「東京物語」を解剖しております。
その6です。
その5でみたエピソードのあと、
笠智衆、東山千栄子の老夫婦は、長男幸一の家から、長女志げの家に移動したようですが、
移動そのものは描かれません。
志げ(杉村春子)の家は美容院です。
S53
うらら美容院は「うずまき」だらけで、みていて発見があっておもしろい。
ビジュアル的にもそうですし、セリフもうずまき(予定外)だらけ。
扇風機が見事に「うずまき」
こういうのを一生懸命みつけたんでしょうねぇ。
あるいは当たり前にあったのか??
S54
志げ「そう、じゃ、そうしてやってよ。東京へ来て、まだ何処へも行ってないんだもん」
庫造「そうだよ、一日二階に居ちゃ気の毒だよ」
――という杉村春子と中村伸郎のがっかりな会話。
予想外(うずまき)
S55
唐草模様が「うずまき」
会話も……
庫造「やァ、お仕事ですか」
とみ「ああ、お帰んなしゃあ」
庫造「えらいもの頼まれましたな」
べつに――東山千栄子の「とみ」は、
何もすることがないから仕事をしているだけのことで、(おそらく)
別に杉村春子に「労働を強いられている」とかいうわけではない。
……ではないんですけど、
この場に平山紀子(原節子)なり「一人息子」の坪内美子なりがいたら
「お母さま、あたくしが致しましょう」
ということに当然なるはず。
がっかりエピソードなわけです。
S58
周吉、とみ、庫造は銭湯へ行きます。
東山千栄子の背中にむかって、杉村春子が――
志げ「あ、お母さん。そこのあたしの汚い下駄はいてくといいわ」
容赦ない名ゼリフ……
志げのセリフは 冒頭S21の
「ちょいと変なもの持ってきちゃったのよ。うちの近所のお煎餅なの。わりとおいしいのよ」
の「変なもの」といい……
あ、こういうオバさんいるな。とおもわせる。
小津&野田コンビの真骨頂ですな~
両親が出ていくと、志げは平山紀子に電話するのでありました。
「あのね。お願いがあるんだけど。明日どおあんた、ひまないかしら?」
ここは何気に、
小津安っさんという人の意地の悪さというか……
残酷さというか……
なんといいますか、おそろしさが垣間見れる気がする。
この場面、われわれは電話の相手を想像しながら画面をみつめる。
電話の相手はもちろん――
絶世の美女、原節子。
とうぜんわれわれは画面が切り替わって
原節子の登場を期待する。
米山商事とかいう会社で働く美人OLの姿を想像する。
……んだが、
なかなか切り替わらないんだよね、このシーン。
延々杉村春子がしゃべってる。
で、杉村春子がうちわを回転させるのだが、↑↓
うちわの美女がくるくると出現したり、消えたりする。
あきらかに小津安二郎、
観客を挑発している――としかおもえません。
「お前らがみたいのはコレだろ?」
「コレがみたいんだろ?」
でもみせない。杉村春子が長回しのショットでえんえん喋る。
「麦秋」のアンパンシーンみたいに。
S59
で、杉村春子の長いおしゃべりが終って、
ようやく電話のむこうの原節子、登場。
しっかし……
「米山商事」(紀子の勤め先)
「平山昌二」(紀子の戦死した夫)
この「音」の類似もなんか性格が悪い感じがする……
ぜったいに遊んでるよ、小津&野田。
「麦秋」の間宮紀子の勤め先……丸の内のオフィスビルとは、
まるで別世界のゴミゴミした中小企業。という感じ。
紀子「まことに勝手ですけど……」
上役(仕事をつづけながら)「なんだい」
紀子「明日一日おひま頂けないでしょうか」
上役「いいよ」
紀子「すみません」
それに、間宮紀子は上役(佐野周二)相手にこんなにオドオドしてませんでした。もっと颯爽としてましたね。
けっこういろんなものをつっこみます、小津安二郎。
左、ブリヂストンのタイヤのポスター(○の回転なので→うずまき)
まんなか、マネキン(「一人息子」の人体模型にどこか似てる)
右、繊維の見本??(うずまき)
右のねじりん棒みたいなものの正体、どなたか教えてください。
繊維の見本じゃないのかな?
で、
S60
遊覧バスです。
原節ちゃんがわざわざ休みを取って
笠智衆&東山千栄子の老夫婦を東京案内に連れ出します。
S61
「――千代田城と呼ばれておりました皇居は、今から約五百年ほど前に、太田道灌が築城致しましたもので、美しい松の緑をお濠に映した風雅と静寂な姿は、大東京の雑踏の中にありながら、洵に床しい限りでございます」」
というのですが……
ここはあるいは、「東京物語」最大のポイントかもしれない(?)
最大のうずまき、の登場。
ずばり、
・「東京」=うずまき
です。
ちょうど、「お茶漬けの味」の羽田→モンテビデオが
地球という「○」の提示だったように……
キーワードは「皇居」です。
んーというか、建築とか都市論とかをかじった人間なら誰もが思い出すでしょう。ロラン・バルトの「皇居=空虚の中心」という公式を……
以下、引用、長いです……
わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。毎日毎日、鉄砲玉のように急速で精力的ですばやい運転で、タクシーはこの円環を迂回している。この円の低い頂点、不可視性の可視的な形、これは神聖なる《無》をかくしている。現代の最も強大な二大都市の一つであるこの首都は、城壁と濠水と屋根と樹木との不透明な環のまわりに造られているのだが、しかしその中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市のいっさいの動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。
(ちくま学芸文庫、ロラン・バルト「表徴の帝国」54ページより)
1963年に亡くなった小津安っさんが、1970年刊行のこの本を読んだ機会はとうぜんないわけですが――
みごとにロラン・バルトしちゃってるあたりすさまじい。
んーというか、ロラン・バルトの考えていたことは
あらまし1953年のこの映画の要約でしかない、という気がする。
一番おそろしいのは……
その「皇居=空虚の中心」を、いつもの固定キャメラで撮っていないこと。
バスからの視線として提示していることでしょう。
いつもはやらない「移動」で撮影している……
これはあきらかに
・東京=空虚の中心を回る、うずまき
この構図に小津安二郎が気付いていた、ということです。
逆にいうと、この映画は
「京都物語」「大阪物語」「名古屋物語」あるいは…
「香港物語」「パリ物語」「モスクワ物語」「ニューヨーク物語」
というように、
他の都市ではゼッタイに置き換えられない、ということです。
「空虚の中心」のまわりをぐるぐる回るトーキョーでなくては
この「うずまき映画」は成立しなかった、というわけです。
このバスはホンモノだそうです。電車もバスもホンモノを使う小津映画。
いつもの(?)厚田雄春キャメラマンの証言です……
――『東京物語』の観光バスは本物ですか。あの運動感も実にみごとなものですが。
厚田:ええ、あれは、あらかじめスタッフではとバスに乗って、場所をロケ・ハンしといたんです。二度、乗ったと思いますよ。さすがに、二度目はいいかげんうんざりして、浅草あたりで降りちまいましたが(笑)。そうしといてから、あのバスを借りてロケしたんです。だから、銀座通りのどのへんをねらうかってのを、あらかじめきめとくわけですね。
(筑摩書房「小津安二郎物語」190ページより)
バスが揺れるたびにお客さんがぐらぐら揺れる。
この頃のクルマのサスペンションって相当弱かったのでしょう??
S65
「デパートの屋上」
紀子「お兄さまのお宅はこっちの方です」
周吉「そうか」
とみ「志げのとこは?」
紀子「お姉さまのお家は、さァ、この辺でしょうか」
とみ「あんたんとこは?」
紀子「あたくしのとこは(と反対の方を振返って)こちらですわ、この見当になりますかしら」
原節ちゃんの住んでるアパートが、
山村聰、杉村春子の家の反対側というのは、即物的でおもしろい。
小津安っさんというのは、「抽象」はもてあそばない。
かならず「具体」に持っていく。
このあたり、なかなかできそうで出来ないことです。
で、空間的に180度移動して、
で、セリフも考え抜かれています。さりげないですが。
紀子「とっても汚いとこですけど、およろしかったらお帰りに寄って頂いて……」
と「キタナイ」が登場する。
とうぜん観客は、S58の――
志げ「あ、お母さん。そこのあたしの汚い下駄はいてくといいわ」
を、覚えているわけです。
はい。
で、とうぜん、原節子=コカ・コーラ瓶、と。
笠智衆の帽子もいいな!!
で、三人は原節ちゃんのアパートへ。
S68
細君「ああ、早いのね、今日――」
紀子「ミコちゃんおねんね?」
ここらへん、「麦秋」の引用。
S113 アンパン発言の少し前に……
紀子「みッちゃんおねんね?」
たみ「ええ」
というやりとりがあります。
アパートの廊下の三輪車も
聖なる数字「3」の提示であると同時に、「麦秋」の引用。
「麦秋」の矢部家をとらえたショット↓↓
みっちゃんもミコちゃんも三輪車に関係があるようです。
今回はこれでおしまいにしときます。
その7につづく。