今回こそ、
◎福沢祐巳ちゃんの曲がったタイ=〈マクガフィン〉=〈対象a〉
なる公式を証明(?)していきたいと思います。
――というか、こんな意味不明な論考、いったい誰が読むのかね? という感じですが。
……ま、そうね。
夏休みに読書感想文を書かなきゃいけない、そこの君。
トマスお兄さんのブログ記事を丸写しにして先生に怒られましょう!!
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ようは、ですね。前回の記事をまとめますと、
「マリア様がみてる」の基本パターンというのは
山百合会の「構造」の危機を、儀礼(儀式)によって救う。
これにつきるわけです、はい。
(いつだったか、山田風太郎風の「ゲーム」とかいったのは忘れてください。
「ゲーム」ではなくて、「儀礼・儀式」が正解でした)
あたかも クロード・レヴィ・ストロースの分析する未開部族のように
リリアン女学園の可憐な生徒たちは ロザリオ授受の儀式によって自分たちの危機を救うわけです。
2巻目以降、
「黄薔薇革命」も 「いばらの森」も 「ロサ・カニーナ」も 全部基本パターンは一緒です。
――しかし、そのことと祐巳の曲がったタイはどう関係があるのか?
③黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)の美しいタイ
そこで注目したいのが どっちかというと地味めなキャラ。
黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)・鳥居江利子さま なわけです。
黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)というとなによりも……美しいタイ……
一テンポ遅れて、呼ばれたその人は図書館の前でゆっくりと振り返った。セミロングの髪を、ヘアバンドでサラサラとまとめたいつものヘアスタイル。セーラーカラーの襟の延長線上にあるタイの結び方は、全校一美しい形と定評がある、彼女こそ黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)その人である。
(集英社コバルト文庫「マリア様がみてる 黄薔薇革命」53ページより)
この「全校一美しい形」のタイ、に引っかかっている読者はあんがい多いんじゃないかという気がする。
だって、 リリアン女学園一の美女といや、小笠原祥子さま。
あと美人というと、藤堂志摩子さん。
黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)も美人なのだろうが、このツートップにはかなわない、でしょう?
なぜ、祥子さまのタイは美しい……あるいは志摩子さまのタイは美しい、とならないのか?
なぜ、「全校一美しい形」のタイの持ち主は
「黄薔薇まっしぐら」でだけ目立つ、あの鳥居江利子さま、なのか?
この謎は、ですね。
前回出しました、この表に隠れておるんですわ。
↓↓これは「マリア様がみてる」1巻目 冒頭の山百合会のメンバー表です。
はい。
黄薔薇ファミリーだけ3人そろっている。
このことは……1巻目の冒頭近く、桂さんのセリフで、
「時に、黄薔薇(ロサ・フェティダ)は?」
「黄薔薇は三年二年一年、すべて安泰じゃない」
「そうよね」
(集英社コバルト文庫「マリア様がみてる」17ページより)
たえず危機にさらされている山百合会の中で、
黄薔薇だけは「安泰」――そう強調されています。
つまり、ですね、
・全校一美しいタイ=安定「構造」のシンボル
なんじゃなかろうか、と思えてならんのですよ。はい。
となると、ですね。
黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)と主人公の福沢祐巳ちゃん。この二人がなにもかも正反対であるところにも注目したくなるわけです。
二人の特徴を書き出してみましょうか。
〇黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)
・全校一美しいタイ
・ヘアバンドでまとめたサラサラの髪
・たえずつまらなそうな表情をしている。
・年の離れた兄が3人いる。
・妊娠疑惑。援助交際疑惑が生じる。
(両方とも事実無根であった。
妊娠→親知らずを抜くので入院
援助交際→妹離れできない兄たちとデートをしていた)
〇福沢祐巳
・曲がったタイ
・リボンでまとめた癖っ毛
・たえず変化する百面相
・年子の弟が1人いる。
・男の人と女の人のことって、できれば避けて通りたい。
とくに「髪の毛」は注目したいところ……
祐巳ちゃんは、ですね、
(トマス注:以下、祐巳の心理描写。志摩子さんと自分の比較)
これなら、祥子さまと白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)が取り合いもするよなぁ。だって、一緒に並んで歩きたくなるようなタイプだもん。色白で、やわらかそうな茶色の巻き毛で。
それに引き替え、同じ天パーでも祐巳のはただの癖っ毛。跳ね放題の剛毛を二つに分けて、どうにかこうにかリボンで押さえているのだ。――片や綿菓子、片やサバンナの野生動物。
(同書35ページより)
なんかすごい描写ですけど、
これって、山口昌男先生の「謡曲『蝉丸』と天皇制」なる分析を思い出しちゃったりするのだよなぁ――
「蝉丸」っていう お能の演目に 「逆髪(さかがみ)」という狂気の皇女が登場するらしいのですが……
延喜帝の第三子(つまり蝉丸の姉)逆髪は、狂気の果てに辺土遠郷を放浪している。彼女の髪は逆さに突っ立って、撫でても下がることはない。
(岩波現代文庫、山口昌男著「天皇制の文化人類学」55ページより)
「逆髪」=中世版の福沢祐巳…… いや、現代版「逆髪」=福沢祐巳
この逆髪、山口先生によれば
「価値の転倒」「さかしまの哲学」といったものを担った人物らしい……
こうした「順逆一如論」は、逆髪個人に投影されて「我は皇子なれども庶人に下り、髪は身上より生ひ上つて星霜を載く」という表現により、肉体という小宇宙におけるさかしまの論理と、王権の中のさかしまの論理が宇宙論的なさかしまの論理と重ね合わせられる。
(同書67ページより)
福沢祐巳→逆髪=さかしまの論理。
そうです。
・黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)=全校一美しいタイ=安定「構造」のシンボル
・福沢祐巳=曲がったタイ=反「構造」(さかしま)のシンボル
こうみてもよいのではないでしょうか?
④過剰な祥子さま
んで、
結論から先にいいますと――
祥子さまが 反「構造」の祐巳ちゃんに惹かれたのは
祥子さまご自身もやっぱし 反「構造」の人であったから。
と、まあそういうことになります。
とにかく、小笠原祥子さま、というとなにもかもが「過剰」……
安定「構造」からはみ出すはみ出す……
(トマス注:蔦子さんのセリフ)
「あの方はね。本来、気高く寛容なお方なの。ただし、ご自分の美意識に反する行為に関してだけは、断じて許されない。生まれながらのお姫さまだからね。あの方の中には、あの方独自の法があるのよ」
(集英社コバルト文庫「マリア様がみてる」29ページより)
しかし、今から訪ねる小笠原祥子さまは、そんじょそこらのお嬢さまとは格が違った。百貨店やレジャー施設など幅広く経営する小笠原グループの会長の孫娘で、母の実家は元華族という、家柄も正しいお姫さまなのだ。
(同書32ページより)
まあ、ここまではよくあるキャラクターかもしれない。
が、祥子さまが独特なのは、婚約者・柏木さんの存在だろう。
以下、祥子さまのセリフ。
「婚約者っていっても、お決まりの『親同士が決めた』よ。まったく、これ以上血を濃くしてどうするつもりかしら」
――(中略)――
「あの人……、優さん、悪い人じゃないのよ。ただ、自分本位で、そのこと本人はまるで自覚がないの。他人の気持ち全然理解できないし、それ以前に考えようとしない。だから誰かを傷つけてもどうして傷ついたかわからないし、自分のせいだなんて思いもしないの。うちの家系の男って、全部そう」
(同書228~229ページより)
ポイントは「血を濃くして」「うちの家系の男」
彼女は柏木さんのキャラクターと同時に
「近親相姦」を嫌がっている
のです。
しかし、さすがの祥子さまも高校二年生の女の子なわけです。親の命令は絶対……
彼女は「近親相姦」を運命づけられている。
(別に、いとこ同士の結婚は「近親相姦」だ。と主張したいわけではなく、
祥子さま自身はこの婚約を「近親相姦」だと認識している、というはなしです。
それから柏木さんは同性愛者なので、そういう関係にはならんだろう、というもっともな反論もおありかとおもいますが、
ここでみたいのは 「祥子さま」というキャラクターに「近親相姦」というしるし付けがなされている、という点です)
「近親相姦」というと、これ以上の反「構造」はありえません。
こまったときのレヴィ・ストロース先生。
われわれが定義したような親族の基本単位の本源的で還元不可能な性格は、実は世界のどこでも例外なしにまもられている近親相姦の禁止の直接の結果である。近親相姦の禁止とは、人間社会において、男が女を獲得するには、これを別の男から得るよりなく、後者は女を娘なり姉妹なりの形で前者に譲り渡すということである。
(みすず書房、クロード・レヴィ・ストロース著「構造人類学」53ページより)
同じクラスの蔦子さん、志摩子さんが
祐巳&祥子はいいカップルになるかもしれない、という予感を語るのは――
「ウマがあいそうじゃない? あなたと祥子さま」
もう、蔦子さんの思考回路、さっぱりわからない。
「何を根拠に?」
「根拠? 根拠なんてないわ。こういうものは、勘よ。直感」
下級生のタイごときに関わるようなお方でない祥子さまが、今朝に限って声をかけて注意したばかりか、自らの手で結び直したというのは快挙である。蔦子さんはそう力説した。
(集英社コバルト文庫「マリア様がみてる」29~30ページより)
後方の扉を開けながら、志摩子さんは言った。
「もしかしたら、祐巳さんは祥子さまと合うかもしれないわね」
(同書98ページより)
二人に共通する反「構造」の匂いをかぎとっていたからに違いありません。
(さらに、余計なことを書いてしまいますと、
祥子さまはなにかというと 祐巳ちゃんのタイや髪のリボンを直しますが……
上記のように
「曲がったタイ」「リボンでまとめた癖っ毛」
は、反「構造」のシンボル。
タイやリボンを直す行為は、姉妹のスキンシップという意味よりもむしろ、
ナルシスティックな行為なのかもしれません。)
⑤キーワード「傾ぐ」
しかし、「曲がったタイ」だの「癖っ毛」だの 「近親相姦」だのだけで 小説は書けるものではなく、
また、読者もおもしろくもなんとも感じないわけで……
そんなこと天才・今野緒雪先生は 百も承知。
様々な工夫を作中にちりばめてあります。
それが重要な場面に なぜか必ず登場するワード 「傾ぐ」(かしぐ)なわけです。
このことは感想その1 その2 でもメカニカルな文体、ということでちらっと紹介しましたが……
まずは祐巳ちゃんと祥子さまの激突シーン。
曲がったタイを直された、その次。2回目の接触です。
人が飛び出してきたと思った瞬間、祐巳は身体の前面に軽い衝撃を受けた。次いで視界が傾ぎ天井が回って、その後すぐにお尻に激痛が走った。
(同書39ページより)
視界が傾ぎ……「傾ぎ」……この、中学生にはふりがなを振らないと読めないようなワードが
6巻目、祐巳ちゃんと祥子さまの輝かしき初デートの場面で使われるというのは ただ事ではない、わけです。
今野先生にとっては重要ワードに違いない。
以下、その2で引用しましたが、ジーンズショップの試着室の場面。
「踏んづけているかかとを、一旦上げてください」
「ええ……こう?」
ぐらり。
「あっ!」
大きく傾ぐ祥子さまの身体を、祐巳はあわてて支えた。
(集英社コバルト文庫「マリア様がみてる ウァレンティーヌスの贈り物(後編)」99ページより)
そうおもって 1巻目「マリア様がみてる」をきちんと読み直しますと、ね。
けっこう出て来るんですわ。「傾ぐ」「傾く」
(トマス注:蔦子さんが撮影した 祐巳の曲がったタイを直す祥子の写真をみて)
祥子さまは写真を手にすると、まず小さく首を傾げ、そのままゆっくりと祐巳の方に顔を向けた。
(集英社コバルト文庫「マリア様がみてる」65ページより)
「ごきげんよう。気をつけてお帰りなさい」
言いたいことだけ言うと、ニッコリとほほえんで、祥子さまは校舎側に去っていった。
「何か、格好いいね」
後ろ姿を見送りながら、蔦子さんがつぶやいた。
祐巳もその時、自分の心がグラリと傾きかけたことが確かにわかった。
(同書87ページより)
(トマス注:これも前に引用しましたが、学園祭でカレー屋をひらく二年桜組が、薔薇の館にカレーを差し入れに来た場面)
「あれ。一つ多い」
彼女たちは首を傾げた。八人に対してお皿は九つ。
「誰よ。三かける三なんて言ったの」
「あ、そうか。白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)のところは二年生がいないんだ」
(同書164ページより)
といった具合。どうもね。
「傾ぐ」=心のゆらぎ=「構造」のゆらぎ
という気がしてなりません。
これがたまたまじゃない、というのはですね。
白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)との抱擁シーンをみるとよくわかるんですわ。
なにかというと祐巳ちゃんを抱きしめる白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)
高校卒業後、大学生になっても抱きしめ続けるのですが……
その記念すべき初・抱擁シーンは――
「それはね!」
そう言ったかと思うと、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)は突然祐巳をギュッと抱きしめた。
「祐巳ちゃんの可愛い百面相が見たいからかな」
「ちょっ……、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)‼」
コーヒーがこぼれそうなんですけれど。
いや、そんなことより。白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)がどういうつもりか知らないが、こんなところを誰かに見られたりしたら、ますます話が複雑にこんがらがって大変なことになるんじゃないか。
しかし、そういう時に限って、何があれするわけで。
ティーカップを水平に保ちながら逃れようとジタバタしていると、フッと身体が楽になった。
(同書141~142ページより)
イチャイチャしているんですが、
あくまで「水平」なんです。
「傾く」の逆……真逆なんです。
言葉のチョイスが的確すぎます! 今野先生。
⑥サファイアの違和感→壊れかけた温室。
確認しておきたいのですが、
反「構造」といったところで、祥子さま&祐巳のカップルが
「反逆」とか「破壊」とか「革命」とか そういうハードな反「構造」を志向しているわけではないのです。
(「黄薔薇革命」のヒロイン、島津由乃ちゃんはそうなのかもしれんのですが)
彼らが志向している、惹かれているのは
微妙な傾き。
です。
祐巳ちゃんの剛毛は、お能の逆髪みたいに完全に突っ立っているわけではない。
リボンでむりやりおさえこんでいるわけです。
祥子さまの「近親相姦」要素にしたって、実際にそれをやっているわけではなくて
親によって強引に取り決められている。さらに柏木さんは同性愛者という事実で弱められている。
そして「祐巳の曲がったタイ」にしたって、
完全にだらしなく曲がっていたわけではないようなので。
あくまで微妙な曲がり具合が なぜか祥子さまの心を打ったように書かれている。
そのあたりは
「ただタイが曲がっていたくらいで、祥子さまが直してくれるなら、リリアンの生徒全員がタイをほどいて歩くわよ」
蔦子さんはズバリと言い切った。
「まさか」
「実際、私はそういう計算ずくの一年生を見たことがあるのだ」
(同書27ページより)
計算ずくの一年生を待っていたもの――
それは「冷ややかな一瞥。そして無視」(28ページ) だったそうなのです。
しかし、なぜか 祐巳の曲がったタイを祥子さまはやさしく直した。
このあたりの「微妙さ」を見事に描き切っているのが――
今野先生ほんと天才だと思うのですが……
「サファイア」「壊れかけた温室」の組み合わせ、なのです。
マリア様の心は、青空であり、樫の木であり、ウグイスであり、山百合であり、そしてサファイアなのである。それは、幼稚舎に入ってまず最初に覚えさせられる歌にあった。
(しかし、どうしてサファイアなんだ……?)
子供心に不思議に思い、未だにそれは引きずっている。青空、樫の木、ウグイス、山百合ときて、なぜサファイアなのか、と。
マリア様のお心を美しいものに喩えているのだろうけれど、宝石という俗物的な物を空や動植物と同列に並べることにどうしても違和感を覚えた。それにサファイアは高価な物だから、青空を見上げるくらい同等に誰もが平等に身を飾ることなどできないと思ったのだ。
(でも、祥子さまクラスのお嬢さまなら、サファイアに違和感なんか感じないんだろうな)
(同書32ページより)
「マリア様の心」という作中よく登場する歌に
(今12巻目の「子羊たちの休暇」を読んでるのですが、やはりラスト近く登場する)
違和感を感じる祐巳。 サファイアはおかしいだろう。と。
本論考の用語でいえば 祐巳はサファイアの中に
反「構造」・「傾ぐ」・「構造」のゆらぎ……等々を感じ取っているわけです。
そして サファイアに何かを感じるのは 祥子さまも同様であった。
婚約者・柏木さんが作中に初登場するその直後の描写――
「それにしても、何でサファイアなのかしらね」
「えっ?」
「違和感があると思わない?」
祥子さまはニッコリと笑うと、呆然と立ちつくす祐巳を置いてさっさと中に入っていってしまった。
「……祥子さま」
もう少し待ってくれればいいのに、と思った。せめて、祐巳が答えを返せるくらいの時間。
でも残念ながら祥子さまは振り返ることもなく、体育館で待つ仲間たちの輪の中に紛れてしまったのだった。
(同書192ページより)
この「サファイア」は 例の「壊れかけた温室」と同価値なのではあるまいか?
温室、というと、のちのち 「黄薔薇革命」でも「ウァレンティーヌスの贈り物(前編)」でも大活躍の舞台ですが……
1巻目でも、もちろん、
ただ、側にいるだけ。それだけで、本当にいいのだろうか。そう思った時。
「いて」
祥子さまがつぶやいた。
「ここにいて」
そして、祐巳の右肩にそっとやわらかい重みがかかった。祥子さまが額をつけて泣いているのだとわかるまで、少し時間がかかった。
(同書227ページより)
祥子&祐巳のカップルの仲が決定的になるわけですけど――
この温室は「壊れかけ」でなければ絶対にいけないのです! 絶対にそうです!!
古くて所々壊れているので、生徒たちもほとんど来ない。それでも取り壊されずにいるのは、毎年必ず数人はいる熱狂的なファンが保存を訴えるためと、敷地に余裕があるので急いで壊す必要に迫られていないからであった。
(同書225~226ページより)
ようはこの温室
「文明」と「自然」の境界線上に位置しているわけです。
完全に人間たちの管理下にあるわけではなく、といって、完全に「自然」に帰ってしまったわけでもない。
微妙な中間点にいる。
はい。
これ、サファイアも同じなんですわ。
「宝石という俗物的な物を空や動植物と同列に並べることにどうしても違和感を覚えた」
完全に「自然」というわけではなく、
しかし鉱物の一種ですから、まあ、「自然」のようでもある。
といって完全に「文明」の側に属しているものでもなく……
はい。
サファイア=壊れかけた温室=微妙な傾き。
この微妙な反「構造」が 祥子&祐巳を結びつけるのです。
⑦ようやく結論。
で、ようやくわれわれは ジジェクおじさんのヒッチコック分析に戻ってくるわけです。
例の〈マクガフィン〉=〈対象a〉
「北北西に進路を取れ」の ロジャー・O・ソーンヒル
R・O・T
まんなかの O→ゼロ をめぐって物語は展開する。
〈対象a〉は空間内に存在する実在物ではなく、究極的には、空間そのもののもつある種の歪みに他ならない。
(筑摩書房、スラヴォイ・ジジェク著「汝の症候を楽しめ」85ページより)
〈対象a〉は、ポジティブな実体(たとえば宮廷恋愛における貴婦人)に見えるにもかかわらず、欲望の道を狂わせる湾曲のポジティブで物質的な原因などではなく、欲望の空間の歪んだ構造そのものが幻として現実化したものである。
(同書294ページより)
祥子&祐巳を結びつけるのも やっぱりなんらかの「実在物」「物質」ではないのです。
「ゼロ」「空間の歪み」なのです。
この微妙さを表現するワードが
「傾ぐ」
であり、モチーフとしては
「サファイア」「壊れかけた温室」
なわけです。
はい、いいかげん結論を書いてしまいましょう。
◎福沢祐巳ちゃんの曲がったタイ=〈マクガフィン〉=〈対象a〉
もうおわかりですね。
小笠原祥子&福沢祐巳 なるカップル・姉妹を支えるものは
じつに微妙な「空間」「構造」の歪みなのです。
それは実在するものではなくて、
ゼロです。幻です。
でも、、幻でいいのです。
12巻目「子羊たちの休暇」にこんなものすごいシーンが存在しますが……
「おはよう」
祥子さまはいつものように手を祐巳の胸もと附近に伸ばしたが、そこにタイがないことにきづいて、襟なしで乱れようもない襟刳りをそっと撫でてほほえんだ。
「おはようございます」
挨拶がいつもの「ごきげんよう」じゃないのは、学校でないせいだろうか。それとも、今が本当に早い時間だからだろうか。でも、そのちょっとした違和感は嫌いじゃない。
(集英社コバルト文庫「マリア様がみてる 子羊たちの休暇」66ページより)
夏休み。小笠原家の別荘に招待された祐巳、
M駅で祥子さまと待ち合わせをするのですが、夏休みなので当然制服ではありません。
もちろん、「タイ」は存在しない。
それにもかかわらず、祥子さまは祐巳ちゃんの胸元に手をのばす。
でもいいのです。
祥子さまは空間の歪みに恋をしているのだから――