「お茶漬けの味」(1952)感想つづき。
④小津作品=「キライ!!映画」
そもそもなぜ佐竹妙子(木暮美千代)は
ご飯に味噌汁をかけるのがあれほどキライなのか??
なる謎を考えてみたいのですが、
ふと考えてみると、ですね……
小津作品って「キライ!!」――
……嫌悪の感情が良く出てくる。
というか、嫌悪の感情が作品全体を動かしているような気がする。
サイレントの「淑女と髯」(1931)
女の子たちは主人公の岡田時彦の髯を
「キライ!!」
とみつめるのですが、
髯を剃ったとたん、
「まあステキ」と態度が一変する。
(もちろん岡田時彦なので)
「東京の合唱」(1931)――
そもそも岡田時彦が会社をクビになったのは
社長にたて突いたからで、
「こんな会社、こんな社長、キライ!!」というわけです。
で、失業して、恩師の食堂(カロリー軒)のビラまきの手伝いをすると、
こんどは八雲恵美子の奥さんが
「そんなことするあなた、キライ!!」
と怒り出す、という……
「キライ!!」映画となっています。
とにかく「キライ!!」が作品全体を動かすのです。
これって……
とても珍しい気がする。というかオヅ、だけ??
(他の監督でありますか??)
フツーは、ですね……
映画というのはですね……
●「~が欲しい」(カネ、女、権力、等々)
とか
●「主人公が~という危機的な状況に追い込まれた、さてどうする」
とか
●「主人公の自分探し」
とか、
ま、おとぎ話・神話あるいは大衆文学でよくあるパターンを採用するのが多いんです。
そのパターンで映画全体をひっぱります。
(6/28の当ブログの記事 『「麦秋」のすべて その3』でクロサワに関してそんなことを書きました)
ところが小津安っさん。
この人は
すべて「キライ!!」一本槍で作っている気がする。
(あーー……ホント変てこな野郎だぁぁぁぁぁ……)
(まー逆にいうと、
だから「恋愛モノ」が撮れない。
とうぜんだわなーー、「キライ!!」しか撮れないんだもん)
以下、小津作品における「キライ!!」をひきつづきみていきます。
いちいち全部は書きませんが……
(全作品に当てはまる気がします、ので)
「非常線の女」(1933)
田中絹代が「あの女、キライ!!」
と、ピストル持って水久保澄子を脅しますが、
平気な顔してるのをみて、一変、好きになっちゃって、
チュッ……
(でも、この「好き」ははっきり描写されませんな~そのあとLの世界に突入するわけでもないし)
「戸田家の兄妹」(1941)
高峰三枝子、葛城文子、飯田蝶子の三人はあちこちの家で
「キライ!!」と追い出されます。
ですが、中国から帰国した佐分利信が仕返しに
兄弟たちを「キライ!!」とやっつけます。
シナリオS84にはこんな会話まである。
節子「まあ……ねえ、時子さんなら、お母さんも大好きなんだし、お兄さまには一番いいと思うんだけど」
昌二郎「お母さん、お好きなのか!?」
節子「駄目よ、お母さまのせいになすっちゃ、お兄さまよ……どう……お好き?」
昌二郎「そうでもない」
節子「お嫌い?」
昌二郎「うん……そうでもない……」
節子「じゃ……どっち?」
とまあ、「キライ!!」ははっきりしてるのだが、
「好き」となると途端にぼんやりしてしまう。
「晩春」(1949)は、もう「キライ!!」映画の代表作と言ってよいでしょう。
というか、原節子ほど
エレガントに「キライ!!」を表現できた役者は他にいただろうか??
小野寺の小父さまの結婚を「フケツ!!」といい、
お父さん(笠智衆)の縁談のはなしがでると途端にぶんむくれる。
「晩春」S52
まさ「でも、お父さんはお父さんのこととして、あんたはどうなの?」
紀子「あたしそれじゃいやなの」
お能のシーンでは
三輪さん(三宅邦子)を
こんないやぁーーーな目でみつめる。
S68 アヤちゃんの家でも
「いやなの!」「いやなのよ!」と暴れまくる。
トマス・ピンコは「戸田家の兄妹」「父ありき」「晩春」を……
「△」映画である、とみごと(?)喝破したわけですが……
「△」=「キライ!!」とさえ、思えてきてしまいます。
(たぶん、違う??)
えー
ところが、原節子。
「麦秋」(1951)の間宮紀子となると、
丸の内のOLさんのせいか(??)
ちっとも暴れませんで、
かわりに暴れるのが
例の小津安二郎の分身……
間宮実くん。
パンが「キライ!!」と暴れ、笠智衆にぶん殴られる、という……
「東京暮色」(1957)
S97で、有馬稲子たんは
「お母さん嫌いッ!」といいますが、
彼女は小津作品の本質をしっかりつかんでいたといえるでしょう。
えー……
なんでこんなことを書いているのだ?……
そうそう、木暮美千代は
ご飯に味噌汁をかけるのがあれほどキライなのか??
という話でした。
以下、謎解き。
⑤「食べる」+「飲む」=「お茶漬けの味」(ラーメン)
まず……
「お茶漬けの味」にはもうひとつ、
印象的な飲食シーンがあったことを思い出したいところ。
節子(津島恵子)とノンちゃん(鶴田浩二)のラーメンシーン。
というか、すでに「晩春」のeatとdrinkの分析において
「結婚」と「食べる」の親近性を知ってしまったわれわれは――
↑↑「秋日和」の例もあることですし……
あーこの二人は結ばれるんだな、とおもいます。
ご丁寧にも、二人の会話は「お見合い結婚の是非」
津島恵子はお見合いがイヤで逃げて来たばかりですが、
鶴田浩二は、見合いの相手がひょっとしてすごくいい男かもしれない、
といいます。
そのくせお互いがお互い、気になっていることは
観客には見え見えなんですけど。
ラーメンに関しては、フィルムアート社「小津安二郎を読む」に
こんなことが書いてあって、
ラーメンは、『一人息子』で生活の苦しい息子が田舎から上京した母に食べさせるところに初めて登場する(この場合、屋台で作らせたものを家に持って帰って食べている)。昭和初年のラーメンは高価ではないが、まだ珍しく、東京に来た母にご馳走する食物としてそれほど粗末なものではなかっただろう。この時息子が母に言う「ラーメンはね、汁がうまいんですよ」という台詞は、当時なら地方の観客には新知識だったかもしれない。だが、戦争中のシナリオを映画化したとはいえ1951年の『お茶漬けの味』で鶴田浩二がラーメン屋で津島恵子に言う台詞としてはいささか時代錯誤ではなかったかと思われる。
(フィルムアート社「小津安二郎を読む」270ページより)
そういや「一人息子」にでてきたっけ、とおもいだすのでありました。
シナリオを見てみると
S64
良助「おッ母さん、おつゆがうまいんですよ」
おつねも、のむ。
良助「ね――ちょっと、うまいもんでしょう」
という感じ。
じゃ、「お茶漬け」はどうか、というと、
シナリオがないので、DVDみながら書きとりますと……
登「どうです。うまいでしょう」
節子「うん、おいしい」
登「ラーメンはね、おつゆがうまいんです」
そして、二人でおつゆをのむ、という具合……
んー……なるほど、繰り返してる。
でも、時代錯誤?
わたくし的には
津島恵子は大磯のお嬢様なので、
ラーメンのような下賤な食べ物は食べたことがないのだろう、と
勝手に解釈しましたが……
ん。でも繰り返しは……なんか、クサい。
何が隠れてるのか??
暗号……
ははは……
もうおわかりですかね~
↓↓「飲む」をやたらと強調したがるという点。
小津作品で
ラーメンときたら、かならずおつゆを飲まなきゃいけない。
なぜ?
といや、
drinkを強調したいから。
ラーメン=「食べる」+「飲む」
という完璧な食べ物だから。
だから「一人息子」の家族はラーメンを食べるし、
「秋日和」のやがて結ばれるカップルはラーメンを食べる。
そして「お茶漬けの味」の津島恵子と鶴田浩二は
ラーメンを食べてしまった以上、これまた結ばれるより他ない、のでしょう。
なので、
味噌汁かけごはん=「食べる」+「飲む」
これまた完璧な食べ物なわけです。
で、もし……
木暮美千代と佐分利信が完璧なカップルだったら、
お互い深く思いあっている夫婦だとしたら、
この食べ物は問題ない。
でも、木暮美千代はそういう存在じゃないわけです。
いちおう「結婚」しているけど、
なんか少女趣味の部屋に住んでいて、遊びまわっていて、
少女時代の延長のような人です。
はっきりいうと、彼女は「結婚」していないのです。
だから「味噌汁かけごはん」という
完璧な食べ物が嫌いなのです。
なので、ラストのお茶漬けシーンが
なぜあれほどまでに感動的か、というと、
一組の疑似夫婦が――
ホンモノの夫婦になる、「結婚」する、そのありさまが丁寧に描かれているからでしょう。
このあたり……
「お茶漬けの味」は戦前の「淑女は何を忘れたか」のリメイクと言っていいとおもうんですけど、
「お茶漬け」の方が、
役者が段違いにいいし、(銀幕の女王栗島すみ子先生には失礼ながら)
食べ物を二人で作る、という小津安二郎らしい即物性が、たまらない。
「パンは?」
と木暮美千代がパンをさしだすと、
佐分利信が首をふる。
またやってます、小津安っさん。
↓電気冷蔵庫が!!
「全日記小津安二郎」のどこかで
アストール(?)の電気冷蔵庫を買う。
とかいう記述をみかけたことがあったのですが、
見つけられませんでした。
でも、確かにみたはず。銀座で買ったはず。
たしかアストールとかいうメーカー名だった……ような??
↓○だらけ……
この……木暮美千代の……
ふだんまったく台所に入らない雰囲気、というのがいいなぁ~
(女中さんまかせなので)
でも、こういう奥さまに限って
いざ料理をやらせると、うまかったりする。
で、めでたく二人は
「食べる」+「飲む」の、
完璧な食べ物を口にします。
なので、前回引用した田中眞澄先生の文章――……
「やはり次善の案だったはずの『お茶漬けの味』で行くしかなかったのだろう」
と、タイトルに関して小馬鹿にしたことを書いていらっしゃいますが、
「ウルグアイ、モンテビデオ」
が、実に深い意味を持っていたように、
「お茶漬け」もやはり、お茶漬けでなくてはならなかった。
わけです。
(学者とか評論家とかいうのが、いかにいい加減な商売かがよくわかります……)
それはもう、
「晩春」で、あれほどまでに
eat と drink の差に意識的であった
小津安二郎&野田高梧コンビですから――↓↓
当然のことです。