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瀧原宮(プレ=皇大神宮) その1

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瀧原宮に関しては
筑紫申真先生の「アマテラスの誕生」に詳しいです。

筑紫先生は「プレ=皇大神宮」という言いかたをしているので
それをマネさせていただきます。

ようするに伊勢神宮・内宮のルーツは瀧原宮であった。
ということです。




「アマテラスの誕生」では、まず

「文武天皇二年十二月乙卯、多気大神宮を度会郡に遷す」
という「続日本紀」の文章が紹介されます。
今の、皇大神宮は文武二年十二月二十九日にできた。
という記述です。

ではこの「多気大神宮」とは何なのか??――

 大神宮という呼び名は、古くはいまの皇大神宮のほかには使ったためしのない呼び名なのです。ですから、いまの皇大神宮は文武二年のこのときに、よそから現在の場所に移されてきたものにまちがいありません。それでは、その多気大神宮は、いったいどこにあったのでしょうか。
 それは、南伊勢地方の宮川上流にありました。外宮のある伊勢市の山田から宮川の流れ沿いにさかのぼっていったところ、直線距離にして八里ばかりも山奥のところです。いまの三重県度会郡大宮町の滝原、皇大神宮の別宮の滝原宮がある場所です。

(講談社学術文庫、筑紫申真「アマテラスの誕生」19~20ページより)

・多気大神宮=瀧原宮
ということらしいのです。




まあ。入口の「御由緒」は、そういうことは書いておらず、
「倭姫命世記」の記述に従っているようです。

前回紹介したマンガのあれです。



参道はこんな、です。↓↓

森、というか、木のトンネルというか……

長さは600メートルあるとのこと。
延々歩きます。

10月の平日の午後、だれぇぇーーもいません。




参道から鳥居を振りかえります。↓↓

光線の具合がちょうどいい感じです。





「マムシに御注意ください」↓↓

わたくし、イバラキの田舎者ですので
「ま、藪の中にゃいるっぺ」
という感じですが、
都会の人はビビるかも??

そういや、「アマテラスの誕生」では冒頭
・アマテラス=蛇
ということを語っていましたっけ。

 これはだれでも聞かされたらびっくりするはなしです。光華明彩(ひかりうるわしく)、六合(くに)の内に照り徹らせり、あがめられる皇室の祖先神が、男の蛇であって、子孫である女のもとへ、「ヨナヨナ御カヨヒアル」とはまったくおだやかではありません。斎宮のふとんをあげてみると、毎朝、蛇のうろこが落ちているとは――。
(同書、11ページより)




巨樹と巨樹の間を縫っていく……
というか、
「ちょっとすみません」
と、通らせてもらう……
というか。

わたくしの地元イバラキの鹿島神宮も、筑波山神社も
それそれは大きな樹があるわけですけど、

ここは600メートルの参道にくまなく植わっている感じです。
しかも……
外宮や内宮に比べて参道の幅は狭いので、
なおさら巨樹と巨樹の間を縫っていく感じが強いです。




また、「アマテラスの誕生」に戻りますと――

 大神宮とか神宮という呼び方で、滝原にあったこの皇大神宮の前身がよばれているのはたしかなのですから、この大神宮の施設は天皇家によって特に設備されたものと思われます。実際、宮川の奥地にある広大な、いまの滝原宮の森林をながめると、
「これはたしかに、天皇家によって計画的に設営されたものにちがいない」という感じを深くします。そこでは、いまでもそうであるように、たぶん当時も、カミのすまいである建造物は、ほとんどあるかなきかのささやかなものであったろうとわたくしは推察しますが、あの山奥に広大なカミの森をいとなむ実力は、とても地方豪族だけのものではなかったと思います。

(同書121ページより)

この森は大和朝廷によって作られたものであろう、というのです。



長い参道を歩くと、
橋がみえてきました。

なんたって瀧原宮。プレ=皇大神宮ですから。
内宮に激似な構造しているんですが、

「橋」の使い方はまったく違う。

・内宮→はじめに橋を持ってくる。橋を渡る行為が禊ぎになっている。
・瀧原宮→はじめに長い樹のトンネルをくぐらせる。参道を通る行為が禊ぎになっている。

内宮のほうが、いってみれば「橋」という人工物に頼っているわけで、
瀧原宮のほうが、自然で攻めているので、原始的です。

このあたりも「プレ=皇大神宮」なのだな、とおもわせます。




橋を渡ってすぐ、御手洗場の表示があります。

↓↓奥にチラッとみえている建物が「宿衛屋」です。

公式のHPの文章では
「お札、お守、御朱印等はこちらでお受けください」

僕の勝手な印象ですが……
どうもたった一人の神職さんでまわしているような気がします。
(神職さんという呼び名でいいのか? そこらもよくわからんのですが)



御手洗場へ降りていく階段。

参道もそうだったが、この階段。

カーブの仕方、段差の高さがなんとも絶妙なんですよね……

いつできたものか、わかりませんが、
凄腕のデザイナーの作品でしょうねえ。

おわかりいただけるかどうか……

↓↓別にまっすぐ 直線の階段を作ってもよかったんですけど、
そうすると
すぐに御手洗場(これが最高の空間なのだ!)が見えてしまうわけです。

けれど絶妙に……不愉快にならない程度にカーブさせることで
最高の空間を隠ぺいしている。

最後の最後まで見せないようにしている。

「焦らし」が上手いんです。↓↓



時刻は14時45分ごろ。

ちょうどいい光線の時間帯に来たな、とおもいます。





「焦らしの階段」の曲線具合です。↓↓



「御手洗場」……

こんなです……

もう、最高……

……横幅800pxの画像ではなくて、
元の7000pxの画像を載せたいんですが……

このブログではムリ。


水のアップ。↓↓

みずから光を発しているように輝いていました……
そんなことはありえないんですけど……
そんな風にみえました。

内宮の五十鈴川同様、お魚がいます。

夏は蛍がいるそうな。
ぜったいいるよね。



頓登川(とんどがわ) という変わった名前の川です。

なんかいわれがあるのかしら?

さっきみた大内山川の支流である由。



上流側を見てみます。↓↓



ついでだから皇大神宮の御手洗場と比べてみますか。↓↓

このスケール感の違い。

皇大神宮=オフィシャル
な感じがやっぱりしちゃいます。




これだけの美しい森を――
清流を――

維持するのにどれだけの手間が(むろんお金も)かかるのか?
ものすごい努力だと思います。

「瀧原宮」をインターネットで調べると、
まっさきに出てくる類のコトバが……

「パワースポット」「エネルギースポット」「波動がなんちゃら」
「場のエネルギー」「ゼロ磁場」??

等々の行列なんですが……

わたくしのような人間に言わせると、
そういう「スピリチュアル」っぽいモノの見方は
瀧原宮を作りあげ、そして維持していっている人たちへの冒瀆のような気がしてなりません。
(んーー、なんか大きく出たなー)




参道の玉砂利を毎日きれいに掃き清めている人がいるわけだし、

この↓↓
「焦らしの階段」の微妙なカーブを設計した昔の天才デザイナーもいたわけだし、

階段の石の一個一個 川岸の石垣の石の一個一個……
選んで、そして運んだ人がいたわけだし、

そして今、それを維持し続ける人たちがいるわけで……




「ゼロ磁場」だの「エネルギーがなんちゃら」言ってる人たちは

神社を維持し、守っていく人たちの
汗と労働を無視してウットリしているだけの
お子様のような気がしてなりません――

――とか憂国の士のようなこと書いてますが……




御手洗場では、ただ……

あまりの美しさにボォーッとしていただけでありました。

「美しい」という形容詞は安易に使いたくないが……
ま、
そうとしかいいようがない。




「日本美術観光団」の赤瀬川原平&山下裕二が
「内宮はコンセプチュアル・アートだ」ということを言っていて……

もちろん内宮のお姉さんである瀧原宮にもあてはまることですので
紹介します。

赤瀬川 「あなたが知りなさい」ということなんですよね。
山下 「イメージしなさい」ということ。だから考えようによったら、すごく豊かな、コンセプチュアル・アートですよね。
赤瀬川 本当、そう思った。だから、それが護られてずっとあるというのは、不思議なものですよねえ。その複雑さというか……。タリバンが偶像を徹底的に破壊したりしたわけですよね。あの人たちが見たらどう思うんだろうなあと思って。これはモノじゃなくて、ある種の無形のサイクル崇拝というか、相当高度なものの考え方なんだよね。
山下 時空間崇拝。
赤瀬川 うん。宇宙論崇拝みたいなところがあるんですよ。
山下 モノとしてじゃなくてね。
赤瀬川 困りますねえ(笑)。

(朝日新聞社、赤瀬川原平、山下裕二共著「日本美術観光団」176ページより)





さいごの……故・赤瀬川先生の
「困りますねえ」は、
ほんとに深い。

ピラミッドも、万里の長城も、パルテノン神殿も――
ル・コルビュジエの作品も、フランク・ロイド・ライトの作品も――
ぜんぶ「モノ」だ。

でもここにあるのは「時空間崇拝」でしかない。
20年ごとにぶっ壊して、また組み立てる、そのサイクル……
「システム」しか、ないわけです。

これは「困った」としかいいようがない。




もうひとつ、「日本美術観光団」では
神社に関するおもしろい見方をしていて……

赤瀬川 神社のあり方について、僕が「なるほど」と思ったのは、藤森照信さんの公開講座を聞いたときなんです。彼はね、大昔に、緑は人間の敵だったっていうの。いまは「緑を大切に」と言いますよね。でも、古代では、自然をほっとくと雑草がうわーっと押し寄せてくる。それで、人間は邪悪な緑が攻めてこないよう地面に石を敷き詰め、真ん中に柱を立てて神聖な場所とした。そこから神域が生まれた、というのが彼の解釈なんです。そこで真ん中にまず依代(よりしろ)をつくったのが神社の原形なんだと。
山下 社殿は依代を守るためにできたものだったわけですね。

(同書、125ページより)




「緑は人間の敵」――

この御手洗場の美しさ、というのは、
たぶん、
一種の危うさの上に立った美しさ、なんでしょう。

一歩人間の側が努力を怠れば……
あっという間に、鬱蒼たる藪に覆われてしまう……
人間が近寄ることのできない「自然」に支配されてしまう……

その微妙なせめぎ合いがここにあるわけです。



なーーんか、わたくし、いろいろ屁理屈をこねくり回してますが……

けっきょくのところ、
「とんでもなく美しい音楽を聞いた」
その感覚が一番近いのかもしれません。

瀧原宮の御手洗場。



訪問から、かれこれ一か月くらい経ってますが、

まだ、目をつぶれば、この渓流の光景が目に浮かぶようです。

人は死ぬと、こんなところに行くのかもしれませんなぁ……


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