正式なタイトルは
「ペルシーレスとシヒスムンダの物語」
ちくま文庫で上下巻。
この前、バルザックの「セラフィタ」の感想を書いたときに
ちょっと触れたミゲル・デ・セルバンテスの失敗作です。
なんかもう一度読みたくなって読んでしまった。
そしたら、素直におもしろかった。
なんつっても「ドン・キホーテ」のセルバンテス先生である。
…う~ん、というか、月末までに会社の報告書を書かねばならない、
というシチュエーションの中で読んだから…
余計におもしろかったのかもしれません。
休日一日で上下巻読み終わってしまった…
あらすじ
ヨーロッパのはずれ(バルト海?)のある島から
超絶美女&超絶美男の兄妹がローマ巡礼の旅に出発する。
彼らの名前が「ペルシーレスとシヒスムンダ」…なわけだが、
どういうわけだか「ペリアンドロ」「アウリステラ」と名のって旅をしている。
(偽名を名乗る理由は2回読んでみた今でもよくわからない)
ともかく、兄妹はものすごくかわゆくて性格がいいので
あらゆるところで彼らを恋人にしたい人たち
…一発ヤリたい人たちがあらわれ、トラブルを巻き起こす。
まあ、最後はめでたく(貞操を守り通し)ローマに着いて
兄妹は実は恋人同士だと明らかになって、結婚する。
感想①かっこいいアフォリズム
バルザックの「セラフィタ」は、ロマンチックな口説き文句の宝庫であったが、
こちらはかっこいいアフォリズム(箴言・警句)の宝庫でありました。
以下引用。
「災難というやつはどこまでも執念深くて、厄介払いがきかないようだ。地の果てまでも親友づらをさげて付きまとい、こっちがくたばるまでは、離れようとしないのだから」
(ちくま文庫「ペルシーレス」上巻96ページより)
話というやつは陰口という塩をきかせると興味は倍増するが、後味はにがくなる。
(同書115ページより)
恋は王杖と牧人の杖を結び、貧富貴賤を平にし、不可能を可能にし、死神もどきの能力さえ持っている。
(同書165ページより)
恋い悩む者は自分などに愛の見返りを受ける値打ちはない、と思うものである。愛は不安と切れない仲にあり、いつでもどこでも二人連れだ。
(同書216ページより)
だが詩とは素晴らしいものである。澄明の清流のごとく不浄を寄せつけない。ありとあらゆる猥雑物の中をぬけながら、太陽のごとく何ものにも染まらない。見る目に応じて評価の変る技であり、密閉されたところから射出する光線であり、ものをこそ焦がさないが目を眩ます。それはよく調律された楽器でもあって、感覚を甘くやさしくたのしませ、たのしませるとともに節度をそなえた有益なものである。
(ちくま文庫「ペルシーレス」下巻22ページより)
かっこいいです。
ただ考えてみると「ドン・キホーテ」のおもしろさというのは、
「騎士」の格好をした頭のおかしなおっさんが
たまにものすごくかっこいい警句を吐く――という基本構図にあったことを
考えると、セルバンテス先生のお得意パターンなのでしょう。
感想②ノスタルジーゆえの失敗。
文学史的にいうと、セルバンテスが生きていた時代
(つまりはシェークスピアの時代、でもありますが)
というのは、重大転機の時代にあたっております。
というのもグーテンベルクの印刷術が、「文学」――つまりは
「コトバ」というものに対する人びとの意識を完全に変えてしまった…
まさしくその時代にあたっていたから、です。
そのあたりの歴史を僕なりにひどく簡潔に説明してしまうと…
古代(シャーマンのマジカルなコトバ)→ルネサンス以前(写本による手で書かれたコトバ)→ルネサンス以降(グーテンベルクの活字によるコトバ)
というような構図になります。
この図をざっと敷衍しますと、ですね…
古代、コトバは書かれるものはなく、もっぱら発音されるものであったわけです。その時代は「コトバ=魔法」であった。パワーがあった。
文学的に見てみると、ホメロスの「イーリアス」だの旧約聖書だのがわかりやすい。神様が直接に人間に関わり「○○しろ!」「○○はするな!」と呼びかける。
これが…新約の時代になって…
つまりイエスの時代になると神は直接人々に生活に関わることをやめます。
(ま、イエス=神なんでしょうが、でも旧約のヤーウェとは明らかに違う)
「○○しろ!」「○○するな!」と圧力をかけるのはやめ、
たとえ話をつかってやさしく語るようになります。
これはコトバが、そのマジカルな性格をいくぶん弱めてしまった――つまり、写本の普及により、コトバが「書かれるもの」になってしまったことと強いつながりがあるでしょう。
今でも死海のほとりからなんとかいう写本がみつかったとかいうニュースがたまにあります。イエスの時代は写本の時代でもありました。
そして「写本」につづいて
「コトバのマジカルな性格」を決定的に破壊してしまったのが
グーテンベルクの印刷術で…
(ま、このあたりの詳細はマーシャル・マクルーハン「グーテンベルクの銀河系」を読んでいただくより他ないですが)
その結果出現した人類文学史上最大の傑作が
かの「ドン・キホーテ」であったわけです。
(やれやれ、やっとセルバンテスに戻ってきた)
このあたりの経緯はマクルーハンにいわせればこうです。
活版印刷の論理は<アウトサイダー>、つまり疎外された人間を創造した。彼は欠けるところのない人間、つまり直観的で<非理性的な>人間の典型として創造されたものである。
(みすず書房「グーテンベルクの銀河系」323ページより)
――つまりですね、「ドン・キホーテ」の基本構造をおさらいすると、
物語から完全にマジカルな要素を抜き去り、
下層階級…および中流階級の登場人物が
あくまで唯物的に物語を展開していく…という
ま、今から見ればあたりまえすぎるほどにあたりまえな構造を、
セルバンテスは発明してしまったわけです。
文句なしにおもしろい「ペルシーレス」ですが、
それでもやはり失敗作であるのは、このあたりでしょう。
セルバンテス自身はおのれの最大の発明…
つまり近代小説というシステムをこの小説で採用しなかった。
「グーテンベルク以降」の、
コトバが100%マジカルな要素を失ってしまった時代、
その無味乾燥な時代にふさわしい文学形式を
セルバンテスは最後の作品で使用しなかった。
ノスタルジーがあったんでしょうねぇ、おそらく。
コトバが神であった時代…人間が神であった時代へのノスタルジーが…
そして自分がそののどかな時代を破壊した張本人であることもまた
よくわかっていたのかもしれません。