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東京カテドラル聖マリア大聖堂(丹下健三) 感想

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はい。またもやタンゲです。


「建築MAP東京」からの引用から始めることといたします。


東京カテドラル聖マリア大聖堂

丹下健三

文京区関口3-16-5

用途:宗教施設

竣工:1964年12月

延床面積:3650㎡


大地より建ち上がる8枚のハイパボリック・パラボロイド・シェル、天空からはその隙間を通して十字形に光が降りそそぐ。垂直性、光輝性……、カトリックの空間が現代のテクノロジーにより、さらに純化された。なんと中学校の美術の教科書にも載った作品。

(TOTO出版「建築MAP東京」141ページより)

なんつーか、この本の記述は基本そっけないんだが、

この建物に関しちゃ熱い。アツい。


まーそれも無理はないんである。

たぶん、東京にこれ以上の建築空間は…たぶん…ないんで。




最近、四月と五月に東京カテドラルへ行く機会があった。

四月はひとりで、五月は某女と一緒に見学しに行きました。


今や大昔のことになりますけど…

僕が、ですね。

大学の建築学科に入って、一年生の四月ころ言われたのは

「建築はひとりで見に行け」

「建築家はひとり旅をするものだ」

などということでありました。


たしかにその通りだとおもう。

良い建築には

グループで行くべきでは絶対にない、とおもう。


厳しいこと言ってしまうけど、さ。

人間が三四人と集まってしまうと、必ずその中には

感性の鈍いヤツが一人は含まれることになる。

はい。キツいこと言ってます。


そうなると…集団での歩行速度が、

その集団の一番遅い人のペースになってしまうのと同様のことが起こる。


いいですか?


だから、せっかく良い建築に出会ったというのに

その感想が…一番鈍いヤツの感性に左右されてしまうんだな。

鈍いヤツに限ってくだらないこと口走るじゃない?

だまってりゃいいのにさ。


だから僕は建築はひとりでみたい、とおもう。

まーもともと友達がほとんどいないんですけど、ねー


そんな、偏屈のトマス先生が、二人連れで建築見物…

なにが起こったかはおいおい書くとして…




とりあえず感想を書いていこうとおもいます。


そうそう画像ですが、内部の撮影は禁止。でした。

すごいんだよー

むき出しのコンクリートが織りなす…巨大な…恍惚の空間。




前々回の記事、白井晟一の石水館で、

近くにあったタンゲの静岡新聞本社の建物をさんざんけなしましたが、

それと同様の問題点がやっぱりこのカテドラルでも見うけられます。


欠点①土地を無視している。

たぶん「この場所でしかいけない」ということはない建築です。

つまり東京にあろうが、京都にあろうが、北京にあろうが、NYにあろうが、

カトリックの、このサイズの教会をオーダーされたとしたら、

やっぱりタンゲはこういう建築を作ったでしょう。


イソザキのつくばセンターが「つくば」でなければならなかった、

原広司の京都駅が「京都」でなければならなかった、

そういうことはないんですよ。この建築。


欠点②サーリネン風

よくいわれること、の繰り返しですけど。

タンゲはけっきょくモノマネがうまいだけなんじゃないのか?

ヒロシマのコルビュジエ風、旧都庁舎のミース風。

代々木体育館のサーリネン風。

そしてあの都庁のもろにポストモダン……


で、このカテドラル。やっぱり「構造表現主義」

やっぱりサーリネンのモノマネなんじゃないの?


というわけです。


…はい。

以上、欠点書きましたけど、


これって好きだからこそ出てくる悪口、という気がする。


だって嫌いだったら、ねぇ?

無視すりゃいいだけのはなしですもの。


なんかこう、父親、親父、パパへの悪口という気がするな。

足が臭いだの、イビキがうるさいだの、

家の中をハダカで歩き回らないでくださいますか、だの、


結局愛している対象への悪口なんだよな。

日本建築界のドン、大ボス、大巨匠への悪口。



おもしろいのは…(おもしろがっていいのかわからないけれど)

タンゲ自身の目も「父」にむかっていた事だろう。


日本建築界の「父」、イソザキアラタやクロカワキショウの「父」の目は、

天にましますわれらの「父」にむかっていた、ということ。


丹下健三

カトリック教徒だからね。

丹下自身のお葬式もここでやったからね。

自分の作ったこの教会で、自分のお葬式が行われる。

たぶんその流れはみえていたんだろう。

1964年。乗りに乗っていた時期にね。



僕のことに戻ることにします。

(以下くだらんエッセイです)


四月にひとりで行った時は、

コンサートの直前で、建物の内部、けっこう慌ただしかった。


パイプ椅子を並べる音。オルガン、トランペットの練習の音。

音響がすさまじくて…

たしかプッチーニの「ラ・ボエーム」かなんかをやっていたとおもうんだが、


音の塊が、巨大な聖堂の空間内に反響し、吸い込まれ、

物質としての音に、しばらく呆然としていた。


ちょうどいい時に行った、とおもった。


さて五月。

「建築はひとりで見るべし」という建築教の戒律を破って二人で行ったんだが、

結果はすこぶる意外だった。


四月とうって変わって、聖堂内は沈黙に包まれていた。


外国人の中年夫婦が先客でいたっけ。

僕と同行の某女は

聖堂内に入るなり、「あ、これはヤバい」と小声でささやいた。


僕は、いろいろ外観の写真を撮らせてもらったので

入口近くの「お賽銭箱」みたいのに献金をした。

沈黙の巨大空間内にコインの落ちる音が、大音響で響いた。

響いた後、聖堂内は静まり返った。


今回は沈黙の塊が頭上にあるようだった。

とても喋ってはいけない。喋れない空間。

黙ったまましばらく歩き回っていたが、

そのうち某女は聖堂内の一番前の席に座りこんだ。


みていると、そのうちボロボロ涙をこぼして泣き始めた。


いちおう書いておくと、某女はクリスチャンではない…

どころか、宗教というものを占いやなにかのオカルトとひとくくりにして

バカにしているフシがある。

そういうドライなひとである。


その人が聖堂内にすわりこんで、ハンカチで目頭をおさえていた。


しばらく…十分かそこら見学して、聖堂内部を出た。


出てから、また、建築の外観を、僕は例の16-35mmズームで撮り漁り、

撮りながら、

「どうにか、あの建築の内部を撮る方法はないものか」

などといった。

すると彼女はいった。


「あの空間は撮っちゃダメ」


怒っているように…泣いているように…

あるいは…

子どもに教え諭すように、いうのだった。


「あのね、撮ったりしちゃいけない空間というのがあるんだよ」






(↑ま、例によって、リバーサルでもいろいろ撮りました。

ドアの取っ手の愛らしさ、くぅぅーーっ、たまらん)



□□□□□□□□


学んだのは、ですね。

「建築はひとりで見るべし」には例外もあるってことです。


お相手が自分より上の感性の持主の場合。

ふたりで見るべき、です。




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