まずは今までの復習です。
その1で、
・「うずまき」+「振り子」=「回転運動」
・「東京物語」=「振り子時計映画」
などとヘンテコな公式を書き、
「ぐるぐる」とか「バタバタ」とか……
いちげんさん完全無視の記事を書いてしまったような気がしますので――
ここで、
「東京物語」(1953)
にいたるまでの小津安っさんの作品歴をざざっと振り返ってみようとおもいます。
はじめにおさえておくべきポイントは……
◎小津作品とは、
「幾何学、数字の純粋な運動で客を魅せる」映画である。
コレです。
くわしいことは『「麦秋」のすべて その3』に書きましたが、
圧倒的な戦場体験を経た小津安二郎は、
映画から
・「物語」を捨て、
(例:あの女or男が欲しい、からはじまる物語。苦境に落とし込まれた主人公が苦境からいかに脱出するか、からはじまる物語。自分探しの物語、等々)
・「社会問題」を捨て、
(例:失業問題、人種問題、貧困問題、テクノロジーがいかに人間らしい生活を歪めるか、等々)
映画本来の「運動」だけで、観客を魅せる、という方法にいたったわけです。
源流は、戦場帰りの小津安二郎軍曹が
はじめてメガホンをとった
「戸田家の兄妹」(1941)、です。
「戸田家」は、戸田家の家紋「三つ持ち合い一重亀甲」
がそうであるように↓↓
「3」「△」のリズムですべてが構成されていました。
画面上の運動は「3」が基調になり、
シナリオにも「3」が頻出します。
(くわしくは『「戸田家の兄妹」感想その3』を参照してください)
「戸田家の兄妹」の中心の△は
・佐分利信
・高峰三枝子
・葛城文子
の「妹萌え△」
さらに――
おそろしいことに、ヒロインを演じるのが
高峰三枝子……高峰「3」枝子、という小津流の凝りっぷり……
この「3」は「父ありき」(1942)で繰り返されます。
笠智衆、佐野周二……そして亡くなったお母さんの「△」
そして小津安っさんの作品歴において
究極の「3」「△」の呈示が――
「晩春」(1949)です。
もちろん、笠智衆、原節子、……そして亡くなったお母さんの「△」
なわけですが、
くわしくは『「晩春」のすべて』をご覧ください。
「小津安二郎」
――というと、
「美人女優が嫁に行くとか、行かないとかいう映画ばかり撮る妙なオヤジ」
という印象をお持ちの方も多いかとおもいますが、
それはまったくその通りですが(!!)
……前述しましたとおり 「物語」→ゼロ 「社会問題」→ゼロ
スクリーン上にあるのは純粋な運動のみ。
というじつにアヴァンギャルドな方法論が
原節子が嫁に行く
有馬稲子が嫁に行く
司葉子が嫁に行く
岩下志麻が嫁に行く
そんな作品群を生みだしたのだといえます。
そして「麦秋」(1951)は、
「○」と「8」の運動でした。
これまた『「麦秋」のすべて』をご覧いただきたいのですが、
書き加えたいことがひとつ。
1936年発足の監督協会について
田中眞澄がこんなことを書いています……
小津安二郎は監督協会の設立、運営に極めて積極的にかかわっていく。五月三日に熱海の錦城館で開かれた総会で、彼は山中、成瀬、内田とともに研究部委員に就任、また彼がデザインした協会マークを、会員の作品のタイトルに使うことが決定した。フィルムのコマを模した横長四角形に8の字を横にして収めたもので、映画が第八芸術と称されたことに由来する。
(岩波現代文庫・田中眞澄「小津安二郎周游」上巻168ページより)
「8」……「第8芸術」……
以前、「麦秋」とは「映画とは一体なにか?」
という映画である。
などと書きましたが、「8」という数字はこのあたりにからんできそうです。
「小津安二郎周游」
「お茶漬けの味」の感想ではさんざんバカにしましたが、
データ収集という意味ではけっこう役に立つ本です。
あ。あと「8」の字を横にというと、↓↓
とうぜんレンズの焦点距離の「∞」記号にもなります。
で、お次、「お茶漬けの味」(1952)
パチンコ、競輪、野球、という「○」
そして羽田→南米モンテビデオという「○」(地球)
これも「○」のリズムで押し切る作品だったわけですが、
佐分利信の乗ったストラトクルーザー(B29の旅客機ヴァージョン)が、
エンジントラブルで羽田に引き返したあたりから
「○」がほころびてきます。
「○」から「うずまき」へ。
戦前の「お茶漬けの味」(原題「彼氏南京へ行く」)と、
戦後の「お茶漬けの味」
この二つのシナリオの差は、読んでいないんでよく分からんのですが、
ともかく1952年の「お茶漬けの味」撮影時には
――「次はうずまきだ!!」という構想は固まっていたようにおもえます。
↑木暮美千代の浴衣の柄が、
「東京物語」の平山紀子(原節子)の浴衣の柄に引き継がれるのを
ご存知の方も多いでしょう。
かたや、女中さん付きの豪邸に住む有閑マダム。
かたや、アパート住まいの戦争未亡人。
ですが。
で、ラストは「うずまき」の呈示、です。
あくまで「○」の映画であるならば、
鶴田浩二と津島恵子のカップルは
なごやかに肩を並べて歩く、みたいなラストでよかったとおもいますが、
そうはいかない。
もうひとつのカップル、佐分利信と木暮美千代が結ばれたか、とおもうと、
東京、モンテビデオ、という地球の両端に離されるように、
「お茶漬けの味」は、「○」から「うずまき」へ、という作品であったわけです。
で、次回作「東京物語」(1953)へ。
という流れです。
おわかりいただけたでしょうか?
「東京物語」が
「ぐるぐる」(蚊取り線香)と「バタバタ」(うちわ)だらけ、というのは
こういう流れから生み出されたわけです。
「東京物語」というと――
「家族制度の崩壊」がなんだ、とか、
「巨匠小津安二郎監督、最高傑作」、とか、
偉そうなことが語られがちなのですが、
小津安っさんのやりたかったことは単純。
ただの「うずまき」映画、というだけのことです。
「晩春」が「△」映画で、「麦秋」が「○」映画だったように、
たんに
「ぐるぐる」映画が撮りたかったのです。
はい、以上、
いままでの復習でございました。
□□□□□□□□
――で、
ここからが今回の本題。
前回、その1は、
「東京物語」を支えているシステム、運動、は
これだけではなかったりする……
などとおもわせぶりな文章で終わりました。
「ぐるぐる」「バタバタ」以外の、
そのもうひとつの「システム」「運動」を今回はみていきたいとおもいます。
結論から先に書いてしまうと、
◎「神話」「おとぎ話」の構造の採用
です。
神話の構造、とは??
以下、スターウォーズのネタ本としても知られております、
The Hero with a Thousand Faces
より引用しますと……
神話英雄はそれまでかれが生活していた小屋や城から抜けだし、冒険に旅立つ境界へと誘惑されるか拉致される。あるいはみずからすすんで旅をはじめる。そこでかれは道中を固めている影の存在に出会う。英雄はこの存在の力を打ち負かすか宥めるかして、生きながら闇の王国へと赴くか(兄弟の争い・竜との格闘・供犠・魔法)、敵に殺されて死の世界へと降りていく(四肢解体、磔刑)。こうして英雄は境界を越えて未知ではあるがしかし奇妙に馴染み深い力の支配する世界を旅するようになる。超越的な力のあるものは容赦なくかれをおびやかし(テスト)、またあるものは魔法による援助をあたえる(救いの手)。神話的円環の最低部にいたると、英雄はもっともきびしい試練をうけ、その対価を克ちとる。勝利は世界の母なる女神と英雄との性的な結合(聖婚)として、父なる創造者による承認(父親との一体化)として、みずから聖なる存在への移行(神格化)として、……
(ジョゼフ・キャンベル著、人文書院「千の顔をもつ英雄」下巻65~66ページより)
以上、ジョゼフ・キャンベル先生が神話の構造をまとめている部分なのですが、おおまかにまとめるとこんな風になるかと、↓↓
(「千の顔」よんでいただくとわかりますが、キャンベル先生、円環状のダイヤグラムにまとめてくれています。でもブログ上で再現するのはムリなので……かわりに……)
①冒険への召喚
②救いの手
③闇の王国へ(境界の越境・兄弟の争い・竜との格闘・四肢解体・磔刑・誘拐・夜の航海・不思議な旅・鯨の胎内)
④試練(テスト)
⑤救いの手
⑥聖婚、父との一体化、神格化、霊薬(エリクシール)の掠盗
⑦逃走
⑧帰還、復活、救出、境界での争い
こんなパターンがあるそうなんですわ。
じゃ、じっさいに「東京物語」が、いかにこのパターンにのっているか、
みていこうとおもいます。
①冒険への召喚
「冒険」というとなんとも大げさですが――
笠智衆、東山千栄子夫婦の、異世界(東京)への出発です。
ですが、異世界(大げさ)の生活は困難で、
S55
庫造「やァ、お仕事ですか」
とみ「ああ、お帰んなしゃあ」
庫造「えらいもの頼まれましたな」
とみ「いえェ……」
娘(杉村春子)に召使のようにこきつかわれる。(大げさ)
S58
志げ「あ、お母さん。そこのあたしの汚い下駄はいてくといいわ」
などと虐待される。(ええ、大げさに書いてますです)
②救いの手
ですが、救いの手があらわれます。
平山紀子……原節ちゃんです。
救い手・原節ちゃんが休みをとって、英雄(大げさ)たちを
異世界(東京)案内に連れ出します。
注意しなきゃいけないのは
もともと、笠智衆たちは
この義理の娘の存在をあんまり気にかけていなかったらしいことです。
S28に
とみ「そう、わざわざ今日来てくれんでも……暫くおるんじゃもん……」
というセリフがありますから、
ちょっとあいさつにでも来てくれればそれでいい、とおもっていたふしがあります。
平山紀子は意外な救い手だったわけです。
あとおもしろいのは、おとぎ話によくでてくる
「3のパターン」が使われていることです。
①長男・幸一(山村聰)→×
②長女・志げ(杉村春子)→×
③二男の嫁・紀子(原節子)→◎
たとえば三匹の子ぶた、とかのパターンです。
三人兄弟の一番下の弟が冒険に成功する、というのもグリムでよくあるパターン。
それと同様のことが「東京物語」で起ります。
(ついでにいうと、「戸田家の兄妹」では、高峰三枝子たちがあっちこっちの家をたらいまわしにされますが、3番目の綾子(坪内美子)の家をスルーすることで、物語要素をわざと消しています)
③闇の王国へ
④試練
試練です。
杉村春子は
寄合があるので、うちから両親を追い出したのですが、
ちょうどのその寄合の日に、両親は帰ってきてしまった。
S93
周吉(微笑して)「――とうとう宿無しんなってしもうた……」
とみも笑って頷く。
英雄たちが宿無しになってしまいます。
S94
周吉「なァおい、広いもんじゃなあ東京」
とみ「そうですなあ。ウッカリこんなとこではぐれでもしたら、一生涯探しても会わりゃしやせんよ」
老夫婦がいる上野は――
「長屋紳士録」においては「孤児」の象徴でもありました。
⑤救い手
⑥聖婚
で、
東山千栄子&原節子が「聖婚」とは……
ソッチ方面の深い意味はないです。
ま。「ほんとうの家族の獲得」
「ほんとうの娘の獲得」
みたいな意味でとらえてくださいまし。
S103
とみ「思いがけのう昌二の蒲団に寝かしてもろうて……」
と東山千栄子の泣かせるセリフがあります。
つまりここには死者=平山昌二がいるのです。
母+息子夫婦=「3」
という……戦前の名作「一人息子」の再現があります。
⑥聖婚、父との一体化、神格化、霊薬(エリクシール)の掠盗
と書きましたが……
S103
とみ「でもなあ、今はそうでも、だんだん年でもとってくると、やっぱり一人じゃ淋しいけーのう」
紀子「いいんです、あたし年取らないことにきめてますから」
とみ「(感動して涙ぐみ)――ええ人じゃのう……あんたァ……」
冒険者・東山千栄子が異世界において受けた恩恵というのは
「年を取らない」という女神さま(原節子)と……
「晩春」ごっこをする、というものでした。
誰がみたって「晩春」のあのシーンを思い出します。
↑↓画像2枚、「晩春」より。
で、
あの京都の宿の……限りなく妖しいシーンが
「聖婚、父との一体化、神格化」
であったことも、思い出したいところ。
で、「東京物語」にもどりますと、
平山とみ(東山千栄子)
平山昌二(遺影)
平山紀子(原節子)
が、きれいな△になっている、という……
⑦逃走
逃走とはまた大げさですが――
英雄たちが悪者(杉村春子)が住む異世界を離れます。
このショットで↓↓
ほんものの家族が……ほんものの「3」が何なのか、はっきりわかります。
原節子、笠智衆、東山千栄子、です。
⑧帰還、復活、救出、境界での争い
あるいは、もうひとつの ④試練 ということになるかな??
いうまでもなく、東山千栄子が死んでしまうことです。
で、ここでも救い手として原節ちゃんが登場します。
こうやって↓↓
瀟洒な和室で、原節ちゃんと笠智衆の二人をみると
どうしたって「晩春」の世界に連れ戻されます。
ま、先回りしていっちゃいますと、
笠智衆もまた、「晩春」ごっこをすることで
ほんものの家族、ほんものの娘を獲得するわけです。
「聖婚、父との一体化、神格化」――です。
笠智衆はうちわを手にしていますが、
「バタバタ」振り子運動はしません。
くるくると回転運動するのにご注目(○です)
静止画だと再現できませんが……
あと背後の石仏が……
「父ありき」の
2+1=3
の引用、です。
とうぜん「晩春」ラストのリンゴのイメージ……
セリフもまた「晩春」してます。
くりかえしますが、これは「晩春」ごっこなのです。
原節子と笠智衆の二人が、
4年後に、あの最高傑作を自己パロディしているわけです。
わざわざいうまでもないですけど……
二人の役名はやっぱり
「周吉」と「紀子」です。
「東京物語」S164
周吉「やっぱりこのままじゃいけんよ。なんにも気兼ねはないけ、ええとこがあったら、いつでもお嫁にいっておくれ。もう昌二のこたあ忘れて貰うてええんじゃ。いつまでもあんたにそのままでおられると、却ってこっちが心苦しうなる――困るんじゃ」
紀子「いいえ、そんなことありません」
「晩春」S71
周吉「もう行ってもらわないと、お父さんにしたって困るんだよ」
紀子「だけど、あたしが行っちゃったら、お父さんどうなさるの?」
「結婚」をめぐって紀子&周吉が対立するという構図もおなじ。
で、原節ちゃんのボタンが「3」である、という……
「晩春」の聖なる数字「3」の呈示、です。
S164
周吉「これァお母さんの時計じゃけえどなあ――今じゃこんなもの流行るまいが、お母さんが恰度あんたぐらいの時から持っとったんじゃ。形見に貰うてやっておくれ」
これまた「晩春」同様、
父―母―娘の「△」の呈示です。
「東京物語」S164
周吉「いやァ……お父さん、ほんとにあんたが気兼ねのう先々幸せになってくれることを祈っとるよ――ほんとじゃよ」
紀子、胸迫って顔を蔽う。
血のつながらない紀子に対して
「お父さん」といってるところがポイントだとおもいます。
大げさじゃなく、じつにさりげなく……
二人は本当の親子になったわけです。
で、以下2枚、「晩春」
「晩春」S94
周吉「イヤ――なるんだよ、幸せに……いいね?」
紀子「ええ、きっとなって見せますわ」
周吉「うん――なるよ、きっとなれるよ、お前ならきっとなれる、お父さん安心しているよ、なるんだよ幸せに」
□□□□□□□□
はい。
「東京物語」→「物語」というだけあって、
このように物語要素をとりいれているわけです。
ん……でも
――それって後退じゃない??
せっかく「戸田家の兄妹」以降、
映画を純粋な運動のみで描くという決心をしたのにもかかわらず……
捨てたはずの「物語」を採用してしまった。
んーー……
たぶんですねー
小津安二郎&野田高梧、
「ぐるぐる」と「バタバタ」だけだと映画が作れない、とおもったのかも。
全部が全部「期待はずれ」(うずまき運動)だと、
つまらねー、とおもったのかも。
それで苦しまぎれの「神話」「おとぎ話」の採用。
けっきょく、これは妥協、だとおもいます。
おのれの方法論に対する妥協。
あるいは
『「麦秋」でやりたいことは全部やったからいいや』とおもったか??
その3につづく。