内宮に着きました。
8:06 外宮発。三重交通バス
8:30ごろ 内宮着。
運賃430円。
バス停を降りるとすぐ――
うわ! 「ブラタモリ」でやってた
「終点」だ! ↓↓
(なんでも昔は国道1号の終点だったそうですぞ)
というか、タモさん歩いてたのこのあたりか!↓↓
うわ。かっこええ交番だ!↓↓
うわ! あの名高き宇治橋かっ!! ↓↓
……―― 等々、
到着直後はもりあがっていたのですが、
たいへん申し訳ありません……
僕には
内宮はそれほどおもしろくありませんでした。
たぶん
理由としては……
理由①情報を仕入れすぎた。
旅行に先立ちまして、
みらい出版、「いま行く! 伊勢神宮 お参りパーフェクトブック最新版」
朝日新聞社、赤瀬川原平、山下裕二共著「日本美術観光団」
講談社学術文庫、筑紫申真著「アマテラスの誕生」
この3冊読みまして、
加えて、「ブラタモリ」の伊勢神宮の回を見直しまして――
頭でっかちで行ったのは失敗でした。
この説明をみても↓↓
「2000年はおかしい」とかおもったりする。
イヤなヤツ。
皇大神宮のできた年は、意外にあたらしいのです。そして、日付までわかっているのです。文武天皇の二年(六九八)十二月二十九日に成立しました。それは、七世紀もぎりぎり終りのことです。せいぜい、いまから一二七〇年ばかり前にできあたったのです。
(講談社学術文庫、筑紫申真著「アマテラスの誕生」18ページより)
あと、倭姫命ファンなので、
倭姫命さんのことも説明に入れて欲しいとおもいます。
すばらしい景色――↓↓
なんですが、「ブラタモリ」を2回も見ちゃったのはまずかった。
なんかテレビでみたそのまんまのような気がして……
感動が薄れる……
荒俣宏先生がどこかで書いていたが、
「観光とはすでに知っていることを見に行くことである」
(正確な引用ではないとおもいますが)
うーん……
知識をいれすぎた……
失敗でした。
あと、
いまいちだった理由として……
理由②そのあとの瀧原宮がすばらしすぎた。
というのがあります。
10月中旬ごろのことを記憶に従って書いているのですが、
瀧原宮の印象があまりに鮮烈すぎて――
内宮はなんかぼんやりしています。
んーというか、単に天邪鬼なだけのような気もする……
ナンバー1(皇大神宮、つまり内宮)よりも
ナンバー3(瀧原宮、つまり別宮の筆頭)が好き、という。
ま、ナンバー1、ナンバー3ともに
お祀りしているのは天照大御神なので、
アマテラスさんには失礼がないはずです。(??)
宇治橋を通り過ぎますと、
「神苑」です。 ↓↓
ここもなんか「ブラタモリ」の印象が濃い……
奉納されているお酒の量……
さすが、神社の中の神社は違います。
「るみ子の酒」というのが目立ってる気がする。
ああ、そうか宣伝にもなるのか。
神苑の奥、小さな橋を渡ったところに
「第一鳥居」↓↓
「第一鳥居」の近くに「手水舎」があるのですが、
それを完全に無視して
「五十鈴川御手洗場」にむかうのは――
これまた「ブラタモリ」のマネ。です。
来ました。五十鈴川です。
禊ぎの川です。
「アマテラスの誕生」の筑紫先生は
皇大神宮のもとの姿は 川のカミであった、と書かれています。
ま。
そんな理屈はどうでもいいか。
この澄んだ水……
↑↑お魚が泳いでいるのがわかりますかね??
紅葉の季節来たら最高だろうな……
行く余裕がないけど……
などとたいへん悔しくなりましたので……
デジタル処理で紅葉させてしまうという……
おそるべし、デジタル技術。
とにかく心地よかったです。
もっと朝早くくれば さらによかったかも。
夏の朝とか、きっとたまらんとおもいます。
またやってる。
デジタル紅葉。
もっと近けりゃ撮りに行くんですけど……
なんせ地の果てイバラキからだと……
おおむね曇りの天気でしたが、
たまに雲の隙間から
サァーッと日が射すのが美しかったです。
太陽の女神アマテラスに関しては、
ジョゼフ・キャンベル先生の「千の顔をもつ英雄」が
けっこうかっこいいことを書いてます。
太陽の女神、というのは世界的に珍しいものだ、というのです。
(天の岩屋戸の神話に関して)
男性の神ではなく女神としての太陽というモティーフは稀有で貴重な遺物であり、それはかつてあきらかに広範囲にわたって伝播していたアルカイックな神話的文脈に内在していたものであった。アラビア南部の太母神は女性名詞の太陽、イラトである。ドイツ語の太陽(ディー・ゾンネ)は女性名詞である。
(中略)
だがかつての雄大な神話が、文明世界においていまなお効力を発揮しているのは日本だけである。というのはミカドはアマテラスの直系子孫とされ、また皇室の祖先とされているアマテラスは、神道の国家主義的伝統のうえで至高神の一柱としてあがめられているからである。女神にして太陽神であるアマテラスの冒険においては、現在ひろく流布されている男性神としての太陽神神話と異質な世界感情に触れる思いがする。そこにあるのは光という立派な自然の贈り物にたいするある種のやさしさであり、目にみえるようになったさまざまな事物にたいする感謝の念である。こうした感情こそ、かつて多くの民俗の宗教感情を特徴づけていたものにちがいない。
(人文書院、ジョゼフ・キャンベル著「千の顔をもつ英雄」下巻27~28ページより)
光という立派な自然の贈り物にたいするある種のやさしさ……
御手洗場から……
「第二鳥居」へ。
その2につづきます。