その2です。
おもてのテーマは「塔」なんですけど――
今回の「裏」のテーマは
◎「日本間」で映画を撮るテクニック
ということになりそうです。
□□□□□□□□
前作「非常線の女」(1933)から 「出来ごころ」(1933)への
過激なシフトチェンジに関して……
そこに一九二〇年代的なインターナショナルなモダニズムに対し、反モダニズム・ナショナリズムが勃興し取って代る一九三〇年代的時代相がある。それが「回帰」の主題である。
(岩波現代文庫・田中眞澄著「小津安二郎周游(上)」142ページより)
田中何某先生などは、1933年当時のナショナリズム勃興の雰囲気と並べて論じていたりするわけですが――
(なにしろヒトラーが政権を握った年なのでね)
この先生の編纂されている
「全日記小津安二郎」
「小津安二郎全発言」
「小津安二郎戦後語録集成」
などには大変お世話になっているし、立派な仕事だとおもうのですが……
この人の癖は、
「スクリーン上に起こっていることをなにも見ない・無視する」
というわけのわからん態度でありまして……
(映像メディアというモノを 文字メディアから数段劣ったものだとみているのだとおもう)
スクリーン上の出来事を素直にみていけば
そんなナショナリズムがどうこういう結論にはたどり着かないとおもうのであります。
じゃ、トマス・ピンコの結論はなんなのか?
「非常線の女」から「出来ごころ」へのシフトチェンジの理由はなんなのか?
と申しますと――
・日本間での撮影にようやく自信がもてるようになってきた。
というのが理由なのだろうとおもいます。
それはおいおい見ていくこととしまして……
□□□□□□□□
S51 店の中
春江、見迎え、
「工場はどうなすったの?」
喜八、にやにやして反り返り、坐る。
四辺を見廻してから、櫛を出し、彼女に
「どうだい、これは?」と差し出す。
そして、彼女の髪にさしてやる。
というところですが、ここは
伏見信子(春江)=「塔」
この構図を印象付けたいのではないか?
と思います。
「若き日」~「非常線の女」と今までみてきましたが、
こんなに高く、大きく 髪の毛を結いあげた女性キャラって
他にいましたっけ?
たぶんいないです。
もちろん小津の場合、失われた作品が多数ありますので
確実なことはいえないんですが、
今まで見てきた 田中絹代の髪型 川崎弘子の髪型
どれを思い出してみてもーー
これほどダイナミックに盛り上がっていない(笑)↓↓
伏見信子=「塔」なのです。
――しかし、日本髪って難しく……
これはなんていう髪型なんですか?
桃割れ?
くわしい方教えてください。
ちなみに……「全日記小津安二郎」
1933年4月26日(水)
絹代さんが丸髷で奇(綺)麗だつた
なる記述がありますが、
戦前の日本男子には
日本髪の女性というのは なにかたまらんものがあったようなのです。
伏見信子はかわいいですが、
小津作品ではこれ一作きりですね。
ちょっと幸薄そうなところが欠点だったか?
まあ、松竹にはこのあと 高杉早苗 桑野通子 高峰三枝子等々……
きらびやかな新人たちがあらわれますので
ムリもなかったか。
伏見信子。
お姉さんの伏見直江という人が
大河内伝次郎の相手役として有名な女優さんだったらしいです。
お姉さんがビッグネームで
それに比べてどうしても影が薄い妹…… というような人であった由。
しきりに 伏見信子の盛り上がった髪の毛を強調します。
伏見信子の背中が……↓↓
長方形画面の対角線に平行……↓↓
後年の「東京物語」 東山千栄子の死の場面で
家族一同の背中の角度が見事に揃っている、あれの萌芽でしょうか。
ローポジションのカメラ位置とか
このすっきりした構図とか
背景を鯉のぼりで隠しちゃうとか
いろいろと自分なりのテクニックが出そろって来て
で、ようやく日本間で撮れるようになってきた。
(なにしろハリウッド映画からは 日本間の撮り方は一切学べないわけですから)
それがこの「出来ごころ」ではなかったか?
で、個人的には
「出来ごころ」の日本間撮影の白眉は
S60の 大日方伝と伏見信子のラブシーン(?)のような気がします。
ちと本題からはずれますが、
小津作品における「恋愛」というのは
ヒロインが男性の空間に闖入することで成立するような気がする。
男性の方からは動いていないわけです。
一番有名なのは「麦秋」(1951)の原節子でしょう。
S113 杉村春子の名ゼリフ 「紀子さん、パン食べない? アンパン」
あの押しかけ女房シーン……
(ただ、ヒッチコックもそのパターンが多くて
「裏窓」のグレース・ケリーも 「めまい」のキム・ノヴァクも
ジェームズ・スチュアートの部屋に闖入してきます)
もとい、伏見信子が大日方伝の部屋に闖入してきました。
S60 室内
富坊、元気よく出迎える。
春江、恥ずかしそうに洗濯物を抱えたまま
障子のかげに小さくなっている。
胸を、ときめかして……。
次郎、入って来たが、春江を見て、
「あれ⁉」と思わず見廻す。
春江、赤くなって会釈をし、洗濯物を示しつつ、
「あまり汚れてるんで……」
と言う。
「汚れている」というのは
フロイト的にいえば
春江の性的欲望を示していて、まあ、完璧なセリフでしょう……
個人的には↓↓
背景の三角定規が気になっております。
次郎さん(大日方伝) なぜ三角定規を使うのか?
たぶんここは 「凝りに凝った構図を見てくれ」
という小津安っさんのメッセージをみたいところ。
まあ、ついでにいえば
・次郎→二郎……安二郎
というのは考えておきたいところ。
小津安二郎はよく 小津安「次郎」と間違えて書かれることが多かったようです。
一番ひどいのは松竹の辞令で 「小津安次郎」などと書いてあるのがいくつかあるようです。
んー なんかわき道にそれて
本題を忘れてしまっていた。
ようはここで
主人公たち、上を見上げる……
→視線の先には巨大構造物(塔)……
という黄金パターン。
これが出現するわけです。
ここでは
大日方伝=「塔」ですね。
次郎、睨みつけながら、
「いやに親切だなあ」
彼女、笑いかける。
次郎、室内を見廻し、
「あんまり慣れ慣れしくして
貰いたくねえな」
春江、恨めしげに見る。
立っていた伏見信子を坐らせて
で、伏見信子は上を見上げる。
そして、大日方伝は立ったまま 伏見信子を見おろす。
この視線の交錯。
この視線の交錯を小津は開発したのではなかろうか??
以下、引用するのは1932年12月のインタビューらしいのですが、
インタビューしている和田山というのは 岸松雄の変名だそうです。
和田山 アメリカ映画などを見ていると、人間も生活も、すべて映画的に出来ているように思えますが――。
小津 確かにそうです。日本人の生活は、凡そ非映画的に出来ていて、例えば、一寸家へ入るにしても、格子を開け、玄関に腰かけ、靴の紐を解く、といったような具合で、どうしても、そこに停滞を来たす。だから、日本の映画は、そうした停滞しがちな生活を、映画的に変えて出すより他に仕方がないのです。もっともっと、日本の実際の生活は、映画的にならなくてはなりません。
(泰流社、田中眞澄編「小津安二郎全発言(1933~1945)」15ページより)
日本人の生活を撮りたいが、ハリウッド映画からはなにもテクニックを盗めない。
(もちろん洋間しかないから)
といって日本の先行する監督からは
日本間撮影のテクニックなど 学ぶべきものはなにもない。
そのいらだち。
すべてを自分で発明し、開発しなければならない。
その試行錯誤がこの発言にあらわれているような気がします。
以下、うまく説明できるとはおもえないのですが……
大日方伝&伏見信子が 両者同じ姿勢で対話をしたならば
この緊迫感は出せなかったでしょう。
両者、立った姿勢
両者、坐った姿勢
どちらも緊迫感に欠ける。
伏見信子は坐らなければならなかった。
そして大日方伝を見上げなければならなかった。
そして大日方伝は坐った伏見信子を見おろさなければならなかった。
小津の思考をかってに推理しますと……
「洋間」「日本間」の最大の違い。
「日本間」の特徴として――
・床面に坐ることができる。
このことを思いついたのではないでしょうか?
そして床面に坐った人物から 立った人物を見上げると……
お得意の「塔を見上げるショット」
これの応用ができるわけです。
われわれは「小津以降」なので
彼の苦心はわからないのですが……
両者 手をゴニョニョやってます。
小津作品では恋愛感情の表現。
ああ、そうそう、
ローポジションなので「天井」が写ってますね↓↓
松竹蒲田の城戸所長は、
セットに天井を作らなければならず
余計なコストがかかるので
小津のローポジションを嫌っていたそうです。
もちろん城戸は小津の才能は認めていたわけですが。
次郎と春江、向かい合う。
次郎、じっと彼女を見る。
春江、目を伏せる。
次郎、考えていたが、
「お前、まさか恩を仇で返す
ようなことはしめえな⁉」
彼女、ハッと見る。
「あたし、そんな女じゃないわ!」
「あの人が、親切にして下さるんで
あたし、小父さんのように
思ってるのよ」
そして「あたし……あたし……」
涙ぐんでしまう。
小津作品では 壁によく 傘だのほうきだのがぶらさがっていますが、
この……「縦方向の視線の交錯」に
やっぱり関係があるのでしょうか??
このシーン
大日方伝は立ちっぱなしで
ベルトのあたりをえんえんゴニョニョやっている。
性的な欲望を深読みしてもいいでしょう。
というか、そうみてくれ、というショットです……
伏見信子は伏見信子で……
立っている
坐る、見上げる
また立つ
坐る、見上げる
そして泣き伏す。
洋間では こんなショットはなかなか撮れませんな↓↓
理論的には撮れるけど、
こういうシチュエーションは考えられない。
日本間では撮れるわけです。
……と、
めちゃくちゃ濃かった日本間でのラブシーン(?)が終わりまして、
S62 ガスタンクの見える町
大日方伝+ガスタンク(塔)+タバコ
坂本武+煙突(塔)+煙管
どうも反りが
合はねえんでな
「反り」というのはなにか幾何学的な用語のチョイスです。
小津作品において 恋愛は空間論であり幾何学であるのでしょう。
また「麦秋」(1951)のはなしになりますが
S117
たみ 「ねえお前、紀子さん来てくれるって!
ねえ、うちへ来てくれるってさ!」
――と、あくまで 「来る」というはなしになるわけです。
まあ、英語のcome に性的な意味があるといっちゃそれまでですが。
ガスタンク+土管……
で、ガスタンク単独の 不気味なショット――
S63 おとめの店の前
ここで
伏見信子=「塔」
この公式が明らかになります。
しゃがみこんだ喜八さん(坂本武)
のれんの下から 春江(伏見信子)をのぞきこみます。
はい。
毎度おなじみ――
主人公たち、上を見上げる……
→視線の先には巨大構造物(塔)……
という黄金パターン。
つまり、「若き日」の若者たちのように
坂本武は手に入らない夢を見るわけです。
S65 床屋
床屋の主人は谷麗光。
床屋の入口の……なんというの?
塔状の物体。
坂本武はおめかししますが、
谷麗光の頭の櫛は、皮肉な結末の暗示でしょうか。
まあ、観客はみな、わかっていることですが。
次回に続きます。