たとえば、
クロサワが自伝を書いてみたり
(「蝦蟇の油」…すこぶるおもしろし)
あるいはNHKによる「影武者」撮影の記録が残っていたり
宮崎駿やら北野武やらといった人たちとの
対談の映像が残っていたりするのに比べると
まあ、テレビ以前という時代の制約というのも大きいけれども
小津という人は
「自分を語る」ということがほとんどない人
であったのだということができます。
そんな中で、戦前、戦中に小津相手に行われた
雑誌の取材、対談を集めたのがこの本。
以下、感想です。
感想①山中貞雄の死。
このことには何度か当ブログで触れていますが、
小津は1937年~1939年、中国大陸で一兵士として従軍しています。
なので、僕のような腐れインテリは
「戦争(日中戦争)は小津安二郎自身および小津安二郎作品をどのように変化させたのであろうか?」ということをどうしても考えたくなるわけですが、
あっさり解答をいってしまうと、
歴戦の下士官、小津安二郎軍曹は
戦争それ自体にはたいして影響を受けなかった。
ということになってきそうです。
というのも、戦争なんぞよりももっと大きな出来事があったから
――それが彼の弟分にして、
日本映画史上最大の天才(そういっていいんじゃないっすか?)
山中貞雄の死、でした。
ちょっと長くなりますが以下引用。
「映画ファン」という雑誌の昭和14年11月号にのったものらしい。
筈見 山中に会った時の話をしてくれませんか。
小津 それは昭和十三年一月十二日だよ。南京を去る九里、句容の砲兵学校だった。骨を持って(トマス注:戦友の遺骨)上海に行った帰りに、その横に森田部隊が一晩泊った。…(中略)…そうすると隣に片桐部隊がいるというので、山中を訪ねた。そうしたら奴は人気者なので直ぐ分った。
筈見 隊では相当人気があったのですね。
小津 それは非常なものらしいね。朝早く、六時半頃に行ったら、向うは朝の点呼が済んだ直ぐ後で、「山中おりますか」と云ったら、いろいろ捜してくれたが、結局便所に行っていた。暫く待つと、便所から来て、「小っちゃん、戦争えらいな」と云った。それが奴の第一声だったな。それで班へはいって行った。…(中略)…吐夢さんに送って貰ったという中村屋の駄菓子を、食え食えと出す。「山中、お前食わないのか」「この頃は何んでも食うや」。僕は朝飯を食ったばかりで、朝っぱらから、駄菓子を食う訳にもいかんので、写真機を持っていたが、班で話も出来ないので外に出た。僕と一緒に出て、兵隊を一人入れて写した。それは現像すれば写るかもしれない。
小倉 どの位一緒におりましたか。
小津 四十分位しかいなかった。
(泰流社「小津安二郎全発言」116-117ページより)
幸運なことに、この時、小津のライカで撮影された写真は残っている。
(山中のコンタックスで撮ったとすると残らなかったかもしれない)
二人とも髯がのびていて、真冬なので寒そうである。
小津はにこやかな微笑を浮かべているが、
山中は…どうしても彼の死を知っているせいだろうか?…
どこか疲労の色が見える。パイプを口にくわえているのが、
なにか虚勢のようにもおもえたりする。
「小っちゃん、戦争えらいな」
――山中貞雄について語られるとき、必ず出現するセリフである。
インタビューは以下のように続きます。
小倉 内地の話なんか出ましたか。
小津 内地の話はいろいろ仲間の話をした。最近お前の所へ誰から手紙が来た。清水はこう云って来た、井上金太郎はこう云って来た、そういう話をひとわたりした。その時の山中の感じは、何と云うか、還ったら現代物を撮りたいという感じが非常にあった。それは云わず語らずのうちに、そういう感じを非常に受けたな。いろいろ話して「小っちゃん、還ったら戦争の写真撮るか」と云うのだ。「戦争の写真は何んにも考えていない、沙堂(山中氏のこと)どうだ?」と訊いたら、撮りたいと云いたかったのだろう。「俺も分らん、がギャグが大分たまった」ということは云っておった。
(同書117ページより)
また引用。昭和14年8月東京朝日新聞。
小津 戦地で山中貞雄を訪れた時、山中は無精髭を伸ばしながらニコニコして出て来ていきなりおっちゃん(小津氏の愛称)戦争てえらいもんやナアといった。僕は山中の遺稿を中央公論で読むまでは、ちっとも戦場で映画の事を考えなかったが、あれを見てからはこれはいかんと思った。
とにかく山中は向うで会っても映画の事を熱心に考えていたよ。
(同書105ページより)
昭和14年7月31日報知新聞夕刊。
小津の奴帰ったら何か変わったものを作るだろうと思うかもしれないが、現地で少しは苦労して来たから多少は変るだろうが、大体暗いものは止めることにした。同じ暗さの中にも明るさを求め、悲壮の根本にも明るさを是非盛込みたいと思う。現地では肯定の精神の下に立ったレアリズムのみで、実際あるものはあるがままに見て来た。これからはこれを映画的に再検討する。
…(中略)…
陣中で友人山中貞雄の遺書を読んだが、あの戦争の中にも映画に対する烈々たる情熱を持っているのにすっかり打たれた。それから不勉強ではいかんと勉強した。まあこれから遺族の見舞でも済ましてから長期戦で行くことにする。
(同書103ページより)
おそらく、
小津にとっては
約2年続いた従軍生活それ自体よりも
たった40分の山中貞雄との出会いの方が
重要だった
……のです。
そして以降、彼はひたすら「明るさ」を映画の中に求めていくことになります。
昭和16年…太平洋戦争開戦の年の「戸田家の兄妹」以降、
例の紀子三部作を経て、最後の「秋刀魚の味」まで
彼は日本の家族の崩壊を描いていきますが、
表面上は「娘の結婚」を扱い、ひたすらに「明るさ」を盛り込みます。
逆に「不倫」を描けば失敗し(「早春」)
「堕胎」「自殺」を描けば、また失敗します。(「東京暮色」)
彼が若いころに盛んに描いた「犯罪」「犯罪者」は、
小津映画にすっかり登場しなくなります。
当然、国家権力もまた登場しなくなります。
といって小津映画にあるのはただの「安定志向」というようなものではない。
小津の映画ではあらゆるものが崩壊していきますが、
そのあまりの明るさ…悪意のなさというのは、
戦争に似ています。
砲弾や銃弾によって、人が死ぬ。建物が破壊される。
そこにあるのはただの「破壊」「崩壊」でしかない。
人間のちっぽけな「欲望」「悪意」などは差し挟まれないわけです。
人間の「意志」などというちっぽけなものではない、
なにかそれ以上のものが――
なにか「エントロピー」とでもいうより他ないものが
なにもかもを崩壊させていきます。
「小っちゃん、還ったら戦争の写真撮るか」
山中貞雄は、そう小津にききました。
たぶん、小津は戦争映画を作り続けたのです。
「晩春」も「麦秋」も「東京物語」も…
表面上そう見えないだけの話で…
じつは戦争映画なのです。
悪意なしで
物事がひたすら崩壊する映画なのです。
そこには機関銃もタンクも軍艦も爆撃機も登場しませんが…
ある日突然わかい女の子が
(原節子からはじまり岩下志麻まで)
不気味に消えていく物語、なのです。
そして死者…
――原節子の母、兄、そして夫として描かれる死者――
死者に関する映画なのです。
そしてとうぜんそれは、山中貞雄その人に関する映画でもあるわけです。
あるいは、戦死してしまったもう一人の小津安二郎に関する映画なわけです。