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今野緒雪「マリア様がみてる いばらの森」感想

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趣味の「マリみて」研究。

ほぼ自分向けの読書メモをぐたぐた書きます。

 

3巻目「いばらの森」です。

 

内容は「いばらの森」と「白き花びら」の中編二本立て。

 

あらすじは――例によって カバーに書いてあることを引用しちゃいますと……

 

 期末試験で落ち着かない学園に、驚くべき噂が流れた。

 リリアン女学園をモデルにしたと思われる自伝的小説が出版され、

 しかもその作者が白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)だというのである!

 小説の内容が二人の少女の禁断の恋を描いたものであることも加わって、学園は大騒ぎ。

 白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)の過去はタブーとなっていて、事情を知っている人もみんな口をつぐんでいた。

 祐巳と由乃は、真相の解明に乗り出したが……!?

 

というのですが、以上が「いばらの森」の内容で、

「白き花びら」は、

白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)の「私」一人称で語られる「二人の少女の禁断の恋」となります。

 

ようは

1巻目・紅薔薇

2巻目・黄薔薇

3巻目・白薔薇

という展開なわけです。

 

が、今野先生がひねくれているのは、当然予想される 「佐藤聖―藤堂志摩子」のことを扱うのではなく……

「佐藤聖―久保栞」という未知の関係性を扱っているところです。

 

 

①「構造」の空隙を、トリックスター=由乃が暴く。

 

――「いばらの森」の基本構造はこれがすべて。でしょう。

 

作品中に、宮廷社、コスモス文庫の須加星(すが・せい)作「いばらの森」が登場する、

ちょっとメタ・フィクションみたいな要素のある おしゃれな小品ですが、

主役は 白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)・佐藤聖さま、というより、

トリックスター性を開花させた島津由乃ちゃんのようにおもえます。

 

まずはなにより

「構造」の空隙とはなにか?

 

それはもちろん この穴のことなんですわ。

佐藤聖さまと藤堂志摩子ちゃんの間にぽっかりと空いた穴。

薔薇の館のメンバー表に たったひとつだけ空いた穴。↓↓

◎共同体の「構造」の空隙、歪み、を解消するために

一般庶民は

(はっきりいうと『愚民』は)

安易な「物語」を必要とする。

 

今野緒雪の真のメッセージはそこです。

 

このメッセージ。社会科のおはなしに置き換えるとわかりやすいかとおもいます。

ようは ヒットラーやスターリンの戦略のことをいってるんですわ。

 

ヒットラーの戦略はこうです。

「われわれが不幸なのはユダヤ人が存在するからだ」

スターリン・毛沢東・ポル・ポトの戦略はこうです。

(注:カール・マルクスの戦略、ではない)

「われわれが不幸なのは、ブルジョア・富農が存在するからだ」

 

あるいは某半島国家・K国の戦略もわかりやすいですね。

「われわれが不幸なのは、日本人が存在するからだ」

 

――ようするに共同体の安定をはかるために、民衆は

おっそろしく安易な「物語」に飛びついてしまうわけです。

その結果起こる大虐殺……もしくはエンドレスな「賠償金よこせ!!」……

 

たかがコバルト文庫を語るために、ものすんごくスケールのデカい話をしてますが、

でも、正しいのだから仕方がない。

つまり、

 

リリアン女学園の一般生徒は、

薔薇の館の「構造」の空隙を埋めるのは、

コスモス文庫「いばらの森」である。

つまり、

須加星=白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)・佐藤聖

である。と信じ込んでしまったわけです。

 

あたかも、ユダヤ人を消してしまえば幸福が訪れると信じ込んでしまったドイツ人のように……

 

んで、そういった硬直しきった思考。

安易な思考を打破するのが、トリックスター=道化である。

ということをおっしゃったのが山口昌男先生であるわけです。

 

そして、われらが今野緒雪大先生は この硬直しきった思考を打破すべく

◎島津由乃=トリックスター

を、大暴れさせて、民衆・リリアン女学園の生徒たちの作った安易な「物語」を破壊する。

 

……はい。それを以下、説明します。

 

前回引用した 山口昌男先生のヘルメス神の神話素というのを

もういっかい書き写しておきますね。

 

 このように物語化され擬人化されたヘルメス神話を、神話素とでもいうべきものに還元すれば、次のごとくなろう。

(A) 小にして大、幼にして成熟という相反するものの合一

(B) 盗み、詐術(トリック)による秩序の擾乱

(C) 至るところに姿を現わす迅速性

(D) 新しい組み合わせによる未知のものの創出

(E) 旅行者、伝令、先達として異なる世界のつなぎをすること

(F) 交換という行為によって異質のものの間に伝達(コミュニケーション)を成立させる

(G) 常に動くこと、新しい局面を拓くこと、失敗を怖れぬこと、それを笑いに転化させることなどの行為、態度の結合

(新潮社、山口昌男著「道化の民俗学」84~85ページより)

 

これがまあ、見事 「いばらの森」で描かれる由乃ちゃんにぴったり当てはまるんですわ……

 

「秘技瞬間湯沸かしの術」

 由乃さんが、流しのたらいにポットのお湯を注ぎ、それを水道水で少しうめてからカップとスプーンとスポンジを中に沈めた。

「この中で洗って、すすぎだけ水道水使うの。どう?」

(集英社コバルト文庫「マリア様がみてる いばらの森」100ページより)

→(D)発明?ですね。新しい組み合わせというやつ。

 

 由乃さんが、「作っていただけます?」って、無邪気にほほえんだ。わざとじゃなくて、こんなふうに笑えるっていうのは、やはりもって生まれた才能なのかもしれない。こんなふうに頼まれて悪い気する人はいないだろう。

(同書107ページより)

→(A)幼にして成熟、そして(F)のコミュニケーションという要素もあるかな。

 

「祐巳さん、脳味噌とけてるよ」

 由乃さんは呆れたようにため息をついて、再びラーメンどんぶりに向かい合った。

(同書111ページより)

→(A)かわいいくせにどぎついです。 あと、脳味噌とけてるという表現は(D)でもあるかな。

 

「れ、令さま!」

「え、何、祐巳ちゃん!?」

 由乃さんったらどっちにも内緒にしていたらしくて、お互い不意打ち食らったように名前呼び合って固まってしまった。

(同書140ページより)

→令さまと祐巳ちゃん二人をだましていました。はい。(B)トリック

 

 由乃さんって、勘がいいから気をつけないと。「どうぞ」ってコタツの布団めくり上げて席を勧めてくれる無邪気な笑顔に、ついつい騙されがちだけど。捕り物とか推理小説とかも愛読している彼女は、女探偵だって思っていたほうがいい。

(同書141ページより)

→これはいろいろな要素が入ってますかな。(A)(B)……それと勘がいい、思考の素早さってことだと(C)

 

「――でね、私電話してみようと思って」

 突然、由乃さんは中断していた会話を再開した。

「電話って、何の話?」

 お茶を出し終わって去りかけた令さまが、小耳に挟んで扉の辺りから舞い戻ってきた。

「コスモス編集部に決まっているじゃない」

 由乃さんは、けろりと言い切った。

(同書147ページより)

→コスモス文庫「いばらの森」の作者を暴くために 出版社に電話してみようといいます。

(A)(C)(E)(F)(G)

 

 しかし、由乃さんは不死身らしい。逆境はむしろ、彼女のエネルギーを増幅させるべく作用するようだ。

「電話じゃ、らち明かないわ。編集部に行きましょ」

「え――――!?」

 どうしてそんなに元気なんだ、由乃さん。つい最近まで心臓悪くておとなしくしていた人と、同一人物だとはとても思えない。さては来るべき日のために、さなぎのようにじっとして力を蓄えていたんだな。

(同書157~158ページより)

→電話だと、らちが明かないから、出版社に乗り込もう……というはなしになります。

これはもう(A)(B)(C)(D)(E)(F)(G)でしょうかね。

 

まだまだありますが、きりがないのでやめます。

あと、ですね……

由乃ちゃん=黒のイメージ

というのも気になるところ……

 

 由乃さんは、黒いハイネックのセーターに膝丈の黄色いタータンチェックのプリーツスカート、それに黒いタイツをはいていた。制服の時も思っていたんだけど、色白だからすごく黒が似合う

(138ページより)

 

山口昌男先生によれば 黒=トリックスターを象徴づける色、ということになりそうです。

 

イタリア喜劇のアルレッキーノの黒い仮面。

ヒンズー神話の「黒き英雄神クリシュナ」等々について述べていますが……

 

 黒色のシンボリズムについて言えば、イギリスの社会人類学者V・W・ターナーは彼の調査したローデシアのンデンブー族の事例にはじまり、アフリカの他の地方、マレイ半島、オーストラリア、北米インディアン、古代インドの宗教表象における黒色の象徴性を、赤・白・黒という、色彩象徴の始原的三元性という最も基本的な分類表象の複合のうちに比較検討した結果、「大胆すぎるかも知れないが」と断りながらも、黒について、次のような普遍的象徴性の存在することを指摘している。

「(A)黒=糞尿または身体の腐蝕→秘儀的な死と見做されるような、一つの状態から他の状態への移行、

(B)黒=雨雲または沃土→同じ生活価値観を営むものの最も広汎な統一」

差し当たって我々の関心に結びつくのは前者であろうが、続けて彼は次のように述べている。

「しばしば死または気絶または眠りまたは暗闇を意味する黒色は、本源的には無意識の状態に入ること、すなわち暗転の体験を表象しているのかも知れない」

(新潮社、山口昌男「道化の民俗学」110~111ページより)

 

とうぜん、島津由乃は 「病院」という名の「冥界」を一度くぐりぬけて来た猛者です。

死または気絶または眠りまたは暗闇を意味する黒色……

 

今野緒雪はきわめて細心の注意を払って

島津由乃=トリックスター

この構図を描いています。

 

これがたとえばノーベル賞作家……

大江健三郎だったりすると、

「オレはこれからトリックスターを書くよ!」

「この登場人物はトリックスターなんだ。そう、わかるよね。山口昌男の書いてたやつ」

「すごいだろ、これぞグロテスクリアリズムなんだ。ね? これが一流の文学なんだ」

と……

作家ご本人がやりたいことがみえみえで興ざめすることが多々あります。

タネがばればれの手品なんぞ見せられたって、おもしろくもなんともないっていうの!

 

んー、僕から言わせると、

島津由乃=トリックスターというのを

さらっと、かつ、かわいく書いてしまう今野緒雪の方がよっぽど「天才」だし、

「マリみて」のほうが何十倍も高級な文学だとおもうのですが……ね?

 

□□□□□□□□

②今野緒雪=ニョロニョロ・フェチ。

「三つ編みシーン」=「麺食堂シーン」

 

えー、次は、ですね。「白き花びら」をみていこうかな。と。

 

でも、お読みになった方は、ですね。

「三つ編みシーン」は「白き花びら」のアレだろうけど――

「麺食堂」のシーンはたしか、「いばらの森」にあったんじゃなかったかしら?

と困惑されるかもしれないのですが、まあ、そこんとこはいいのです。

 

「白き花びら」を語りながら、最後、「麺食堂シーン」につなげますので……

 

…………

「白き花びら」――わたくし、トマス・ピンコとしては

それほど大した話ではないようにおもえるのですが……

といいますか、

 

1巻「無印」→2巻「黄薔薇革命」→3巻の前半「いばらの森」 といずれもケッサク揃いだったので

3巻の後半「白き花びら」で……

 

――んー、これはつまらん。

今野緒雪も駄作を書くことがあるのか……

猿も木から落ちる、弘法も筆の誤り、というやつか……

などとおもっておったのですが、

 

どうも「白き花びら」、これは一般的に人気のある作品であるらしい。

今野先生ご自身のコメント――

 

―― さまざまなキャラクターが登場する『マリア様』。印象に残っているキャラは誰でしょうか。

今野 作者としては、誰もひいきできないです。けれど、読者からの反応が大きかったのは、佐藤聖と栞、それから聖と志摩子。白薔薇のファンは熱いですね!

―― 聖と栞の関係は、どちらかといえば恋愛に近いように思います。

今野 そうですね、恋愛なのかな……。ほかの人たちに比べると、一歩踏み込んでいますよね。ただ「恋愛」と言いきっていいのかどうかはわからないです。

―― 白薔薇は、聖と志摩子、志摩子と乃梨子の関係性が全く違うのが面白いです。

今野 あそこはまず志摩子と乃梨子が先にあって、それから聖ができたので、順番が逆。キャラだけではなく、関係性もどれも違うものにしたいと書いていました。意識していたというよりかは「できたらそうなっちゃった」という面も大きいですが。

―― 気に入っているシーンを教えてください!

今野 『マリア様』には自分のツボが盛り込まれていますが、聖が栞と自分の髪をとって三つ編みにするシーンは気に入っています。髪の毛を編むようなシーンって、女の子同士のほうがぜったいいいですよね!

(青土社、「ユリイカ 2014年12月号 百合文化の現在」37~38ページより)

 

今野先生ご自身、この対談が、

雑誌の「百合文化の現在」のオープニングを飾る目玉企画になる、というのは

あらかじめ知らされているでしょうから、

 

で、一番「百合」要素の濃い、

聖―栞

を、サービスで語ってくれた、というのは大きいように思うのですが……

それでもやっぱりご自身お好きなのでしょう。「白き花びら」

 

で、肝心の三つ編みシーンってのはこんなです。

 

 雨に閉じこめられた古い温室の中で、私は誰にも邪魔されずに栞を感じていた。今この瞬間だけ、栞のすべては私のものだった。

 なぜ、私たちは別々の個体に生まれてしまったのだろう。

 どうして、二人は同化して一つの生命体になれないのだろう。

 私は栞の吐息を感じながら、二人の湿った長い髪を何気なく一筋ずつとって、それを一つの束にした。しかし色も質も違う二種類の髪は、押さえていた手を離すとすぐにはらはらと分かれてしまう。退屈に任せて、縄のようにねじったりもしてみたが、結果はあまり変わらなかった。

 私はなぜだか意地になって、二人の髪を三つ編みにした。栞の髪を二筋、私の髪を一筋とって。そして、やっと私たちの髪は一つになった。

「何してるの」

 寝ぼけ眼で、栞が尋ねた。

「ううん、何でもない。もう少し寝ていてもいいよ。雨がやんだら起してあげる」

「うん」

 私は髪だけでは足りずに、手の指を一本ずつ栞の指の間に滑り込ませた。くすぐったい、と身をよじらせながら栞は笑ったが、私の手を振り払うことはなかった。

 雨よ、やむな。

 私も瞼を閉じた。

 雨よ、やむな。

 闇は、私たちを目に見えるすべての物から閉ざす。確かなものは、栞の鼓動と温度と吐息だけ。

 永遠にこうしていたい。

 私は半ば本気で、このまま時が止まるものだと信じていた。

(集英社コバルト文庫「マリア様がみてる いばらの森」236~238ページより)

 

んーうまい。

「白き花びら」つまらん。などとけなしておいて、言うのは何だが、容赦なく、うまい。

イメージ操作が完璧です。

「どうして、二人は同化して一つの生命体になれないのだろう」

は、プラトン「饗宴」の遠いエコーを感じさせます。

それから、

・雨=陰陽和合の象徴。

・古い温室=「文化」と「自然」の間の中間地点にある建物。

・「マリみて」における神聖なる数字「3」

 

当然カトリックにおいても「3」は聖なる数

→三位一体を信じる藤堂志摩子という人物の登場を示唆しているともおもえなくもない。

(「白き花びら」の時代。志摩子さんはまだ中等部の生徒でした)

 

うまいんですけど――なぜ、わたくしがすんなり入っていけないのか。というと、

「これって吉屋信子大先生がやりつくした領域じゃん!?」

「なぜ天才・今野緒雪が 吉屋先生の領土に踏み込む必要があるの!?」

ということなんだろうとおもいます。

 

女の子が女の子を好きになってしまって、うんぬん、というのを

ミッションスクールを舞台に描く、となると、

吉屋信子には誰もかなわん、のです。

 

で、おもうのは、「いばらの森」の輝かしき麺食堂シーンなわけです。

この「麺食堂シーン」こそが、今野緒雪の本来の領土なのではあるまいか??

 

□□□□□□□□

「麺食堂シーン」は、

「マリア様 いばらの森」の106ページから112ページにかけて描かれるのですが、

これは初読の時は、まったく意味がわかりませんでした。

 

これははっきりいって謎のシーンです。

口の悪い人がいうと

「ただラーメンがうまそうに書けているだけの

枚数稼ぎのシーン」

などということになってしまいそうです。

 

ところが、二度三度読んでみると、これがとんでもないシーンであることが判明しました。

 

ま、どんなシーンなのか説明しますと……

①薔薇の館にて、祐巳、由乃は、

コスモス文庫「いばらの森」を 白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)・佐藤聖にみせる。

(繰り返し説明すると、この「いばらの森」の作者は佐藤聖に違いない、と噂になっているのである)

 

②「いばらの森」を読む間、ひとりにしておいてくれ、ということで

白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)は、祐巳、由乃の二人に麺食堂の食券を渡す。

(麺食堂は大学生が使う食堂らしい。リリアン女学園というのは幼稚舎から大学まで一貫教育をするすごい学校らしいのだ)

 

③祐巳、由乃の二人は薔薇の館を出る。

 

 祥子さまもけっこう読めないところがある。でも、ストレートだから一度パターンがわかると応用きく部分があるからそう難しくはないのだ。白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)の場合は、もっとひねくれてて奥の奥に本質が隠されているような気がする。

(同書106ページより)

 

④二人は麺食堂にたどりつく。

 

「時間のほうは構いませんので」

 由乃さんが「作っていただけます?」って、無邪気にほほえんだ。わざとじゃなくて、こんなふうに笑えるっていうのは、やはりもって生まれた才能なのかもしれない。こんなふうに頼まれて悪い気する人はいないだろう。

「じゃ、もう一度火をつけようか」

 小母さんは食券を専用の箱に放り込むと、「よっこらしょ」と大鍋の方に移動した。

(同書107ページより)

 

⑤二人はラーメンができるのを待つ。

 

「ちょっと時間がかかる、って」

「どれくらいなのかしらね」

 どうせ「一時間帰ってくるな」って白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)に言われているんだから、ちょうどいい時間つぶしになる。――なんて小声で話をしていたら、ものの五分かそこらで、「できたよ」って声がかかってしまった。

(同書108ページより)

 

⑥二人はラーメンを食べはじめる。

 

 揃って取りにいくと、小母さんはハンカチを首から下げて食べたほうがいいってアドバイスしてくれた。どんなにがんばっても、ラーメンの汁って絶対に飛ぶものらしい。

「そうか……。このアイボリーの襟にはねたら大変だもんね」

 赤ちゃんみたいで恥ずかしいけれど、背に腹は代えられないということで、二人は指示通りハンカチを襟に引っかけてから割り箸を割った。ラーメンには、チャーシューとなるとが一枚ずつ、それから刻みネギ、海苔、メンマがのっている。

「いただきまーす」

 まず、スープを一口。

「……おいしい」

「うん」

 しょうゆ味の温かい汁が、胃から身体全体に広がっていくかのようだった。薔薇の館にいる白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)にも、一口分けてあげたい。

(同書109~110ページより)

 

⑦二人はゆっくりとラーメンを食べ続ける。

 

 祐巳は時計を見た。薔薇の館を出てから、約三十分。一時間から三十分を引いて、残りは同じく三十分。

(微妙なところかな)

 このままのペースでラーメンをすべて平らげて帰ったなら、どこかで時間をつぶすこともなく約束の一時間を消化することができるかもしれない。

(でも、そうなるとラーメンがかなり伸びちゃう)

 かといって、制服に汁が飛ぶのは勘弁してほしいし。結局、由乃さんを見習って少量ずつ淡淡と口に運ぶ以外なさそうだ。

 たとえ麺食堂への出入りを解禁されたとしても、中高生がこの場所に大挙して押し寄せる危険性はまったくないって断言できる。制服を汚さずラーメンを食べるという技は、相当に難しく、時間もそれなりにかかるものだから。

(同書111~112ページより)

 

はい。こんなシーンなんですけど……

ラーメン食いたい……とか、

汁が跳ねないようラーメンをちびちび食べるセーラー服の少女二人、かわいすぎる……とか、

いろいろおもうことはあるのですが、

 

ここで、トマス・ピンコの野郎が、

◎「三つ編みシーン」=「麺食堂シーン」

などと言い出したら、どうおもわれるでしょうか?

 

片や、聖-栞の美しいラブシーン。

片や、祐巳―由乃 仲良しコンビがラーメンをずるずるすすっているシーン。

でも、おっどろくほど似てるんですわ。この2つは。

 

類似点A:時間要素。

しきりに「時間」がでてくるんですわ。この2シーン。

「三つ編みシーン」→「今この瞬間だけ、栞のすべては私のもの…」 さいご「このまま時が止まるものだと…」

「麺食堂シーン」→時間ばかりです。小母さんは時間がかかる、というし。

由乃さんは「時間のほうは構いませんので」という。

祐巳は祐巳でしきりに「1時間」をどうやって潰すかというのを考えている。

 

類似点B:赤ちゃん。

はい。

「麺食堂シーン」は簡単ですね。「赤ちゃんみたいで恥ずかしいけれど」 ハンカチを首から下げてラーメンを食べます。

「三つ編みシーン」ですが、

「どうして、二人は同化して一つの生命体になれないのだろう」

これは究極的には 「母ー胎児」このイメージにつながりそうです。

この推定がこじつけではない証拠に、ラスト近く……

「闇は、私たちを目に見えるすべての物から閉ざす。確かなものは、栞の鼓動と温度と吐息だけ」

これってどうみても

母=栞、胎児=聖 この構図ですよね。胎児が感じるのはお母さんの「鼓動と温度と吐息だけ」

今野緒雪が

「ほかの人たちに比べると、一歩踏み込んでいますよね。ただ「恋愛」と言いきっていいのかどうかはわからないです」

というのはものすごく正確です。

聖ー栞 は 母ー胎児 しかも…… 「年下の母ー年上の胎児」 というものすごい構図になってます。

(泉鏡花の影響とかあるんだろうか、とか書き出すと止まらんのでやめにしときます)

 

類似点C:「3」と「2」

「三つ編みシーン」はわかりやすいですね。

「2」人で「3」つ編みにするわけです。

「麺食堂シーン」は、祐巳ー由乃の仲良しさん「2」人なのですが、

二人の話題・そして二人の思考は、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)・佐藤聖をめぐって展開するわけです。

読者の興味もそこです。

「2」だけど「3」 「3」だけど「2」 なのです。

 

類似点D:長くてニョロニョロ

……のものがでてきます。

というか、わたくし的には 「マリみて」のメインテーマはこれなんじゃないかとおもうのですが……

「三つ編みシーン」→女の子二人の髪の毛

「麺食堂シーン」→ラーメン

 

はい。もう証明できた。といってよいでしょう。

◎「三つ編みシーン」=「麺食堂シーン」

つまり、ですね。

一見、不必要な……削ってもいいかにみえてこのシーン。

じつは……

 

白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)の場合は、もっとひねくれてて奥の奥に本質が隠されているような気がする。

(同書106ページより)

 

佐藤聖さまの「奥の奥」の秘密につながる重要な伏線だった、というわけです。

 

□□□□□□□□

えー、で これから 

今野緒雪=ニョロニョロ・フェチ

というのを書こうかと思ったのですが、

これは稿を改めて ということにします。

 

ただちょっとだけあらましを書いておくと、

1巻目「無印」において――

 

「なるほど、フクザワユミさん。漢字でどう書くの?」

 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は腕組みをして尋ねた。

「福沢諭吉の福沢、しめすへんに右を書いて祐、それに巳年の巳です

「めでたそうで、いいお名前」

 白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)が華やかにほほえんだ。

「それで?」

 最後に黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)が、値踏みするように上から下まで祐巳を見た。

「その、福沢祐巳さんが、どうなさって?」

 いつの間にか、祐巳は三色の薔薇さま方に取り囲まれてしまっていた。

 ににらまれた蛙って、こんな状態をいうのだろうか。いくら名前に巳(へび)という字がついていて多少は親しみがあるとはいえ、こんなのは勘弁してほしい。蛇じゃなければ、茨の森か

(集英社コバルト文庫「マリア様がみてる」43~44ページより)

 

福沢祐巳=蛇

という構図がでており、さらには

蛇=茨の森(いばらの森‼)

という構図まででているというのはただ事ではない気がします。

 

蛇娘・祐巳ちゃんの周囲を見回すと――

由乃→三つ編み

志摩子→ふわふわの巻き毛

まあ、これは女子高生を描いた作品だからとうぜんかもしれませんが――

 

祥子さまと祐巳を結びつける小道具として

「曲がったタイ」「黒いリボン」が登場するのは もう完全に「ニョロニョロフェチ」といっていいのではなかろうか?

 

将来の重要人物。松平瞳子ちゃんの「縦ロール」というらせん型の髪型は

どうみても「蛇イメージ」としか考えられんのですよ。はい。

 

そして「瞳子(とうこ)」……「瞳」という名前ですが、

吉野裕子先生がその著書「蛇 日本の蛇信仰」において、蛇の目に注目していることなんか考えたくなります。

 

 蛇の目にはマブタがないため、その目は常時、開き放しで、まばたくということがない。この「マバタキ」のないことは蛇の目の特徴で、他の爬虫類にはみられないのである。そこでこの「マバタキ」のない蛇の目に出会うと、人間はじっと蛇から睨みつけられているように思う。その結果、蛇の目は特に「光るもの」として受けとられ、古代日本人の感覚に対して、蛇の目は非常に訴えるものがあったのである。

(法政大学出版局、吉野裕子「蛇 日本の蛇信仰」80ページより)

 

んー 蛇イメージをかたっぱしから拾っていく必要があるかもしれません。

「マリア様がみてる」を本気で読み込んでいくとすると……


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