルマウスにて一問一答 のちルパン
深夜帰る 信三この日修学旅行に出て母一人 加賀千代の〈起きて見つ寝てみつ蚊帳の広さかな〉を思ひ出してゐたと云ふ
(同書82ページより)
うーん…このあとの6月、日活への電撃移籍、
なんてことを考えるとさらに興味深い。
フレーデルマウス、ルパンってのは
銀座のバーの名前らしいっす。
あの大物スパイ、ゾルゲも通っていたとか。
「一問一答」ってのがなんかいいなぁー…
二人きりだったのかなぁ…
「小っちゃん、あたし、ね…」
なんて澄子たん言ってたのかな。
いいないいな。想像すると楽しいな。
深川の家に夜中帰ってきて、
(大きなお屋敷だったそうですよ)
お母さんがまだ起きているとかいうのも良い。
五・七・五も効いてます。
たった四行の記述なんだが…深いなぁ…
どうです?どうです?
「あの子」っていうのはやっぱ水久保澄子たんで決定なのでは?
前回紹介した
「惚れるのなら僕の趣味から云つて馴れない女の方が好きだ」
ってのも効いてくるわけですよ。
小っちゃんみたいな真面目でシャイな名家のお坊ちゃんに限って
こういう…ま、はっきりいって「ダメな女」
スキャンダルまみれのメンタル不安定の…
詐欺師に引っかかってみすみすキャリア棒にふっちゃうような…
ほんとアバズレダメ女に魅かれちゃうんだよな…
だからこそ好きなんだよな。
わかるよわかるよ、うんうん。よくわかるよ、その気持ち。