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アサヒグラフ 昭和3年(1928)1月18日號 マリーア・フランチェスカ王女

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昭和3年1月1日號に 寫眞が大きく載っていた

イタリアの「マリア女王」……

 

この姫のその後の生涯がわからなかったのだが、

お父っつあんの ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世からググってみるとすぐにわかった。

 

本名は……

マリーア・フランチェスカ・アンナ・ロマーナ・ディ・サヴォイア

というやけに長いお名前。

パルマ公子ルイジとやらいう人と結婚して

86歳で亡くなったという。

 

それ以上のことはわからなかったが、長生きされたらしいので安心した。

なんとなく、この――大きな瞳で上目遣いというポートレートから

薄幸な生涯を想像してしまった(笑)

 

□□□□□□□□

さて、

アサヒグラフ 第十巻 第四號 昭和三年一月十八日

なのですが……

 

表紙は 秩父宮殿下の御妃に選ばれた 松平節子孃

 

ということで、皇室になにかおめでたいことがあるとグラフ誌が出版されるという――

そのはしりといっていいのかな。

 

ただ……はるか後世のわたくしにとっては

秩父宮殿下&松平節子孃の話題ばかりで 内容が薄い號だとおもってしまいました。

 

どういうわけだか マクマナスの「おやぢ教育」もこの號は掲載されていません。

樂しみにしてたのに……

 

この頃の廣告、かっこいいものが多いが

「ん?……」

と、首を傾げたくなるようなものもいくつかある。

 

毎號すてきなツァイスの廣告だが、今號のは、意味がわからん――↓↓

プンクタール鏡玉(レンズ)という眼鏡レンズなのだが

この不気味な繪(絵)を見て、欲しくなるヤツははたしているのか??

 

珍しく昭和天皇の寫眞。

この頃、秩父宮殿下は毎號のように登場するのだが、

 

さすがに畏れ多いのか、昭和天皇は數號に一囘くらいの登場です。

 

編集部としては 秩父宮殿下のお妃が決まった、というビッグニュースがすべてで……

海外ニュースもなんか小粒です。

 

「男のモガ」というタイトルの記事は、今の目からみると

はなはだ可哀想です。

 

アメリカ、ペンシルベニア州の ウォルター・マックコークスという少年が

女装をして男性數名にラブレターを送ったところ、密告により逮捕という……

 

そんなことで刑務所(少年院?)に入れられるとは……

 

「男のモガ」の上の寫眞はもうメチャクチャで……↓↓

 

勇ましき乙女

物數寄にも寄りけりで、とかげにさえ、びつくりする浦若い娘が、とかげどころか、その大先祖の鰐公と、大の仲良になつた、今年十六のエリノア・リンクさん相も不變、朝から晩まで、鰐の澤山ゐる池で遊んでゐます。(ロサンゼルスでの事)

 

と、水着の女の子が ワニを抱っこしている寫眞。

ようするに 男性は女性化し、女性は男性化しつつある、ということがいいたいのか??

 

これは「コドモグラフ」という子供向けのページの寫眞。

 

はなよめはなむこ

ジヨン君(右)と福子さん(左)

―釧路の齋藤繁枝さんから―

 

当たり前のことだが……昔の人もワンちゃん猫ちゃんを可愛がっていたのである。

黨時、あまり長生きはしなかっただろうとも思ったりするが。

そう考えるとなおさら愛おしく思える。

 

すこし前讀んだ、古川ロッパの日記にもワンちゃんが登場したが、

その子も數年で死んでしまった。

 

流行のコートの特集。

 

「ブレードランナー」のレイチェルのファッションは

この頃を参照しているのかな? とおもったりする。

 

ジョージ・ダブリュ・ヒュースという イギリスのペン先のメーカーの廣告。

「萬年筆」ではなくて

木軸の先にペン先をつけて、で、インク壺のインクにつけて使うタイプのペン……

 

萬年筆は軸の中にインクが入っているから インク補充の手間は少なくてすむが

これは、書くたびにインクに浸さないといけない。

 

今の目から見るとはなはだめんどくさい道具だが、天下のアサヒグラフに毎號のように廣告が出るから

かなり需要があったものなのだろう。

 

わたくしは 大學の建築學部の製圖の授業で

「烏口(からすぐち)」というこれに似た道具を使った覺えがある。

漫畫とか描く人はこういうペンを使うんじゃなかったっけ??

 

裏表紙は「クラブ白粉」の廣告。

 

なーんとなく、TBSの外山恵理さんに似ているような氣もする。

こないだ日曜日クルマの中で ラジオから外山さんの聲を聞いたせいだろうか??

 

 


鹿島神宮① 御手洗池/アサヒグラフ 昭和3年(1928)1月25日號 岡村文子孃

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最近 イヤなことばかり續くのはきつと

しばらく神社へお參りしていないせいではなからうか?

 

などとおもつて 鹿島神宮へお參りしました。

かなり久しぶりです。

 

あ。最近舊字(旧字)にはまっているのは

別に ヘンなスピリチュアル系のなにかとか 神道系の新興宗教とかにハマっているせいではなくて、

 

たんに毎日のように昭和3年のアサヒグラフを讀んでいるせいです。

ご安心ください。

 

御手洗池で しばらく寫眞を撮りました。

 

望遠レンズを使つて 藝術家氣取りの寫眞を撮りました。

 

アアテイスト氣取り、その二。

 

 

□□□□□□□□

もとい、 

アサヒグラフ 第十巻第五號 昭和三年一月二十五日

を、勝手にご紹介します。

 

閻魔大王の表紙ですが、なんか異人さんがイメージする「エキゾチック・ジャパン」という感じ。

「お前ら、こういうのが見たいんだろ?」

というあざとさを感じる。

表紙一番上のタイトルが英語ということからして、

まず外国人(歐米の人ね)に向けてのメッセージという意味が強かったのか、この雜誌は。

 

p2 美しい廣告。

廣告はとにかくおもしろい。

 

大正時代のアサヒグラフ復刻版をみると カルピスの廣告をよく見かけるのだが、

そういう類のものなのかなぁ??

甘酒みたいなものなのか?

 

「河合」「花白酒」で検索すると 20年代30年代の廣告が出てくるから

黨時は人氣商品だったのか?

 

ご存知の方、ご教授下さい。

 

p5

日本水泳普及會では、十五日午前十時から、第四回寒中水泳大會を大森海岸で催した。朝來雪粉々とふりしきる中を、勇しい少年少女が、美事なクロールをみせた。「ちつとも寒くはないよ」と若い人達は大元氣。

 

……1月15日。真冬。雪降る中、寒中水泳なんかやってる……

大森……というから東京湾でこういうイベントが可能だったわけだ。

 

かわいい女の子達。

しかし、ご存命の可能性もあるな。100……何歳くらいか。

水着はなんだかオシャレなデザインです。

鉢巻みたいなものをしているところをみると 今の「スイミングキャップ」みたいなものはなかったのだろう。

 

p8

兩脚に保險料 金二十五萬弗

 

美脚のダンサーの エリ―ナー・モーリスさんが

脚に$250,000の保險をかけたと。

マレーネ・ディートリッヒがどうこういう話は聞いたことがあるが、

マレーネ以前にもこういうことがあったのね。

 

というか、今もこういうモデルさんいるよね。

まあ、宣傳ですよね。

 

p9

米陸軍新造の爆撃機

 

のちのB-29(太平洋戰争) B-52(ベトナム戰争)とかいう化物を知ってる我々からすると、

なんとも可愛らしい複葉機です。

しかし、アサヒグラフ 米國の軍事情報はこまめに目を光らせております。

 

p14 漫畫(マンガ)のコーナー。

「女學生のスキー」という讀者のお題に

細木原靑起という先生が答えて曰く、

 

つき當つてもらひたいスキーマンが、圍(囲)繞してすべれない。

 

……というのだが、のちの小津の「若き日」(1929)そのまんまです。

とにかくスキーは流行っていたようです。

 

p22

世界中の時がわかる時計

 

……というのだが、

開發者のおっさんの表情が怖すぎて↓↓

時計には目がいかない。

 

サンフランシスコのフランク・フォンタナという時計屋さんである由。

シャッターを切ったタイミングが惡かったのだとおもうが、

ぎょろっとした目といい、ヒトラーみたいな髯といい

繪にかいたようなマッドサイエンティストである。

いや……演説中のヒトラーに酷似か?

 

p27 流行の髪

 

今號 個人的に一番氣になったのはこれ。

左側の少女、小櫻葉子さんは、のちに上原謙と結婚し

加山雄三の母となる……というあたりは まあ、置いといて……

(そういわれると加山雄三のおもかげがなんとなくある)

 

問題は眞ん中の……繪に描いたかのようなモダン・ガアル 

岡村文子さんで……↓↓

 

岡村文子といや、あなた、戰前の松竹作品では

眼鏡をかけたイジワルなおばさん役を演じるあの人に決まってるじゃないですか。

 

これは清水宏監督「信子」(1940)の岡村文子さん↓↓

 

高峰三枝子の若い教師(九洲出身)に 「九洲弁はいけません」などとイジワルをいう校長役。

たった10年かそこらで まあよく變わるものです。

まあ、メイクと髪型で どうにでもなるんでしょうかねえ。

 

これは驚きました。

 

p28 毎度毎度のカールツァイス。

今號は双眼鏡の廣告です。

 

前囘は何が言いたいのかわからない不氣味な廣告でしたが、

今囘はわかりやすい。

 

毎號毎號 「グラフ・テスト」という懸賞企畫がありまして……

有名人が質問を出し、正解した讀者が抽選で賞品をもらえるというもの。

 

今回の出題者は 澁澤榮一氏……

 

毎度おなじみ マクマナス「おやぢ教育」

主人公ジグスが奥さんのマギーにぶん殴られて病院へ、というシーンですが、

 

・黨時の救急車の樣子がわかりおもしろい。

・走行する自動車をポップに表現するやり方、興味深い。

(ちょっと生き物っぽく描いている氣がします)

 

戰後日本のマンガ・アニメーション文化の出發點はこのあたりにあるのでしょうか?

 

裏表紙。

日畜の廣告

……銀座一丁目の日畜の小賣部を紹介してます。

 

小津の「非常線の女」(1933)

水久保澄子が勤めるレコード店と比べてみるとおもしろいです。

あれはヴィクターのお店なのかな。

 

戦前(1928)の銀座を復元する。その1 銀座七丁目・八丁目(東側)

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……と、大げさなタイトルですが、

アサヒグラフ・昭和3年5月9日號に

昭和3年当時の銀座通りのパノラマ写真が載っていたので、

写真の中のそれぞれの店名を探ってみようという試みです。

 

本気でやるとすると、上京して中央区の図書館なり、なんなりに行ってみるべきだとおもいますが、

そこはイバラキ県民のトマス・ピンコ、重い腰をあげずに

手持ちの資料、およびネット情報だけでとりあえずやってみることにします。

 

ちなみに手持ちの資料は

・安藤更生著「銀座細見」(中公文庫)

→大正10年8月末日・大正14年5月11日・昭和5年12月20日の銀座通りの店名が掲載されている。

 

・赤岩州五編著、原田弘・井口悦男監修「銀座 歴史散歩地図 明治・大正・昭和」(草思社)

→大正11年・昭和5年・昭和12年等の銀座の地図が掲載されている。

 

・今和次郎・吉田謙吉編著「考現学採集(モデルノロヂオ)」(学陽書房)

→昭和6年の銀座通りの街並み・広告のスケッチが掲載されている。

 

以上3冊となります。

 

□□□□□□□□

では、新橋側からやってみます。

写真① 銀座八丁目(南金六町)

 

こんな感じです↓↓ 

 

撮影時、昭和3年の時点では 銀座は四丁目までしかなく、

このあたりが「銀座八丁目」という地名に変わったのは昭和5年のことらしいです。

なので、本来は当時の地名「南金六町」と呼ぶべきですが、

分かりづらいので 「銀座八丁目」と呼ぶことにします。

 

新橋側から番号をふっていきます↓↓

そして、それぞれの店名を以下に書いていくわけですが――

 

資料・写真からはっきりと店名が特定できるものもありますが、

いっぽう、さっぱり店名が判らない店も多数あります。

そこで……

 

〇……店名が確定しているもの。

……店名が確定できないが、ある程度推測できるもの。

×……店名が不明なもの。

この3パターンの記号を付けていくことにします。

 

1……×不明

 

しょっぱなから不明です。

今なら天國ビルがある、この場所。

天ぷらの天國がこの角地に移転してきたのは昭和5年のことらしいです。

天國のHPによると木造二階建て「御殿のようだ」といわれた豪華な店舗だったらしいです。

 

もとい、……この場所。

「銀座細見」によると 大正10年は「新橋ビヤホール」 大正14年は「洋酒食料品精養軒支店」となっております。

 

写真をよく見ますと 「高級レインコート」という文字がみえ、洋服屋さんかな? とおもったりするんですが、

横書きの文字は「大オクシヨン」? 大オークション?? とも読め、

そうなるとなんだか人だかりがしているのも納得ではあるんだが?

とにかくよくわかりません。

あるいは「大木クシヨン」……「大木クッション」だったりして(?)

しかしクッション屋という商売があるのか?

当時、自動車の座席のことも「クッション」といったようですが??……

きりがないのでやめます。

 

2……〇株式會社・電友社(電氣之友社)

 

これは確定。電機関係の会社か? とおもったのですが、

どうも出版社であるらしいです。

 

「銀座細見」では大正10年 大正14年 昭和5年にその名前が見えますので

移り変わりが激しい銀座にしては長生きな会社です。

 

「モデルノロヂオ」のスケッチから推測するに……

昭和5年の時点では 3~4階建てくらいのビルヂングに建て替わっていたような(?)感じです。

 

これは電友社だけの限らず、

銀座・そして東京全体の傾向ですが……

 

昭和3年では 関東大震災後の「バラック建築」が残っていたが、

昭和5年では きちんとした「本建築」に建て替え始めた。

ということが諸資料から言えるように思えます。

 

↓↓しかし……ごちゃごちゃと3段も「電友社」「電氣之友社」「電友社」と書き並べるくどいセンス(笑)……

 

3……△ストック商會

 

△ですが、ほぼ確定〇に近いと思います。

「銀座細見」の記述では 「電友社」のお隣は「ストック商会」

そして「モデルノロヂオ」の銀座通りのスケッチは ちょうど写真のこの形をしております↓↓

もちろん建物は同じでも中身は変わる、というパターンもよくありますけどね。

 

ストック商會は

婦人服屋さんであった由。

店構えも上品な印象です。

ちょうど店の前を通りかかったのは 学生服の男の子と和服の女の子のカップルでしょうか?

など色々想像できて楽しいです↓↓

 

4……〇株式會社 宇都宮回漕店

 

これは確定。写真からはっきり店名がわかります。

「回漕店」?

と現在の目でみると「??」となりますが。

当時の東京は運河があちこちに張り巡らされた「水の都」だったわけです。

 

そしてトラック運送はあまり発達してなかったでしょうから

まあ、今の運送会社みたいなものだったんでしょう、きっと。

 

□□□□□□□□

 

写真② 銀座八丁目(南金六町・出雲町)

2枚目の写真にうつります。

ここはごちゃごちゃ間口の狭い店が多いです。

 

先回りして言ってしまいますと

番号9の店が高名な「カフエ・プランタン」になります。

 

5……〇リグレー株式會社(チューインガム)

 

これも確定。

このリグレーはなんとチューインガム屋さんであった由。

(そういう商売が成り立ったのか!(笑))

前掲の「銀座 歴史散歩地図」p50に

「大正五年(一九一六)、日本へ最初にチュウインガムを輸入販売した会社である」

とあります。

 

6……△市川屋寫眞機店

 

いまいちよくわからない。

「銀座細見」によると大正14年、ここには「市川屋寫眞機店」があったようで、

写真をよくみてみると「市川屋」とも読めます。

が、「確定」とまでは言えない。

チューインガムのリグレーは息がながいですが、リグレーの左隣のこの場所はころころ店が変わっていて

昭和5年は十字堂という「額」屋さんがあったようです。

 

7……×不明 福永書店? 巴商会?

 

ごちゃごちゃした一画の中、この店だけ間口が広いですが、

写真からは店名が読み取れません。

アピールする気がないんだろうか(笑)

「銀座細見」によると 大正14年→福永書店 昭和5年→巴商会 とあります。

巴商会は「風呂」と書いてあるんだが、これまたよくわからない。

銭湯なのか? 風呂桶でも売っていたのか??

銭湯?……にしては煙突がないよね? この写真は……

とにかく不明です。

 

8……〇三倉商會 靴店

 

確定、でいいと思います。

写真では店名がはっきり読めないんですが、

看板にでっかく靴の絵が描いてありますので、これはどうみても靴屋さんです。

 

9……〇カフエプランタン

 

確定です。

このプランタンは 文学史の方面から、カフェ文化の方面から等々

色々と語られており わたくし如きが云々書いてもしょうがないので

興味ある方はそれぞれ調べてください。


ただ中公文庫「銀座細見」p71

「銀座でカフエと銘を打った店は、松山省三氏のカフエプランタンにはじまる」

これは引用しておきましょう。

 

今、この場所は「カフェーパウリスタ」があるそうです。

 

10……×不明

 

わかりません。

写真をみる限り「萬國」なんとかと書いてあるようですが、

わかりません。

「銀座細見」では昭和5年 トラヤ帽子店と書いてあるんですが、

トラヤ帽子店のHPをみると 銀座出店は同・昭和5年のことらしく

つまりは昭和3年は トラヤ帽子店ではない、ということになります。

 

11……〇佐藤煙草店

 

これははっきり「たばこ」と読めますので確定。

昭和5年には別の店に変わってます。

 

12……〇池田屋商店

 

はっきり読めますので確定。

「銀座細見」によると、洋傘・毛皮を扱っていたようです。

 

↓↓一見 ごちゃごちゃした一画なんですが、

カフエプランタンが中心にあって 輸入品(チューインガムだの靴だのタバコだの)を扱う店が多く、

あんがいオシャレな一画だったのかもしれないです。

 

13……〇東京製パン銀座賣店(1階)・有賀虎五郎撮影所(2階)

 

確定です。アールデコっぽいおしゃれな建物↓↓

1階パン屋、2階写真屋とは 今の感覚からすると「ん?」となりますが、

考えてみると

両方とも「西洋渡来」ということでは同じカテゴリーなわけです。

 

2階。ATELIER T.G. ARIGA.

 

T.G. とはなんぞや? と一瞬悩んだんですが、

「虎五郎」のことですね(笑)お茶目。

洋行帰りの写真屋さんでしょうか?

 

14……〇菱川レース店(1階) ×エビスビール??(2階)

 

1階の菱川レース店、これは読めますので確定。

問題は2階で……

「エビスビール」とでかでか書いてあるのは、これはただの看板なのか?

じっさいにビアホール的なものがあったのか?

「銀座細見」では 昭和5年

「菱川レース店」の隣りに「秀華」という中華料理屋があったように記載されていますが……

この2階がそうなのか?

それともとなりの建築現場が「秀華」になるのか??

 

15……〇空地・建築現場

 

これはどこからどうみても建築現場です。

 

□□□□□□□□

 

写真③ 銀座八丁目(出雲町)・銀座七丁目(竹川町)

3枚目の写真にうつります。

 

番号をつけたものがこちら↓↓

 

16……△出雲商店(活動写真機械)(1階) ×不明(2階)

 

黒々して不愛想な倉庫みたいな建物ですが、

「出」の文字ははっきり見えますので、おそらく1階は出雲商店なのでしょう。

ただ確定とはいいきれない感じ。

2階は文字が読めず、「銀座細見」等みてもなんだかわかりません。

 

17……〇川崎第百銀行支店

 

確定。いかにも「ザ・銀行」という石造クラシック建築。

「銀座細見」をみると 大正10年・大正14年・昭和5年と この角地は一貫して川崎銀行です。

 

注目したいのは……

八丁目と七丁目の間の道路の、なんというか「門」みたいなやつで

天勝一座

とあります。

字が細かくて、いまいちよく読み取れませんが……

新橋演舞場で天勝一座の公演があるっぽいです(推測)

 

天勝は……マジシャンの初代松旭斎天勝

まあ、元祖プリンセス天功みたいなひとですが……

明治・大正期のとんでもない大スター

美女の中の美女、というのが当時の評価。

この写真の頃――昭和初期も活動してましたが、芸能生活の晩年、といっていいのかな。

アサヒグラフにもけっこう登場します。

「まだまだ天勝は綺麗だ」とかいう調子の扱いだったとおもう。

 

Wikiの写真を転載させていただきますが……↓↓

むぅ、かわいいぜ、天勝たん……

 

明治・大正の美女って、今の目から見ると「ん?……」というパターンが

無きにしも非ず、なのだが、

天勝ちゃんは今の目から見てもかわいい。

世界中の男どもを悩殺したらしいです。お胸もけっこうありそうです。

 

もとい、

18……〇ゑり治商店

 

確定です。

「半襟」を扱っていたらしいです。

半襟って? と調べてみると 「ははん、あれか」と分かりますので

わからない方はググってください。

もちろん和装に詳しい貴女には説明の必要はないですよね。

 

しかし、銀座の一等地、角地にこういうお店があったんですね。

「銀座細見」には

「定評ある半ゑり帯側ゑり治」とあります。

 

19……〇文明堂

 

店名は読めますので確定ですが……

「銀座細見」に「新井文明堂玩具店」とあるのがわからない。

写真には「雑誌」と書いてありますのでね↓↓

 

商売替えしたのか? おもちゃも雑誌も売っていたのか?

 

20……〇三澤洋服店

 

写真からはまったく店名が判別できませんが、

「銀座細見」によると 大正10年・14年 昭和5年と

震災前から一貫してここは「三澤洋服店」であったことがわかります。

 

21……〇日本樂器株式會社東京支店

 

写真からはぼんやりとしか店名が読み取れないのですが、

「銀座細見」の記述から、日本楽器と確定できます。

 

よくわからないのは 震災前の呼び名が「共益商社」という名前で

やはり楽器やら蓄音器やら扱っていたようなのですが、

同じお店と考えていいのでしょうか?

 

いずれにせよ、二階で楽器制作、一階で販売とかしてたのか?

などと想像すると楽しいです↓↓

 

以上、今回はこんなところです。

いろいろ調べるのは楽しいですが、まあまあたいへんですね。

はたして一丁目までたどりつけるのか??

 

あ。そうそう

大変残念なのですが、アサヒグラフ。なぜか「東側」の写真しか掲載してません。

5月9日號の次號にも その次にも「西側」は登場しません。

あまり反響がなかったのかな??

こんなに楽しい企画なのに……

 

こうなると西側もみたいよなぁ……

Ecellスマホケース=最悪 ビバリースヌーピー花札=とても良い

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Ecell というUK製のスマホケースは最悪なので買わない方がいいです。

というクレーム記事。

 

みんな!

スヌーピーの柄のかわいさにダマされるな!

 

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もともと……

愛用のXperia1 Ⅱに、

McDull というメーカーの透明のケースをはめて使っていたのですが……

 

透明のケースは安っぽい・ダサいとT子さんに罵られ(笑)

いろいろ調べた結果、購入したのが、このEcellのスヌーピーケースなのです↓↓

 

到着直後の様子↓↓

 

ご覧の通り、かなり可愛らしいものなのですが……

届いた瞬間からなんかイマイチでした。

 

欠点①届くまで一週間超かかった。

欠点②McDull(某スターリン主義国家C国製)に比べてかなり薄っぺらい。頼りない。

欠点③塗装面がザラザラで、塗料のイヤな臭いがする。

 

3000円ちかく払って、かなりがっかりだったのですが、

しかし絵柄はスヌーピー様ですから、

限りなくかわいいので さっそく使い始めました。

 

が、使用後もがっかりは続きまして――

 

欠点④使用後3日で塗装がハゲてきた……

 

スマホを握る部分、よく触る部分からハゲてきました……

 

到着直後、

あまりに塗装面が頼りないので

クリアコーティングとか何かすべきなんじゃなかろうか?

と、思っていたんですが、

その危惧が現実のものとなりました。

 

ほとんど触らない レンズのあたりも 

塗装がなんかブヨブヨして今にも剥がれそうです↓↓

 

自分は、英国エッティンガーの革製品を愛用しておりますので……

UK……ユナイテッドキングダム製というので

ついつい信用してしまいました。

 

Ecellはとにかく酷いです。

 

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で、元の――アマゾンがやけに推してくるMcDull に戻したのですが、

これは某スターリン主義国家の製品ですが、悔しいかな、いいものです。

 

しかし、また「ダサい」「安っぽい」等々罵られるのは悲しいので

昔買ったきり、ほとんど開封していなかった

ビバリー社製 スヌーピー花札

をクリアケースの内側にはめてみたところ……

 

奇跡のように

Xperia1 Ⅱの横幅にぴったりとおさまりました↓↓

 

とりあえず(?)これで様子をみようとおもいます。

 

ついでに紹介しますと

こんな感じ。

 

スヌーピー兄弟勢ぞろい。

 

ちなみにリボンをつけた子(ベル)は スヌーピーの妹であって

彼女ではない↓↓

 

小野道風はこんな感じ。

 

さいごに……

 

そんなにスヌーピーのケースが欲しいのなら、

iPhoneにすればいいのに……

とおっしゃる方も多かろうが

 

①りんご社の製品はしゃらくさい感じがして好きになれない。

②というか、カールツァイス・ファンならばXperia使うしかないでしょう。

 

という理由で、わたくしにはXperiaしか選択肢にないのです。

 

 

戦前(1928)の銀座を復元する。その2 銀座六丁目・七丁目(東側)

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まず……

前回「その1」の記事の補足です。

銀座八丁目の……今、天國ビルのある場所にあった、この「なんとかオクション」↓↓に関しまして。

 

 プランタンの前にある靴屋のミクラはレディメイドの安い靴を売る店だ。サラリーマンには断然都合のいい店である。

 二軒置いた隣りの銀座オクションは震災後に出来たのだが、今では銀座の名物になってしまった。外国向きのいろいろな雑貨を糶って(せって)売るので、面白くもあり、都合のいい店である。

(安藤更生著、中公文庫「銀座細見」220ページより)

 

「オクション」はやはり「オークション」だったことがわかります。

また人だかりしている理由もわかりました。(サクラもいるんじゃないか? という気もするが)

ただ、「二軒置いた隣り」の意味はよくわからない。

プランタンの「二軒置いた隣り」にしても・・三倉靴店の「二軒置いた隣り」にしても・・・

このアサヒグラフの写真とは食い違います。

 

また……同「銀座細見」付録の、銀座通りの店名調査表に「銀座オクション」の名はないんですよね……

なんだかよくわかりません。

おそらく「銀座細見」の時代には、銀座通りからは移転していたのでしょう。おそらく。

 

□□□□□□□□

えー、

その2です。

昭和3年(1928)の銀座通り(東側)を見て行きます。

今回は大百貨店……松坂屋が登場しますのでようやく銀座らしくなってきます。

 

そもそも当時のアサヒグラフとしても……

松坂屋・三越・松屋の建ち並ぶ「東側」を

「銀座」のメイン……主役と考えてゐたんでしょう。

 

ちなみに銀座通り「西側」というとまず思いつく――服部時計店の時計塔(渡辺仁設計)が竣工したのは

昭和7年6月だそうですので、この当時はまだ存在しません。

 

もとい、

写真④ 銀座七丁目(竹川町)

 

番号をふっていきます。

 

22……〇信盛堂

確定です。洋品店、らしいです。

「銀座細見」によると大正10・14年 昭和5年 一貫してこの地に君臨しています。

 

「銀座 信盛堂」でググったところ

島根県の可部屋集成館という施設のHPに行き当たりまして、

その某お屋敷のかつての主人が 銀座信盛堂で購入した帽子、なんてものの画像が出てきます。

(いま見てもカッコイイ)

輸入物の服飾品を扱っていたようです。

 

あとで触れますが、「銀座細見」によれば・・・大衆向けの店で高級店ではなかった由。

 

23……〇シネマ銀座

草思社の「銀座 歴史散歩地図」p71によると

震災後にできた映画館。当初は松竹系の封切りを上映したが、

のちに外国の名画を上映し、活況を呈した。

とあります。

 

「銀座細見」は、この映画館の評価が低く

中公文庫p222

「銀座シネマ」は、バラック時代のはじめごろ出来たので、今は銀座第一の大アーチを正面に作って、

外観は甚だ目立つが内容は一向振わない。

とあります。

 

たぶん……数寄屋橋方面にちょっと歩けば

当時「邦楽座」という有名な映画館があったので、

それもあって評価が低いのかもしれないです。

インテリの安藤更生先生(銀座細見の著者)は、

ここに行くくらいなら邦楽座に行ったのかもしれないです。(勝手な推測)

 

信盛堂、シネマ銀座↓↓

どちらもアクが強い……

 

24……〇三幸大阪すし店

店名は写真から読み取れないのですが、

のれんに「大阪壽し」とありますので、これは確定でしょう。

 

「銀座細見」によればこの場所は移り変わりが激しく

大正10年→アンドリウスジョジコンパニー(機械商、とのこと)

大正14年→三幸大阪すし店

昭和5年→空地

 

「銀座細見」中公文庫の192-194ページにかけて 銀座の寿司屋さんについて書いてますが

その中に「三幸大阪すし店」の記述はありません。

これまた勝手な推測ですが……

・関東大震災でアンドリウスジョジコンバニーが撤退

・その空地に大阪から三幸大阪すし店が進出

・だが、たいして流行らず、早々に撤退

というストーリーが思い浮かびます。

 

25……〇聖公会新生館

写真から「新生館」と読めますので確定。

これは、お店じゃなくて教会だとおもいます。

 

「銀座細見」「銀座 歴史散歩地図」によると

震災以前は「新橋教会」という、この写真より大きな教会があったようです。

名前が変わったのはなぜだろうか??

 

26……〇森田洋品店

写真からは、なんとなく MORITA? かなぁ……

と判別が難しいのですが、

「銀座細見」「銀座 歴史散歩地図」から、

震災前、震災後、一貫して「森田洋品店」と記述がありますので、確定。

 

「22」信盛堂

「26」森田洋品店、に関して 「銀座細見」の記述を引用します。

 

 洋雑貨では本木、森田など第一流の店である。本木はネクタイに豊富で、派手好みの佐藤春夫氏など大いにこの店を推賞している。森田は英国風の上品な店である。赤塗りで有名な七丁目の信盛堂は大衆向な洋雑貨店である。売物の種類によっては極めて便利な、格好な店だ。

(同書220ページより)

 

辛口の安藤更生が言うのだから、上品な高級店だったのでしょう。

アクの強い信盛堂は「赤塗り」だったこともわかりました。

 

27……×松屋呉服店

ここは不明です。

「森田洋品店」と「松喜牛鳥料理店」の間のこのスペースは

「銀座細見」によると

大正10年→松屋呉服店

大正14年→松屋呉服店 

昭和5年→バー朱雀、太平楽(何の店かわからない)

――となっておりますので、

おそらく写真に写っているのは「松屋呉服店」なのだろう、とおもいますが、

決定的な決め手には欠けます。

 

今はこのあたりは 坂茂先生設計の ニコラス・G・ハイエックセンターですかね?

スウォッチグループのビルね。

 

お次。

写真⑤ 銀座七丁目(竹川町)・銀座六丁目(尾張町二丁目)

 

大きな間口の建物が3つ並んでおります。

 

28……〇松喜牛鳥料理店

写真から「牛鳥松喜」と読み取れますので確定。

震災前から営業している店のようです。

 

しかし――「牛鳥料理」という言い方は今はしませんな。

どうせなら「豚」もやればいいのに。

 

29……〇銀座ビヤホール

「銀座細見」によれば

大正10・14年、昭和5年・・・一貫してここは「銀座ビヤホール」です。

そして、現在は「ライオン銀座七丁目ビル」ですね。

今あるビルヂングは 昭和9年(1934)竣工とのこと。

日本最古のビアホールだそうです。

その前身がこのバラック建築です。

 

30……△東京貯蓄銀行

写真からはまったく手掛かりなし。わかりません。

あまりと言えばあまりにテキトーに作ったバラック建築です。

(関東大震災後ほんの数年しか経っていない、ということは頭に入れておきましょう)

 

しかし――

「銀座細見」によれば

大正10年→東京貯蓄銀行

大正14年→株式会社東京貯蓄銀行京橋支店

昭和5年→東京貯蓄支店

……というので、東京貯蓄銀行、というものなのでしょう。

が。あまりにも……銀行らしくないんだよな。

なんか西部劇に出て来る酒場みたいな建物です。

 

「モデルノロヂオ」から推測するに、この建物は昭和6年にはなくなっていたようです。

さすがにチープすぎるから建て替えたんでしょう。

 

 

次の写真にうつります。

写真⑥ 尾張町二丁目(銀座六丁目)

 

番号をふります。

「31」の建物。

「30」と同じ建物のような感じもするんですが、

「銀座細見」および「銀座 歴史散歩地図」の記述から別の店だろうと判断しました。

 

31……△サンデン電気

「30」と繋がっているような、西部劇風バラック建築。

写真からはまったく手掛かりがないですが、

 

大正10年→サンデン電気商会

大正14年→サンデン電気株式会社

昭和5年→サンデン電気

と、「銀座細見」に記述がありますので、サンデン電気なのでしょう。

(電機関係、でしょうねえ)

 

「モデルノロヂオ」によれば、やはり昭和6年には建て替えられています。

昭和3年時点では関東大震災の爪痕が残っていたが、

昭和6年には一掃されていたのかもしれません。少なくとも銀座通りに関しては。

 

32……〇警醒社書店

「銀座細見」によれば

大正10年→警醒社書店

大正14年→警醒社書店

昭和5年→書籍 紀伊国屋

となっており、昭和3年当時のことが分からないのですが――

 

草思社の「銀座 歴史散歩地図」を読むと

この「警醒社書店」→「紀伊国屋」のバトンタッチの経緯が書いてあります。

 

銀座通り六丁目東側、天賞堂の隣に「警醒社」がある。キリスト教関係の出版社で書店も営業していた。ある日、新宿紀伊國屋書店の田辺茂一に、ここに銀座支店を出さないかという話があった。申し入れを引き受けた田辺は、昭和五年(一九三〇)に書店を開業。階上を「B・G・C」(ボーイス・アンド・ガールズ・クラブ)というサロン(のちギャラリー)にしている。

(草思社、赤岩州五編著、原田弘、井口悦男監修「銀座 歴史散歩地図 明治・大正・昭和」70ページより)

 

……ということは、写真の建物は「警醒社書店」で確定でしょう。

 

33……〇天賞堂

銀座のお店のビッグネーム中のビッグネームでしょう。

写真からも TENSHODO HONTEN とはっきり読み取れます↓↓

間口も広い。建物も立派。

ショーウィンドウにどんなものが陳列されていたんでしょうか。

とても気になります。

 

34……〇森永キャンデーストア

 

ずいぶんおしゃれな雰囲気のファサードです。

まさかキャンディだけを売っていたわけではないでしょう(?)

二階で食事できたりしたのかな??

 

35……△宮沢家具店

 

このあたり……天賞堂と松坂屋に挟まれたエリアは、変化が激しいらしく、

「銀座細見」「銀座 歴史散歩地図」をみてもなにがなんだかよくわかりません。

ただ、写真から……「宮澤」と書いてあるようにおもえますので(確信はできない)

「銀座細見」の昭和5年12月20日調査に書いてある「宮沢家具店」なのでしょう。

 

ただ、この昭和5年の記録では

「本木(洋品)」「バーファースト」「宮沢(家具)」という並びになっているのが

この写真と食い違います。

この昭和3年のこの写真では「本木」と「宮沢」が隣り合っていて

「バーファースト」は入る余地はないわけです。

 

「モデルノロヂオ」をみると、このあたり一帯建て替えたことがわかりますが……

「モデルノロヂオ」の昭和6年の図は店名の記載がまったくないので・・・

これまた、なにがなんだかわかりません。

 

次。

写真⑦ 銀座六丁目(尾張町二丁目)

 

番号をふります。

壮麗な松坂屋の建築(39番)が他を圧倒しております。

 

36……〇本木支店

写真からはっきり「本木支店」と読めます。

あとの文字は推定ですが……「直輸入洋品雑貨」でしょうか。

「シャツ」のあとは何と書いてあるのか??

 

これが安藤更生が一流の洋品店という「本木」なのでしょう。

ネクタイが豊富とのこと。

本店はどこにあったのか?

 

「モデルノロヂオ」から判断するに昭和6年には新しい建物に建て替わってます。

 

37……〇かごや

38……〇村松時計店

「かごや」は、写真から店名がはっきり読めるので確定。ただ何の店か、わからず。

「村松時計店」は、「銀座細見」の大正10・14年、昭和5年の記述にありますので確定としました。

 

「本木」と「松坂屋」の間のこの二店舗。

「モデルノロヂオ」から判断するに、昭和6年の段階でもこの建物のままのようです。

 

39……〇松坂屋

 

「銀座 歴史散歩地図」の記述を引用しますと、

松坂屋 大正13年10月1日、二丁目に支店を開店。11月に尾張町二丁目に竣工した国光ビルを借り受け、12月1日松坂屋銀座支店を開店。送迎自動車や屋上に動物園を設ける。

(同書56ページより)

 

この動物園は……「銀座細見」によりますと、ライオンがいたようです。

 

↑↑なんとものどかな昭和3年の光景です。

ショーウィンドウに人だかりがしていますが、何をみているのかな??

(人だかり、と言ったって、十人かそこらしかいない……)

 

その3につづく。

戦前(1928)の銀座を復元する。その3 銀座四丁目・銀座五丁目(東側)

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あいかわらずの地味な記事。

……なので誰も気にはならないとおもいますが、

前回「その2」の記事の訂正をいたします。

 

銀座のデパートに関しまして。

 

そもそも当時のアサヒグラフとしても……

松坂屋・三越・松屋の建ち並ぶ「東側」を

「銀座」のメイン……主役と考えてゐたんでしょう。

 

――などと書いたのですが、今回の記事(その3)を書くにあたりまして、、

昭和3年(1928)当時

銀座三越は銀座四丁目の例の場所に存在していなかった。

ということがわかりました。

 

つまり、上の文章は、訂正の必要があり……――

 

そもそも当時のアサヒグラフとしても……

松坂屋・松屋の建ち並ぶ「東側」を

「銀座」のメイン……主役と考えてゐたんでしょう。

 

ということになります。これが正解です。

のちほど触れますが、われわれが見慣れている「あのポジション」に三越ができるのは

昭和5年(1930)のことらしいです。

 

□□□□□□□□

その3です。

写真⑧銀座五丁目(尾張町一丁目)

またまた建築現場……

震災復興の帝都であります。

 

番号をふります。

 

40……〇第一銀行支店

建築現場。なんですが・・

おなじみ「銀座細見」の記述によれば

大正10年→東海銀行

大正14年→株式会社東海銀行京橋支店

昭和5年→第一銀行支店

とあります。

 

写真をよくみると↓↓……

中央下あたり、人力車が二台停まっているそのうしろ

「第一」と書いてあります。

第一銀行支店で確定でしょう。

 

41……〇中屋シャツ店

写真からは店名が判断できませんが、

「銀座細見」によると

大正10年→中屋シャツ店

大正14年→中屋シャツ店

昭和5年→中屋シャツ

ということですので、中屋シャツで確定。

 

ワイシャツ専門店、ということですかね(?)

 

42……〇白牡丹本店建築場

「銀座細見」によれば、ここも中屋シャツ同様、

大正10、14年、昭和5年と 白牡丹の場所です。

で、白牡丹とはなんぞや? ということになりますが……

 

次第に尾張町に近づく。このあたりから二丁目にかけてが最も雑沓、喧噪。第一銀行のつぎに白牡丹、昔は女の化粧道具一切はこゝでなければいけなかつたもの。

(ちくま学芸文庫、今和次郎編纂「新版大東京案内 上」197ページより)

 

名鉄ニューメルサの向いに、徳川11代将軍家斉の時代(18世紀後期から19世紀前期)から小間物商を営む「白牡丹」が店を構えていた。

(学芸出版社、岡本哲志著「銀座を歩く 江戸とモダンの歴史体験」66ページより)

 

和装小物の店で、2000年代まで存在していたらしいです。

 

43……〇水沢漆器店

44……〇全勝堂野島時計店

45……〇フタバ商店外国美術雑貨店

 

以上、3軒。写真からはまったく手掛かりがつかめないですが、

「銀座細見」から確定と判断しました。

 

また45番のフタバですが、

フタバ商店は、銀座で一番凝った洋雑貨を売る店、その代りここはストックが少ないから、ショーウィンドで見つけ次第買わないとすぐなくなってしまう。余り人の知らないことだが、ここの息子さん林二郎君は木工品の名手で、椅子や小函などをよく作る。

(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」220ページより)

とのことです。

フタバ商店、行ってみたい……

「銀座 フタバ」で検索すると 「フタバ画廊」なるものが出てくるのだが、

これは関係があるのか?(場所は違うし、もう閉鎖してしまったらしいが)

 

次の写真。

写真⑨銀座五丁目(尾張町一丁目)

 

番号をふります。

小さな店がぞろぞろ並んでおります。

 

この界隈は建物のファサードに

店名をはっきりと書いてくれているので、大変に助かります。

46から55まで すべてはっきり読み取れます。

 

46……〇三河屋家具雑貨店

47……〇関口洋品店

(「銀座細見」によると、貴婦人子供用品専売、とある)

☆☆貴婦人って!!(笑)

でもこじんまり素敵なファサードの店です。

 

48……〇増見屋

(「銀座細見」によると、呉服店とのこと)

49……〇大勝堂

「銀座細見」によると、「時計宝石貴金属商」

「新版大東京案内」に……

 

日本一を誇る貴金属の天賞堂と村松それから大勝堂。

(ちくま学芸文庫、今和次郎編纂「新版大東京案内 上」196ページより)

 

と、天賞堂と並んで紹介されていますから、名のある老舗だったのでしょう。

 

50……〇ヲリヤマ

(「銀座細見」によると、鞄屋さん)

51……〇藤屋

(「銀座細見」によると、モスリンと書いてある)

 

52……〇十一屋

写真を見る限り、和風の、なんか冴えない雰囲気なんですが、

扱っている商品はオシャレだったらしい。

震災の影響で、この冴えない建物なのか? ともおもったのだが

「銀座 歴史散歩地図」所収の 大正11年の絵をみるかぎり、

震災前もこんな感じの店舗だったようだ。

だが、しかし、

以下書きますように 当時、

「カトラリー=十一屋」

というようなすごい店だった由。

 

まず「銀座細見」

 

食器は五丁目の十一屋だ。山の手の文化生活屋に喜ばれそうなものなら何でもある。清爽な感じのいい店である。

(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」220ページより)

 

そして――戰前アサヒグラフにも――

 

昭和2年6月15日號 2ページ。表紙を開いてすぐ、という最高の場所に広告を出しております。

正確な日付は忘れましたが 昭和3年の初夏にもやっぱり同じ場所に広告を出していました。

年1回。初夏に広告を出すっぽいです。

食器業界のことは詳しくわかりませんが、

冷たいものが欲しくなる季節にむけて、ということなんでしょうかね。

 

現在は存在しないようです。十一屋商店。

「銀座 十一屋」で検索すると

銀座一丁目の 「十一屋ビル」というのが出てきます。

関係があるのか?

 

また――「十一屋 食器」で検索すると、

「燕物産」という会社のHPに行き当たりまして、

銀座の十字屋に関しては、ネット上ではこれが一番詳しい解説かもしれません。

 

日本の産業に金属洋食器を誕生させた銀座十一屋商店!

カトラリーの歴史を語る上で欠かせないのが、東京銀座にあった「十一屋商店」です。

 

等々、書いてあり、

宮内省御用達だったこと、帝国ホテルはじめ、当時の高級レストランに

商品を納入していたことがわかります。当時のカトラリーの画像も多数載ってます。

とにかくすごい店だったらしいです。

 

53……〇早川亭

「銀座細見」によると「牛鳥料理店」とのこと。

銀座七丁目に 松喜牛鳥料理店というのがありましたが

(わたくしの記事の番号だと28番になります)

当時はこういう言い方をしたんでしょう。

 

これは震災後できた店のようです。

 

54……〇高級玩具 ハッピイトイス

ハイカラな店名。

ファサードに「内外」「高級玩具」と書いてあり、

男の子と女の子の絵が描いてあります。

 

「銀座細見」によると、昭和5年この場所に店を構えているのは

なんと「ハッピーシガー」です(笑)

おもちゃ屋が煙草屋になってしまった……

お子さま向けがアダルト向けに……

 

55……〇美濃常

「銀座細見」をみても何の店だかわからず

「新版大東京案内」には店名の記載がなく、困ったのですが、

 

「銀座 歴史散歩地図」所収の大正11年の地図に「洋品雑貨」とありました。

つまり、震災前からの店です。

 

さて、いよいよ銀座の中心にやってまいりました。

尾張町交叉点です。

写真⑩ 銀座四丁目・銀座五丁目(尾張町一丁目)

 

番号をつけます。

さすがに当時もにぎやかだったんでしょう。

自動車はたった2台ですが。あと電車(市電)も見えるな。

奥にちらっとみえるのは歌舞伎座でしょうか?

 

56……〇カフェライオン

 

まず「新版大東京案内」をみますと、

……カフエ・ライオン、銀座のカフエに動物園的名称を流行させた総本山だが、当時東京一の大カフエだつた堂々たる昔日の面影はなく、階下は精養軒その他の売場となつてパンや牛肉や佃煮などが場末の公設市場のやうに雑然と並び、中に一寸一ぱいのおでん屋やビールスタンドが出来たのも人目を驚かす。尤も区劃整理後の尾張町交叉点は、いたづらに街幅ばかりがだたつ広くて、田舎町らしい趣さへ漂はせてゐるのだから、似合ひの景物だとも言へる。

(ちくま学芸文庫、今和次郎編纂「新版大東京案内」197-198ページより)

 

つづいて「銀座細見」

ライオンはその後ますます頽勢に赴いて、区画整理後は二階だけになってしまい、階下は精養軒の洋菓子だの森永のキャンデー、みずじの寿司などに店貸しをして、博覧会の売店のような観を呈して、ライオン閉店の悲観説をさえ称えられるようになった。実際当時精養軒の内部では西店すなわちもとの新橋カフエの後に大カフエを作って、尾張町の方はやめてしまおうというような噂もあったらしいが、それも止めになったと見えて、間もなく改築成り、下の売店連中を追い出して、断然昭和カフエ戦線に旧来の威容を示すことになった。

(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」82-83ページより)

 

この写真の↓↓…‥‥昭和3年頃というのは、「大東京案内」の頃の1階が売店みたいになっちゃってる頃なのかな?

「銀座細見」によると、その後本業をがんばりはじめたようですが……

 

昭和7年を描写している 広瀬正「マイナス・ゼロ」によると

この場所は「エビスビヤホール」と書かれています。

「マイナス・ゼロ」はタイムマシンもので、リアルタイムの描写ではないわけですが、

作者は大正13年生まれの京橋の人なので、描写は正確かとおもいます。

 

57……〇山崎高等洋服店

これが、例の銀座三越の場所。

けっこう立派な建物なので はじめは

「昭和3年当時の三越はこんななんだろう」

と思い込んでしまったのですが、

写真をよくみると

山崎、と書いてある……三越じゃない……

 

昭和3年当時の尾張町交叉点の様子。

アサヒグラフ昭和3年9月12日號にわかりやすいマンガが出てますので載せます。

はなしは逸れますが、この年の夏は冷夏だったらしいです。

 

カフエライオン

竹葉

山崎

……と店名があります。今も変わらないのは「竹葉」だけ。

もちろん、小津安二郎と水久保澄子がお食事をした、あの「竹葉」です。

 

あと、信号は手動式なのだな↓↓

(中央部分、丸い交通標識みたいなものがそれです。廻転して「進」「止」が入れ替わる仕組み)

とか、いろいろなことがわかるイラストです。

女性のファッションも、デフォルメされていますが、よくわかります。

 

58……×不明

ここは店名書いておらず、わかりません。

「銀座細見」からも判断ができません。

このあたりは近々、「山崎高等洋服店」ともども「銀座三越」になってしまうのでしょう。

もう取り壊しが決まっているのかな?

 

写真をよくみると――店名は書いていないのですが、

「在品全部大投売」

とやけっぱちなことが書いてあります。

銀座のまん真ん中のくせにアメ横みたいです。

 

写真⑪銀座四丁目

 

番号を振ります。

ここもまた「震災復興」の雰囲気。

 

59……〇木村屋総本店

これまたビッグネーム。あんパンの木村屋。

――というと、服部時計店(和光)の隣、西側じゃね? とおもうのですが、

「銀座細見」によりますと、

大正10・14年→銀座四丁目・東側

昭和5年→銀座四丁目・西側(服部建築場の隣)

となってまして、

昭和3年当時は写真でご覧の通り、「東側」にあった模様。

 

60……〇神谷ネル店

写真からはっきり店名が読み取れます。

「銀座細見」から判断するに

昭和5年時点では、この一帯はすべて「銀座三越」になってしまって

神谷ネル店は「64」番の場所に移転するようです。

 

61‥…×フヂヤ洋品店?

写真から店名判別できず。

「銀座細見」の大正14年の記述から「フヂヤ洋品店」か?

ともおもいますが、移り変わりが激しい銀座ですので

なんとも言えません。

 

62……〇松村金銀店

写真から店名がわかります。震災前からの老舗。

「銀座細見」によると 昭和5年は「銀座三越」のお隣のポジションになりますので

わたくしのつけた番号の「57」から「61」まで銀座三越になってしまうということか??

 

63……〇近藤書店

これまた写真からはっきり読み取れます。

「銀座細見」から引用しますと

 

本屋は四丁目の近藤春祥堂と、七丁目の紀伊国屋の二軒だ。エスキーモのところには以前新橋堂という本屋があったが、地震後なくなってしまった。

(同書219ページより)

 

64……×中央堂時計店

不明。「銀座細見」によるとこの場所は……

大正14年→中央堂時計店

昭和5年→神谷ネル店

で、将来的には「60」番の神谷ネル店が移転してくるわけですが、

昭和3年当時のことはわかりません。

 

65……〇佐野正宝飾店

66……〇やぶそば

どちらも写真から店名が確定できます。

やぶそばに関しては……

 

銀座には第一流に属する蕎麦屋はない。四丁目にあった藪はちょっと喰わせたが、今は廃業してしまった。

(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」199ページより)

 

ということで、昭和5年には「宝来パン」というパン屋さんがあったようです。

 

その4につづく。

吉田篤弘「チョコレート・ガール探偵譚」感想/松竹座ニュース1932年8月19日

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吉田篤弘という人の書いた「チョコレート・ガール探偵譚」という小説の感想を

これからグジグジと書いていくわけですが、

最初に一言で感想を言ってしまいますと、

 

・これは、ナルシスティックな好事家(ディレッタント)による、自分語りの書物である。

ということになりそうです。

 

で、「自分語り」とは何なのか? というと、

・「チョコレート・ガール」なる可愛い名前のサイレント映画の謎を追い求めるオレ……

かっこよくね?

ということになりそうです。

 

んだが、物価高の今どき1800円+消費税支払って

結論「かっこよくね?」

ではねえ。

かっこいいわけねえよ。

 

吉田篤弘ファンのあなたには申し訳ないですが、

1920・30年代大好き・水久保澄子大好き、ミミちゃん・ファンのわたくしは

ようするにそういう本だと思いましたよ。

 

□□□□□□□□

えー

↓左側のおしゃれな書物が 平凡社・吉田篤弘著「チョコレート・ガール探偵譚」

この人は本の装丁もやっているらしいので、

中身も外側も吉田さんのデザインなのだろう。

(クラフト・エヴィング商會名義になるのかな。

個人的には ちくま文庫の稲垣足穂コレクションの装丁でその名前を知った。

ただ、その人が小説も書く人だとは知らなかった)

 

↓右側は、タイトルに書いたが 松竹座ニュースという

名古屋の映画館が発行していたパンフレットです。

90年前のものです。

このパンフレットが何なのかもおいおい説明します。

 

色合いが似ているのは偶然なのか?……

 

感想① プロの少女(??)……

 

はじめはおもしろく読んでいたのです。「チョコレート・ガール探偵譚」

なにしろ、表紙をめくってはじめに現われるのは――……

 

このおしゃれなポートレートなわけですから

期待は高まります。

古本ではなくて、新刊本を……

1800円+消費税払った甲斐はあったのです。

 

ですが、メッキがはがれた……

というか、「なんでこんなシロモノに1800円+消費税払ってしまったのか」(しつこい)と愕然としてしまったのは……

この一節です。

そして文章中の「プロの少女」という言葉です……

 

 或は、又、處女らしい感情をあらはであるがサツパリと見せてくれたのは、貧しき母に對する皮肉的な反抗の場合である。そこにはみぢんもてらはないプロの少女の氣持がくつきりと現はれてゐる。

(トマス注:1932年発行の「映画評論」所収の「チョコレート・ガール」の批評)

 

――「プロの少女」という云い方が面白い。これは「少女」という属性を活かしてキャンデーストアの売り子をつとめていることを指しているのか、それとも、筋金入りの「本物の」という意見合いでそう云っているのか。もし、後者であるなら、きわめてモダンな表現だ。

(平凡社、吉田篤弘著「チョコレート・ガール探偵譚」83ページより)

 

補足しますと、スターバックスの店内で 昭和7年(1932)の雜誌を読みふけるという……

これまた「かっこよくね?」シーンなのですが……

このかっこいい吉田先生……なんと、

 

×「プロ」を「プロフェッショナル」の略であると勘違い(笑)

しているのです。

これにはたまげました。

この当時の文章で「プロ」と出てくればそれは

〇「プロレタリアート」(労働者)の略(常識)

だからです。

つまり、「映画評論」の文章は 単に「プロレタリアートの少女」といっているだけのはなしで

奇をてらっているわけでもなんでもないのですが、

その何でもない文章を、かっこいい吉田先生は

「プロフェッショナルの少女」(笑)

なるほど、これは面白い云い方である。

きわめてモダンな表現だ(笑)

などと書いているわけです。

 

いやしかし、作者及び登場人物が、わざと間違える。

わざとバカなふりをする、というテクニックはあります。

そのほうが「物語」の展開がおもしろくなるし、わかりやすくなるからです。

こないだTBSラジオの「アフターシックスジャンクション」を聴いてたら、

「ちょっと難解な話題を専門家に訊く時、リスナーに分かりやすくするため

バカのふりをして基本的な情報をたずねる」ことがあると、

宇多丸さんだったか忘れましたが、そんなことをいってました。

 

この場合も、スタバで探偵気取りのかっこいい吉田先生ですから、あとになって

「ははん、プロはプロレタリアートの意味であるか」「ほっほっほ。思い違いをしていたことよ」

と分かるようにする、そういう若い読者向けのサービスなのだろうと思い直しますと――

3ページ後……

 

 その少女に、二人の愛する人が出來た。一人はブルジョアの息子であり、一方は貧しき勞働者である。とすれば、この少女ならずとも、自然とその愛の心はブルジョアの息子の方へ向くだらう。もし、その反對に向くとすれば、その少女は非常に苦勞した者か(戀愛上)、非常な悧巧者か、馬鹿か、ひねくれ者に違ひない。如何に左翼鬪女士だつてこの道はレニーン主義とは凡そ別なものであらう。

(トマス注:これまた「映画評論」の1932年の批評)

(同書85ページより)

 

こんな文章が……はっきりと「ブルジョア」と出てきますので

さすがの吉田先生も「プロ=プロレタリアート」と分るだろう‼ とおもったのですが、

…………………………………

………………‥………

まったくその形跡はありません。

かっこいい吉田先生は「プロ=プロフェッショナル」と勘違いしたまま。

きわめてモダンな表現だ。

などと偉そうに、上から目線で言い切ったままに終わるのです。

 

□□□□□□□□

感想②「君と別れて」の不在。

 

えー「プロの少女」=「プロフェッショナルの少女」という勘違い。

吉田篤弘は小説家であって、

映画研究の専門家、昭和史の専門家ではないから、許される、という見方は当然あります。

 

やあやあ、トマス君。

たかだか「小説」に対して、そんなアカデミックな正確性を求められても?

という意見もありえましょう。

 

でもねえ、「チョコレート・ガール探偵譚」ですよ。

「探偵」といっちゃってるわけです。

「探偵」と言い切っているからには、シャーロックホームズなり金田一耕助なり、誰でもいいですが、

人並外れた幅広い知識、そして人並外れた直観力

これが必要なわけです。

それが……ねえ、あーた、プロ=プロレタリアートと分からないんですよ。

すぐあとの文章に「ブルジョア」と出てくるにもかかわらず。

はっきりいや、頭悪いんです、この人。

 

「チョコレート・ガールずっこけ譚」なら、わかります。

勘違いして、いいでしょう。

しかし「探偵譚」なら許されない(ですよね?)

というか実際僕は、この一節以降、この作者の書いていることにまったく信用がおけなくなりました。

 

なので、1800円+消費税を払ってしまった手前、

いろいろ言いたい悪口はあるんですが、

ここは一つだけ書きましょう。

「チョコレート・ガール」(成瀬巳喜男監督)と姉妹のような作品

「君と別れて」(これも成瀬作品)がなぜまったく分析されないのか?

という問題です。

 

「チョコレート・ガール探偵譚」

成瀬巳喜男の「チョコレート・ガール」が明治製菓とのタイアップであることが何度も何度も書かれますが、

 

同じ成瀬巳喜男作品で、

なおかつ 同じ水久保澄子主演作品の「君と別れて」

この現存している作品が、この書物で言及されるのは

トマス調べではたった一か所だけ。

 

(トマス注:以下 フィルムアート社「映畫読本 成瀬巳喜男 透きとおるメロドラマの波光よ」の引用)

 人気急上昇、片岡千恵蔵やマキノ正博までファンになった水久保澄子主演の青春映画。「国民新聞」懸賞映画小説当選作を作者自身が脚色。実は明治製菓とのタイ・アップ、とは感じさせない、抒情流れる佳作となった。蒲田駅前に明治製菓の喫茶店があり、成瀬も常連で、観察行届き、〈成瀬巳喜男の正統派的映画手法は、幾分定石的とも思われる程の、スマートさに貫かれている〉(和田山滋)。翌年の『君と別れて』の先駆的作品となる。

(同書41-42ページより)

 

「君と別れて」……

他にも言及されるところがあるかもしれないが、まあ、一切分析されないのははっきりしています。

かわりに詳しく分析されるのは 我らが小津安二郎の「非常線の女」ですから、

(153ページから163ページまで 10ページたっぷり「非常線の女」の話題)

小津ファンのわたくしは正直うれしいといや、うれしいのですが、

 

分析するのが「プロの少女」の吉田先生であってみれば、

まあ、たいした感想は出てこないだろう、と――おもったとおりの結果です。

 

かわりに、ちょっとだけわたくしが「君と別れて」をみてみますと・・・

(ついでに言っておくと、「チョコレート・ガール」は現存しない、とされている。

地球上のどこかにプリントがあるかもしれないが、今のところ発見されていない)

 

 

水久保澄子&おなじみ磯野秋雄君とのおデートシーンに……

(おデートなどという呑気なものではないことが、おいおい判明するのだが)

 

ずかっと、スクリーン一杯

明治チョコレートが出現するんですよね。

 

これは……

このクロースアップショットは……

「チョコレート・ガール探偵譚」と名乗っている以上、

書かないといけないんじゃないですかね??

 

ついでに書くと「君と別れて」

映画としての出来は、はっきりいうと「非常線の女」に劣りますが、

 

こんな↓↓

水久保澄子が歯を見せて笑うショットなどあったりして……

彼女の魅力を理解したいのならば 斷然 現存している「君と別れて」を見るべきだと思います。

 

ついでに書くと……

「玄関番とお孃さん」のほうが扱いが大きいんですよね。

186-187ページに取り上げられています。

ここらへんも「あれ??」というところです。

 

いや、かわいいんですけどね。この作品。

 

□□□□□□□□

感想③ 結論、めいたもの。

 

はっきり書くと、

この吉田篤弘先生、自分以外のものに興味がないのでしょう。

 

われわれが読書なり映画なり、あるいは旅行なりで体験する悦びというのは、

哲学用語でいう「他者」

ジャック・ラカン用語でいう「現実界」

との出会いだとおもうのですが――

 

つまりは、意味不明・理解不能な事象との遭遇、がおもしろいわけなんですが、

「チョコレート・ガール探偵譚」にはそれがまったくありません。ゼロです。

 

具体的に言うと、水久保澄子その人がまったく浮かび上がってこないんですよね。

えんえん水久保澄子に関して書かれているにも関わらず、人間・水久保澄子がまったくみえない。

なぜなら 吉田篤弘が見せたいものは

「チョコレート・ガール」=水久保澄子を追い求める、おしゃれなオレ様

でしかないからです。

 

その点すさまじいのは「全日記 小津安二郎」で……

これは「日記」ですから、公開なんか考えていませんけど、

 

一九三三年九月二十日(水)

 昨夜 さむざむとした藁ぶとんの寝台で夢をみた

 服部の大時計の見える銀座の二階で

 僕がビールをのんで

 グリーンのアフタヌンの下であの子はすんなりと脚を重ねてゐた夢だ

(フィルムアート社、田中眞澄編纂「全日記 小津安二郎」50ページより)

 

一九三三年十一月十日(金)

 ペッカリーの手套はぜいたくだ

 所で僕は持つてゐる

 〈おつちやんはおしやれさんね〉

 と云ふ子がゐる

 してみれば僕は案外洒落者であるかも知れぬ。

(同書54ページより)

 

「おっちゃん(小津のあだ名)はおしゃれさんね」

と、そういったのは誰だか明記されていないが、

この頃の小津の日記の中心人物はグリーンのドレスの「あの子」――水久保澄子だから

水久保澄子の言ったことだろう、という推測は、まあ間違っていないようにおもいます。

 

で、ペッカリーの手袋、というと最高級品で、

そんじょそこらにいる豚さんではないわけだから、とんでもなく高かったことでしょう。

つまりはここに……

 

「プロの少女」水久保澄子の、

「ブルジョア」家庭の呑気な次男坊、小津安二郎への若干冷ややかなメッセージを読み取るのは不可能ではない。

そして結ばれるはずがない二人の間柄をも。

 

小津安二郎はたった一行で 「おつちやんはおしやれさんね」、それだけで、

不気味で理解不能な「他者」を描いてしまっているわけです。

小津にとっての水久保澄子とはたぶん、こういう人なのです。

 

吉田篤弘が、意識的にか無意識的にか、避けてしまったのは、

こういう強烈な一言・コトバ

なのだろうとおもいます。

 

そして「プロの少女」水久保澄子のメッセージは、

時空を超えて「チョコレート・ガール探偵譚」を批評しているようにも冷ややかに響くのです。

「あなたはおしゃれさんね」と。

 

□□□□□□□□

 

さて、タイトルの松竹座ニュース1932年8月19日號なんですが、こんなです。

 

たまらなくオシャレなのですが

名古屋の松竹座という映画館のだしていたパンフレットです。

 

発行日付がよくわからんのですが、

(表紙の数字 10.37 の意味がわからん)

 

購入した古本屋さんの情報

1932年8月19日という日付をそのまま信用することにします。

 

裏表紙は「クラブ白粉」の廣告。

モデルさんは川崎弘子……だよね?

川崎弘子の洋服姿をはじめてみたもので……

けっこう似合ってる。

 

中に「チョコレート・ガール」の宣傳がはいってます↓↓

 

「チョコレート・ガール探偵譚」は

やっぱり松竹座のパンフレットの 「チョコレート・ガール」の宣伝を目にしたところからはじまりますので

 

「ははん、バカにしたくせに、なんのかの影響受けてやんの」

とおもわれる方もおられるかもしれないですが、

 

すみません。こっちのパンフレットを手に入れる方が先でした。

 

少し前、当ブログにいただいたコメントで 「チョコレート・ガール」への言及があったので

それで調べものをする過程で手に入ったパンフレットです。

 

「チョコレートガール探偵譚」はそのあとで買いました。

1800円+消費税(あくまで強調)

 

パンフレットはそれよりちと高かった。

 

吉田先生のパンフレットは 9月22日発行らしく、スチールは入っていなかったらしい。

僕のは 古本屋の記述を信じると、約1カ月前のものでスチールが入ってます。

 

ミミちゃんは、粗い印刷でも、なんというか「映え」ますね。

戦前(1928)の銀座を復元する。その4 銀座二丁目・銀座三丁目・銀座四丁目(東側)

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その4です。

アサヒグラフ・昭和3年5月9日號掲載のパノラマ写真を

手持ちの資料で解読しようとしています。

(図書館へ行ったりするのはめんどくさいので(笑))

 

写真で見る限り、今回取り上げる界隈――三丁目・松屋付近――が、

昭和3年当時もっとも賑わっていたような印象です。

 

写真⑫銀座四丁目・銀座三丁目

 

番号をふります。

 

67……〇田屋

しょっぱなからビッグネーム。TAYA と写真から読み取れます。

たとえ読み取れなかったとしても、「銀座細見」によれば――

 

大正10年→田屋洋品店

大正14年→洋品舗田屋支店

昭和5年→田屋

と、震災前からこの地に君臨していたことがわかります。

というか、今の店も同じ場所?

 

個人的には、小津安二郎との関わりが興味深いところ。

 

この頃(トマス注:昭和12年(1937))、中西文吾との交友がある。荒田正男の紹介であった。新宿に仏蘭西屋という舶来ゼイタク服飾品を出しているハイカラな地主の息子で、スポーツマンでプレイボーイでインテリで、小津の遊び友達になる資格があった。後の銀座の田屋の店主である。

ゴルフ・赤坂・十二社などの遊びに誘われた。

(蛮友社「小津安二郎 ―人と仕事―」501ページより)

赤坂・十二社(じゅうにそう、と入力しても変換できない。新宿の地名なのに)

というから、藝者さんでしょう。

小田原の芸者さんが恋人だというのに、ヒドイ人だ。

 

……しかし、「後の銀座の田屋の店主である」というから、

中西さんはあとあと田屋のオーナーになったということなのかな。

安藤更生の「銀座細見」をみても 今和次郎の「新版大東京案内」をみても、

「田屋」という名前は出てこないので……昭和四年、五年の頃は

注目すべき店ではなかったのかもしれない。

中西文吾がオーナーになって流行り出したのかな??

たぶんネット情報でなにか分かりそうな気もしますが、今は調べないでおきます。

 

68……×不明(ゑり久? 丸見屋?)

69……×不明(長栄堂時計店? ゑり久?)

 

ふたつとも、よくわかりません。

「銀座細見」の記述が間違っているのか?

どちらかは「ゑり久」なのか?

 

70……〇金太郎玩具店(キンタロウオモチヤ店)

このお店もビッグネーム、らしい。銀座関係の本で何度かお目にかかったことがある。

ネット情報だと1993年までお店があったらしいです。

 

 おれもあとで帽子を買おう、俊夫はそう思って、はじめて商店の方に目をやった。そこは、オモチャ屋のキンタロウだった。見ると、ショーウィンドーの中に、浅草紙にのったウンコの模型がうやうやしく飾ってある。俊夫は思わず、うなってしまった。はじめて知り合いに、めぐり会えたのである。

(集英社文庫、広瀬正著「マイナス・ゼロ」190ページより)

 

タイムスリップ小説なので、リアルタイムの作者によるリアルタイムの描写ではありませんが、

昭和7年(1932)の銀座の描写です。

この記述によると、戦前も戦後もウンコの模型があったらしいです。

キンタロウーウンコの模型、この組み合わせは「マイナス・ゼロ」以外でもどこかで読んだのですが、

なにで読んだかわすれました。

(なんとなく遠藤狐狸庵先生の本だったような気がするんだが・・忘れた)

しかし……一体どんなものだったのか?

アラレちゃんに出てくるような、アレなのか??

それとも浅草の巨大なアレ??

 

71……〇山口銀行銀座支店

石造の、いかにも銀行という建物。

「銀座細見」の記述によれば、

大正10年→山口銀行(建築中)

大正14年→株式会社山口銀行銀座支店

昭和5年→山口銀行支店

ということで、確定です。

 

⑫の写真を切り取ったもの↑↓

 

銀座のまん真ん中――松屋の目の前に、なんと馬がいます。

が、当時は当たり前の光景でしょう。

 

写真⑬銀座三丁目

 

番号をふります。

といったところで、2つしかありませんが。

 

72……〇松屋

巨大ビルヂングです。説明不要でしょう。

73……〇伊東屋

これまたビッグネーム。

というか、今回は田屋といい、伊東屋といい、現存の店が多いな。

松屋はもちろんですが。

 

まずは「銀座 歴史散歩地図」を引用。

 

銀座通り東側に、デーンと巨大ビルが建つ。明治三十五年地図では、天狗煙草の「岩谷商会」があったところ。

(中略)

栄華を誇った岩谷商会が衰退していったのは、明治三十七年(一九〇四)に政府が煙草の専売権を握ったためという。店舗は政府が買い上げ、官有地となりビルが建てられた。この巨大ビル、関東大震災でもびくともせず、震災後に松屋百貨店となる。

(草思社「銀座 歴史散歩地図 明治・大正・昭和」46ページより)

 

だそうで、松屋の建物は元々国が建てたものらしい。

しかし「びくともせず」とはすごい。帝国ホテルが被害がなかったことは有名だが、

松屋(銀座ビルヂング)もそうだったのか。

 

「銀座細見」は、松屋に対してそっけない。

伊東屋は東京第一の文房具店である。最近壮麗無比な建築をして、大いにデパートに対抗している。

隣りは松屋呉服店、銀座のデパートではこの店が一番お客が多く、また品物が豊富らしい。建物も一番金がかかっている。

(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」219ページより)

僕はこんな俗っぽいところには行きませんよ、といった口ぶりです(笑)

 

「新版大東京案内」は、

松屋も震災後に開業、三越の新館が落成するまでの繁昌ぶりはすさまじかつた。その横手前の露地は俗称銀座新道、オキナ、花柳など種々のうまいものやが雑然として一廓をなしてゐる。左角はラヂオの林、つぎに、さへぐさ、この店頭にはいつもナツシユかパカードかが一二台とまつてゐるが中はひつそりしてゐる。飛びきり上等ぜいたくな装身具に御用のあるお方はお立ち寄り下さい。同じく装身具の玉屋と、シヤツの大和屋などを経て文房具の伊東屋、大抵の品ここへ来ればまづ間に合わぬものなし。

(ちくま学芸文庫、今和次郎編纂「新版大東京案内」200ページより) 

 

ちとわかりにくいんですが、「さへぐさ」(三枝)「玉屋」「大和屋」と、銀座三丁目西側のことを書いています。

どうも、伊東屋は銀座三丁目西側にも東側にもあったらしいです。

「銀座細見」のリストをあらためて確認すると、その通りになっています。

 

以下、参考のため、

師岡宏次という人の「写真集 銀座残像」の写真をご紹介します。

この本。「銀座残像」というから戦前の銀座のあちこちが載ってるとおもって期待したのですが、

この人、松屋・伊東屋のあたりばかり撮っています。

写真も下手くそだし、がっかり。

まあ、しかし参考にはなるので載せます。

 

三丁目東側の安全地帯。背景は篠原靴店、伊東屋、松屋。(昭和12年)

(日本カメラ社、師岡宏次編著「写真集 銀座残像」79ページより)

ちょうど、電車(路面電車)の電停があったわけですね。

電停の様子、広告、それからお姉さんのファッションなど興味深いんですが……

 

……典型的な日の丸構図がすべてをぶち壊している気が↓↓

お姉さんは右端に寄せて撮れば、いい写真が撮れたとおもうのだが……

この師岡宏次という人、全部そんな残念な写真です……

 

人々がみんな帽子をかぶってゐるというのは興味深い。

お姉さんは手袋をしてゐる……かな。

皆が皆、きちんとしてゐる。

 

 

この頃の伊東屋は、まだ松屋の隣にあった。右は松屋。(昭和12年)

(同書80ページより)

これもまあ、臨場感あるといやあるけど、・・・みたいな写真↓↓

ただ、建物のディテールは興味深い。

昭和の時代になるとこういうビルヂングが……おそらく世界のどこに出しても恥ずかしくないレベルの建築が生れ出したということでしょうねえ。

昭和12年の千疋屋たまらなく行きてえ。

 

 

日中戦争の戦勝を祝った日と、国防婦人会のパレード(昭和13年)

(同書107ページより)

 

上から見下ろすのが好きなんですよね、この師岡宏次先生。

しかし、そういうスペクタクルな描写は新聞社とかにまかせて

アマチュアらしい視点を目指してほしかった気がした。

 

もとい、

写真⑭銀座二丁目・銀座三丁目

 

番号を振ります。

 

この界隈は店名が特定できるお店が多いです。

といって、「銀座細見」「新版大東京案内」で特にくわしく説明されている店もあまりありません。

ビッグネームは特になし、ということか。

 

74……〇篠原靴店

75……〇スズコー婦人子供洋装店

76……〇明菓売店(明治製菓)

これはつまり、前回の記事の主役、

チョコレート・ガール=水久保澄子が働く、いわゆるキャンデーストアなるものでしょうか?

 

この明治製菓なんですが……師岡宏次先生の「想い出の銀座」98ページを見ますと――

 

昭和14年当時は 白いモダンなビルヂングに生まれ変わっていることがわかります。

(赤丸で囲んだビル。なんか懐かしい……とおもったら

アントニン・レーモンド先生の、伊勢佐木町の不二家に似てるんだな)

 

切り取ってみるとこんな感じ↓↓

ちとわかりづらいが、お手本みたいなモダニズム建築。

 

……というと、このビルが「淑女は何を忘れたか」の

佐野周二&桑野通子のおデートシーンの舞台か?

 

一九三七年二月十五日(月)

銀座明菓にてクランク

帰つて下宿

桑野具合悪き由 封切日の近ければ案ず

*大阪の姪の病みおる白き梅

(フィルムアート社、田中眞澄編纂「全日記小津安二郎」204ページより)

と、書かれている「銀座明菓」はこのビルか?

すくなくとも窓の構造はよく似ている。

 

佐野周二の向こう側……窓の向こう側の建物はなんだろう?

位置的に十字屋とか? わからないけど。

 

桑野ミッチー きれいな手してるな。

 

となると、桑野ミッチーの背後に写りこんでいるのは……

位置的に服部の時計塔になるのかな??

 

今だったら、銀座で映画のロケ撮影なんて大騒ぎになりそうだが、

この頃はどうだったのか。

 

とにかく、かわええ……

 

もとい……昭和3年に戻ります。

以下二つ、確定。

どんな店かはよくわからず。

 

77……〇松島眼鏡店

78……〇大黒屋玩具店

 

79……×不明

よくわからず。

店名が読めそうで読めない……

「銀座細見」によると――この場所は、

・大正10年→岩谷呉服店

・大正14年→岩谷煙草店

・昭和5年→カフエ・ナナ

という変遷。

「岩谷」……というと、上記、「松屋」のところで名前が登場しました

「岩谷商会」の成れの果てか??

そのあたりはよくわかりませんが……

昭和2年のこの建物は「岩谷煙草店」なのか??

カフエ・ナナは、「銀座細見」には店名が登場するだけでどんな店かよくわからない。

 

80……〇アオキ(アヲキ?)

靴鞄……革製品を扱っていたようです。

「新版大東京案内」で店名が登場しますが、とくにくわしい説明はなし。

いかにも急造のバラック建築という感じ↓↓

しかしデザインは素人の仕事ではない印象。クラシック建築の素養がありそうです。

おもしろい建築(しかし、すぐ本建築に建て替えるのでしょう)

 

写真⑮銀座二丁目

 

番号を振ります。

この界隈は当時の有名店が……

カフエ・キリン カフエ・クロネコなどが並んでます。

建築好きは、もろに「ライト風」「帝國ホテル風」の86番に目を引かれるでしょう。

これが高名なカフエ・クロネコ、らしい。

 

81……〇川崎貯蓄銀行所有地

写真からそう読み取れますので確定。

当時のアサヒグラフ、裏表紙が川崎貯蓄銀行の広告、ということがたまにあります。

景気がよかったのか?

「川崎貯蓄銀行」でググると 大阪市中央区の「旧川崎貯蓄銀行大阪支店」というのが出てくる。

まあ、手広くやってたんでしょう。

「銀座細見」のリストによると――

・大正10年→菊屋食料品店

・大正14年→菊屋食料品店跡

・昭和5年→三共薬局

となっています。

 

82……〇菊秀金物店

83……〇カフエ・キリン

 

 キリンはキリンビールの本舗明治屋の経風のドイツゴシック風のいかにもビヤホールらしい気持のいい建物だ。設計はたしか古宇田実氏だったと思う。ただし夏はヴァンテイラションが悪くて暑苦しい。

 女給は黒地のキモノに鴇色(ときいろ)の襟、海老茶前垂のユニフォームだ。開店当時は「給仕人への御心付は一切御断り申上候」などと書いてあったが、二、三日ですぐ外してしまった。

 女給は割合におとなしい様子だ。派手な他のカフエに対して、老舗らしいサービス振りで気持がいい。銀座のカフエの飾窓ではここが一番大きいだろう。

(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」103ページより)

というのが安藤更生先生の解説。

 

古宇田実、という人は、大学で建築史をけっこうがんばったトマス・ピンコも知らない人なので

マイナーな建築家といってよろしい(笑)

ググってみると、「作品」として「カフエ・プランタン」が出てくるので、安藤先生の情報は合っているのか?

それより気になったのは、あの渡辺仁……

ホテルニューグランド、服部時計店、そしてトーハクの作者、渡辺仁の妹と結婚したらしい。

つまり親戚らしいということです。

 

安藤先生、「ドイツゴシック」というが、外観はまったくその様子はない。内装がそうだったのか?

(下に載せました、例の師岡宏次先生の昭和13年の写真も同じ建築が写っているので、建て替えたりはしていないとおもう)

「ヴァンテイラシヨン」などと気取っていってますが、ようは換気がよくなかったらしいです。

 

84……〇酒井硝子鏡店

85……〇不明

酒井硝子鏡店とカフエ・クロネコに挟まれた店ですが……

なにかごちゃごちゃ書いてあって

正直不気味です。

「銀座細見」によると――

・大正10年→生秀館美術品店

・大正14年→美術店生秀館

・昭和5年→オリンピック(レストラン)

となっています。

 

86……〇カフエ・クロネコ

 

「銀座細見」の安藤先生は カフエ・クロネコは二流三流だと斬って捨てていて

とくに何とも書いていない。

巻末のリストによると、昭和5年12月の段階で「カフエ・クロネコ跡」となっていて

はやくも潰れてしまっていることがわかります。

 

「新版大東京案内」では――

 

タイガーと同時に一躍天下に知られたクロネコは、警視庁に干渉されたり圧迫されたりしたが、近頃、巨船そつくりの建物をつくり、店内を三つに仕切り、向つて左より、船ノフネ、レストラン・クー、イナイイナイバアと名づけて開業した。クーとバアとの間がトンネルになつてゐて、くさやの干物に灘の生一本を売りものにする加六に通じる、その対照、すこぶる妙である。

(ちくま学芸文庫、今和次郎編纂「新版大東京案内」200-201ページより)

と、昭和4年段階では張切っていたんですがね。

 

で、「カフエ・クロネコ跡」はどうなったか、というと、

「銀座 歴史散歩地図」によると、大阪資本の バー「赤玉」とやらいう店になったようです。

 

87……〇川崎(貯蓄?)銀行京橋支店改築場

 

なぜ「銀座支店」ではなく「京橋支店」なのかというと、

このあたりが「京橋区」(当時の表記では京橋區)だったから、だとおもいます。

 

しかし、この土地……

「銀座 歴史散歩地図」によると、昭和5年11月

銀座会館という大阪資本の大カフエが建つようです。

 

はい。最後にこのあたりを撮った師岡宏次先生の写真の紹介。

「写真家」というレベルの写真ではないですが、

とてもわかりやすいので載せます。

(とにかく、何かイベントがあると、ビルの屋上に登って撮りたがるらしいのだ、この人は)

 

昔の銀座二丁目東側

昭和13年に鐘紡ビル屋上から撮影。カフェーキリン、オリンピックなどが見える。大部分が木造二階建である。

(講談社「師岡宏次写真集 想い出の銀座」51ページより)

 

昭和13年当時、

・カフエ・キリンの建物は昭和3年と変っていない。

・84、85の建物が消えて、まとめて「オリンピック」になっている。

というのがわかります。

 

その5につづく。

その5で銀座の復元は終わります。


ホテルニューグランド・ベイフロントコーナーダブル1404号室・大さん橋・飛鳥Ⅱ

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12月はじめに 一泊二日で横浜へ行きましたので

その時撮った写真をべたべた貼ります。

 

宿泊は毎度毎度のホテルニューグランド。

おとなりのスターホテルが解体されていたので、

渡辺仁建築の、マリンタワーサイドがよく見えました。

 

こんな写真が撮れるのは今のうちだけだ。

なんかまた新しくホテルを建てるらしいので。

 

 

 

チェックインまでしばらく時間があったので

本館ロビーをぶらぶら。

 

 

 

チェックイン。

メッセージカードとお菓子付きだった。

 

以前、スイート泊まった時、

プルミエスイートのときも、グランドスイートのときも、

お花にカード付きだったが、

 

今回はベイフロントコーナーダブルという部屋。

 

お菓子はT子さんがいつの間にか食べてしまったが、とてもおいしかったらしい。

 

ベッドの様子。

 

眺望。

マリンタワー側の角部屋だったので

みなとみらい方面は見えなかった。

 

でも前回……二年前、プルミエスイートですごい眺めを見てしまっているので

こっちの落ち着いたサイドで良いです。

 

ベイブリッジだのガンダムだの見えます。

 

氷川丸。

 

ぎりぎり 大さん橋&飛鳥Ⅱが見えます。

 

とても静かです。

 

時間をとばしまして……

夜の眺望です↓↓

 

こんな感じでした。

 

マリンタワー復活してよかった。

行かなかったですが。

 

部屋の様子。

3年前泊った1003号室とほぼ同じだとおもう。

1003号室はみなとみらいサイドでしたが。

 

 

 

あかいくつ、というバスに乗って大さん橋へ。

 

別に歩ける距離ですが、このバスに乗ってみたかったので。

 

飛鳥Ⅱを撮る。

 

周辺光量落ちがなんだかすごい。

マクロプラナー50㎜つかってます。

 

以下、絵葉書みたいな……

工夫のない構図が続きます。

 

小津みたいなショットを狙ったが

全然うまくいかない。

 

いい天気。

きれいな夕焼け。

 

NDフィルターなどを使ってみる。

 

引き続き、NDフィルターで頑張ればよかったのだが、

すぐに飽きてしまったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

出港の様子をシグマの魚眼で撮る。

加山雄三さんの若大将クルーズとかいうものだったらしく、

出港の時は加山さんの歌が鳴り響きました。

 

加山さんもどこかにおられたんでしょうが(?)、撮ってはないです。

もし……

お父っつあんの上原謙だったら、

戦前日本映画ファンのトマス・ピンコは 張り切って望遠ズームでシャッター切りまくったとおもうのですが。

加山雄三ではねえ。

 

 

 

 

 

ぐんぐん大さん橋を離れていきます。

 

ホテルニューグランドに戻る途中。

山下公園で撮った写真。

 

この六角形のなかをくぐると

ズーンとか ググーンとか どすの効いた低音が鳴り響くという……

アート作品ですかね??

 

 

 

ザ・カフェ(夕食)ル・ノルマンディ(朝食)カサ・デ・フジモリ(夕食)

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以下

旅行中食べたものの写真をべたべた貼っていくだけの記事ですが――

 

まずはトマス・ピンコらしく(?)戰前アサヒグラフの画像。

昭和2年(1927)12月14日號 28ページ

 

横濱に出來たホテルニユーグランド

二百三十萬圓の巨費を投じて出來た横濱港頭のホテル・ニユーグランドは十二月一日から華々しく開業したが、この日京濱間の有力者約二千名を招待し盛大な祝宴を擧げた。

【寫眞】は新餘興場

 

その。開業当時の渡辺仁建築の模型が、本館一階に飾ってありました。

二年前にはなかったとおもう(たしか)

そごうの売店とトイレの間あたりです。

 

1927年というと 関東大震災からたった4年後。

横浜はあちこちに焼け跡が残っていたことでしょう。

 

個人的にたいへん気になったのは屋上部分でして――

三宅艶子お嬢さまのエッセイでよくわからなかったところが

ようやく理解できました。

 

 あれは一九四〇年頃だっただろうか。タキシードを着て踊りに行くような風潮は日本中に消えていた時分だ。ちょっとした用事で珍しく横浜に行ったとき、夫が急に「ニューグランドに行って飯でも食おうか」と言い出した。私は久し振りのことで、びっくりしたがすぐに賛成してニューグランドに向った。

 夏の間は屋上(ルーフ)で納涼ディナーとでもいうのを催しているらしく、私たちはそこに上って行った(今のニューグランドではそこが改装されてメインの食堂のようになっている)。ルーフといっても屋根があったが、海からの風がはいって涼しかった。ここに来るとダンスも出来るのかしらと思われるように、バンドがどこか陰の方にいて音楽がきこえている(でもダンスなどもちろん出来なかった)。

(中公文庫、三宅艶子著「ハイカラ食いしんぼう記」249-250ページより)

 

屋上で食事、というのがよくわからなかったのですが、

なるほどこういう屋上だと食事はできそうです。

(模型でも小さなテーブルと椅子が置かれている)

もちろん1940年というと創業から十数年経っていますから、なにかしら変化があったのかもしれないですが。

艶子お嬢さまが「屋根」といっているのは、白い骨組みたいなアレのことか?

よくわかりませんが。

(むしろ謎が深まったのだろうか)

 

ホテルニューグランド。

ピーターラビットとなにやらコラボしているらしく、

あちこちにぬいぐるみが飾ってありました。

 

個人的にはスヌーピーとコラボしてほしいのですが、

あの子は帝國ホテルにとられちゃってるからなぁ……

 

クリスマスツリー

 

本館のクリスマスツリー、しっとりした雰囲気で好きなのだが、

撮り忘れた。

これはタワー館のもの↓↓

 

ザ・カフェでの夕食。

毎度毎度のレモンスカッシュ。

1201円也。

こんなに高かったっけ?

 

しかし、こんなものは他では飲めない。

 

パン。

バゲットというほうがいいのか。

しかしザ・カフェのお姉さんは「パン、おかわりいかがですか」と聞いていたから、

これは「パン」なのである。

 

もとい、ここの……ニューグランドのパンが最強だとおもう。

もちろんおかわりします。

 

コンビネーションサラダ。

 

野菜、しゃきしゃきして寸分の隙もなし。

 

クリームコーンスープ

冬はこれに限る。

 

ビーフシチュー。

はじめて頼んだがおいしかった。

お肉もジャガイモもニンジンもすべてうまし。

 

奥のブロッコリーの左側の物体はバターライスである。

パンを頼むとき、ビーフシチューにバターライスが付いておりますが、よろしいですか? といわれました。

それがこれ。

 

T子さんのドリア。

 

個人的には薄味なんだよな。お漬物かなにか欲しくなる。

が、T子さんは不満はないらしい。

 

プリン アラモード

 

T子さんのいちごパフェ

3415円也。

いちごフェアは 2月28日までやっているそうです。

 

てっぺんに金箔がのってます。

半分くらい食べさせてもらいましたが……上品。

ビジュアルは「やりすぎ」……とおもいますが、味はあくまで上品。

 

食後にカプチーノ。

ごちそうさまでした。

 

今回の旅行「かながわ旅割」とかいうのを使ったのですが、

食事のクーポン6000円ついてきました。

それをこちらで全額使う。もちろん6000円では足らないですが。

 

売店のショーウィンドーにいたシュタイフのうさぎさん。

 

このあと、ルームサービスでしか頼めない「クープニューグランド」を頼みたかったのですが、

あまりにお腹いっぱいでさっさと寝てしまい――

 

翌朝。ル・ノルマンディ

 

写真の雰囲気がすごい早朝みたいですが、

8時半ごろだとおもいます。

 

サラダ。

夕食のサラダもそうだったが、

よくまあ新鮮な野菜を調達してくるものだ。。

 

パン。

言うことなし。

 

万平ホテルの朝食のパンと双璧だとおもう。

……と偉そうなことを書いておく。

(万平は一度行ったきり……)

 

今回の目玉はこれかな↓↓

 

市販の……プラスチック容器に入ったジャムじゃなくて、かっこいいガラス容器にジャムが入ってた。

なんか贅沢な気分です。

 

オムレツとソーセージ。

 

あの……お客の目の前でオムレツ焼いてくれるサービスは、

もう見られないのだろうか。

コロナ前が懐かしい。

 

スヌーピーとクリスマスの飾り。

 

あ。スヌーピーは私物です。

 

ル・ノルマンディからの景色。

 

14階から山下公園を見おろす。

 

で、このあとホテルをチェックアウト。

氷川丸を見学。

横浜駅周辺で買い物というスケジュール。

 

高島屋の千疋屋総本店で――

 

飲んだアップルジンジャーはとてもおいしかった。

 

夕食はスペイン料理のカサ・デ・フジモリ

関内にあります。

 

はじめて行きました。

……まあ、もう行くことはないとおもいますが。

 

雰囲気は、御覧のようにめちゃくちゃかっこいいが。

味が……濃すぎた。

スタッフも……なんかいまいち。

 

ただ――

味は薄めで上品。スタッフは完璧のニューグランド経由で来てしまったのはよくなかったか。

 

あと、酒のみにはたぶん、濃いめの味の方がいいのか?

 

写真、空席が写ってますが、

これからバンバン人が来て、いつの間にか満員になりました。

 

ジンジャーエールを頼むと ウィルキンソンのジンジャーエールが。

毎日うちで飲んでます。

 

いや、これは文句ないです。

 

いつもライム味を加えているもので、

レモンもおいしいとわかった。

これは収穫でした。

 

パン……バゲット……

ニューグランドのを食べてしまった後だと、

何かが足らない気がしてしまう。

おいしいのだが。

 

パエージャコースというのを頼みました。

 

前菜はとてもおいしかった。

エビのアヒージョ

右側のマッシュルームもおいしかった。

 

生ハムと、なんとか貝のマリネ。

どちらも美味。

 

スープから、だんだん濃い味になってくる。

 

たまごがはいっていてとても濃厚。

 

サラダ……

どうしてもニューグランドと比べてしまう。

公平ではないとわかっているのだが。

 

いまいち。

 

で、肝心のパエージャ。

パエリアなんですがね。

 

見た目はすごいんですが。

美味以外にありえなさそうなんですが。

 

んー

油っこくて……なにがおいしいのだかわからず。困りました。

レモンをかければいいんじゃないか? とT子さんがいうのでやってみたが、

やはり油っこい。

 

パエリアというのはこういう食べ物なのか?

たまたままずいのにあたってしまったのか?

今写真でみると、やっぱりおいしそうなんですが、おいしかった記憶はまったくない。

 

しかし――流行ってたんですよね、カサ・デ・フジモリ。

金曜の夜、ということもあって盛り上がってました。

 

皆、なにを求めているんだ?

酒か。

 

「水曜どうでしょう」で どうでしょう軍団がスペインのパエリアを食べるくだりを見て以来

パエリア、非常に気になっているんですが、

おいしいパエリアってどこで食べれるんでしょうかね。

 

さいご。

 

ニューグランドの噴水を見物しまして帰宅。

 

 

 

いつもは電車利用でしたが、

今回はがんばってクルマでの旅行。

イバラキー横浜は、

行きは3時間半 帰りは2時間少し。

あっという間に帰りました。

戦前(1928)の銀座を復元する。その5 銀座一丁目・銀座二丁目(東側)

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アサヒグラフ昭和3年(1928)5月9日號掲載の 銀座通りのパノラマ写真から、

戦前の銀座の街並みを見て行きましょう、という記事ですが……

 

はじめはちと脱線しまして――

前年の年末 昭和2年(1927)12月14日號の表紙。

当時ののんびりした銀座の様子がわかります。

 

おそらく……銀座七丁目・西側の亀屋なのではなかろうか?

(違ってたらすみません)

亀屋は……(当時の表記だと「龜屋」だろう)

 

七丁目角に大きな店、扱うのは洋酒。「マッサン」(NHK朝のドラマ)のモデルとなった鳥居信治郎や竹鶴政孝が国産ウイスキー製造を模索している時代である。店の名は「亀屋」、洋酒の輸入販売という時代の先端をいく店だが、図に記される主人の名は鶴五郎。寿ぎのツルカメ、千年万年の繁栄を願ったのだろう。洋酒だけでなく、缶詰類、乳製品、香辛料がぎっしり陳列されていたという。

(草思社「銀座歴史散歩地図 明治・大正・昭和」50ページより)

とのことです。

店先に積んであるのは洋酒の樽? でしょうか??

 

この竜宮城みたいなイメージがおもしろい、となって

表紙に採用されたのかな?

 

などとおもうのですが、わたくし的に気になるのは……

赤丸で囲んだ浦島太郎が……↓↓

 

妙になよなよしているんですよね↓↓

手足がやけに華奢。

というか、あんた女の子??

だよね。

 

そう考えると、ギョロっとした目の亀と一緒のところは

やけにセクシャルな……はっきりいってエロい絵におもえてきます。

 

あ。

あと気づいたのは釣竿のパーツで、この絵は屋根から支えられているのかな?

頭いいな。釣り糸は電源コードかい?

夜はピカピカ ネオンで光ったりして(笑)

 

もうひとつ。アサヒグラフの表紙です。

今度は昭和3年(1928)の年末。

クリスマス號、というんですが……これも銀座の年末の様子です。

 

シロート目にも、前列三人の女性は合成っぽいな、とわかるんですが、

それでも「東側」の賑わい……人通りの多さはわかります。

 

なんでこんな安っぽい合成なんかやらかしたのかな?

この年代のアサヒグラフ、かなり目を通していますが、

普段はあんまりこういうことはやりません。

写っちゃいけないものでも写りこんでいたのか(笑)

 

舞台は……トマス・ピンコのブログをご覧のアナタはすぐおわかりでしょう。

銀座三丁目・銀座四丁目の東側です。

 

奥に見えるデカいゴージャスなビルヂングは松屋百貨店になります。

 

金太郎オモチャ店の右隣がなんだったかが謎だったのですが、

この写真で一発でわかりました。

「ゑり久」です。

半襟のお店らしいです。

(半襟がイマイチどういうものかわかってないが)

 

69→ゑり久

70→金太郎オモチャ店

となります。

 

また、蛇の絵が描いてありますが、

昭和3年(1928)→辰年

昭和4年(1929)→巳年

となります。来年の干支が描いてあるわけです。

 

□□□□□□□□

もとい、前回からの続きです。

 

写真⑯銀座二丁目

 

番号をふります。

 

88……〇服部時計店

 

言わずと知れたビッグネーム。

写真からはっきり店名が読み取れます。

店の真ん前に駐車している自動車もなんだか偉そうです。

 

写真だとかなり立派な建物にみえますが

草思社の「銀座歴史散歩地図」によれば

「四丁目の服部時計店を建て替えるために大正九年に竣工移転した仮営業所」(44ページ)

ということらしいです。

震災(大正十二年のこと)の影響はなかったのか、焼失してまた建て替えのか?

そのあたりはよくわからない。

 

服部時計店が

尾張町交叉点の例の場所に壮麗な渡辺仁建築を造るにあたって

天ぷら屋の「天金」といろいろゴタゴタがあったらしい、というのは

池田弥三郎先生の「銀座十二章」に詳しいです。

(池田先生は天金の次男坊)

(だが、とくに恨みがましいような筆致ではない)

 

朝日文庫版の「銀座十二章」では、あとがきに服部側の言い分も掲載されてはいますが、

読んだ限りでは、かなりあこぎな手も使って

尾張町交叉点にあの有名な時計塔を建造したような印象があります。

まあ、成功する人、会社ってのはそういうものですね。

 

89……〇石丸商店(毛織物)

90……〇安田松慶商店(仏具)

89 90は写真からは店名が読み取れませんが、

「銀座細見」の記述から確定です。

 

安田松慶商店ですが、調べてみると

銀座七丁目に移転して現役のお店らしいです。

(安田松慶堂 銀座本店)

すみません。存じ上げなかったが銀座のビッグネームらしいです。

 

写真⑰銀座一丁目

 

番号を振ります。

銀座八丁目(出雲町金六町)から順にみてきて、ようやく一丁目にたどり着きました。

 

91……〇旭屋花店

写真から店名が読み取れます。

 

92……〇大新(金ぷら)

金ぷらとは何ぞや?

とおもうわけですが、「銀座歴史散歩地図」によりますと、

 

越後屋から京橋の方へ少しもどると、天ぷらの「大新」。明治末期から大正期にかけて、天ぷらが流行した。当時、銀座の天ぷら屋はどこも繁盛していた。木挽町の歌舞伎座前「天國」、四丁目服部時計店裏に「天金」。芝口(新橋)に「橋善」、一丁目に「大新」。黒板塀の大新は、金ぷらが有名で、名前の由来はごま油の代わりに椿油で揚げるとか、衣に卵黄を入れた「黄味ぷら」がなまったとか、諸説あったらしい。

(同書44ページより)

 

とのことです。

「天金」に関しては、服部時計店のところでちょいと言及しました。

味に関しては・・・

 

 一丁目の大新は、天國が今の場所へ出るまでは、表通り唯一の天麩羅屋だった。表通りに面した日本風小座敷などちょっと風格がないでもないが、まあ天麩羅として大した特色があるとは思えない。普通の家である。

(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」192ページより)

 

というんですが、安藤先生は辛口なのでね。

ちなみにこの写真の当時は(1928年)、天國は表通りにはまだありません。

銀座八丁目の角地には

「その1」でみたように「銀座オクション」なるあやしげな店があります。

 

93……〇伊藤書画道具店

「銀座細見」の記述から決定です。

 

94……〇吾妻屋洋品店

写真から「AZUM」と読み取れます。

AZUMAYA と書いてあるんでしょう。

 

95……〇陶雅堂陶器店

五角形型の変わったファサードがお茶目。

 

96……〇アスター(支那料理アスター)

 

アスターはあの「銀座アスター」。老舗ですな。

ネットで調べると

「昭和元年(1926年)創業の中国料理店」

と決まり文句のように書いてあるのですが……

昭和元年ってのはご存知の通り 7日間しかないわけで……

(1926年12月25日~12月31日)

 

その年末のあわただしい中創業したのか?

大正15年の誤りなのか?

ちょっとよくわからない。

公式HPに質問のメールでも送ってみるか。

 

97……〇伊勢伊時計店

服部時計店同様、偉そうな自動車が駐車しています。

95,96,97と「銀座細見」の記述から決定です。

 

写真⑱銀座一丁目

 

番号をふります。

非常にごちゃごちゃしてます。

今までみた中では随一の混み具合です。

 

98……〇金田眼鏡店

99……〇益川絵葉書店

100……〇佐々木商店(つやふきん)・ポンピアン(たばこ)

 

98.99,100 「銀座細見」の記述から決定。

というか、つやふきんの佐々木商店は現存ですな。場所はまったく変わってない、のかな?

 

 つやぶきんの佐々木商店は、ポンピアンの名で知られている。煙草屋をも兼ねている。パイプはこの店が一番品が揃っているように思う。僕が常用しているメンションのパイプもここで買ったのだ。奥は玉突と喫茶店になっている。

(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」219ページより)

 

101……〇ユニオンビール

写真からはっきり店名が読み取れます。

 

ユニオンビールというと思い出すのは 小津の「出来ごころ」(出來ごころ)

坂本武&大日方伝のプロレタリアートコンビの勤務先です。

川口のユニオンビール工場でロケしたみたいですが。

 

 

102……〇日本蓄音器支店

写真から「ニツポノホン」……ニッポノホンと読み取れますので決定。

ニッポノホン・ワシ印レコードというのが、日本蓄音器のレコードのブランド名。

「銀座歴史散歩地図」によると、銀座一丁目は蓄音器激戦区であった模様です。

 

 一丁目の東側には日本蓄音器(鷲印)があったが、反対側に「日東蓄音器(ツバメ印)」が営業している。鷲とツバメが向かい合う――大正から昭和元年頃まで、外国資本であるこれら二つのレコード会社がしのぎを削っていた。

(草思社「銀座歴史散歩地図」62ページより)

 

「日畜」銀座支店の店内の様子↓↓

アサヒグラフ1928年1月25日號の裏表紙の広告で、なんとなく雰囲気はわかります。

 

↓↓試聴室は 壁にベートーヴェンの肖像画、和装の女店員さんが目の前にいて――

という、なんかうらやましいような、でも緊張しそうなシチュエーションである。

 

んだが、当時の蓄音器店の雰囲気が一番わかりやすいのは

小津の「非常線の女」(1933)でしょう。

 

これはビクター系列という設定のようだが。

ロケ?

セット?

店員さんはもちろん水久保澄子。

 

本題から外れますが……わたくし

最近、蓄音器についてネットで調べまして……

 

それではじめて

「あれは電気を使っていない」

ということを知りました。つい最近。

 

電気的に音を増幅させているのだろう、と勝手におもってましたが、

そういう理屈ではないのですね。

 

そういやスピルバーグの「プライベート・ライアン」でも蓄音器出てきたな。

たしか、エディット・ピアフを流していた。

あれはどうみても電源があるような場所ではなかったな、そういえば。

 

もとい、

アサヒグラフの広告といい、「非常線の女」といい、

キレイな女店員が待ってますよ、というイメージで売っていたのだろう。おそらく。

 

103……〇越後つづれ織物店(つづれ屋)

104……〇石井時計店

105……△田辺ラジオ

 

105だけ、よくわかりません。

RADIO  ラヂオという文字が読み取れますので、

「田辺ラジオ(ラヂオ?)」でほぼ確定、だとおもいます。

 

106……〇カフエ・バッカス

キリンビールの大きな看板があって、

軒先に小さく「バッカス」の文字が見えますので確定。

 

 バッカス

 この店実に銀座エロの元祖である。ここにはもとエビスというカフエがあって、タイガアで後に有名になった陽子や、今三会堂の東洋軒にいるお千代なんぞがいた家だが、陽子たちが一斉に退店してしまったら間もなく潰れてしまった。その跡へ出来たのがバッカスである。

 断然細長いカフエだ。細長いのではこことファーストと二軒だが、この方が長い。方々で馘になったような女給ばかり集めて、エロを売りもので囃し(はやし)立てたら、たちまち営業停止一週間を喰ってしまった。そうしたらすぐに表へ営業停止につき休店します。休みが明けたら更始一新活躍しますという大きな掲示を出した。初版販売禁止。再販危く禁止を免るなどとよく本屋のやる手を利用したのだ。これには警察も明いた口が閉らなかったという。

 今は方々にエロ看板の家がたくさん出来たから、バッカスもちょっとも目立たなくなってしまった。

(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」107-108ページより)

 

ということで、間口はずいぶん狭いが奥には長いのだ、とわかります。

「カフエ」という場所も、現代人の感覚だといまいちよくわからんのですが、

今でいうキャバクラみたいなものか? と解釈してます。

ただ「女給」さんは着物姿が多かったようです。

 

ただ……トマスはキャバクラなるものに行ったことがないので、

この記述は信用してはいけません。

 

107……〇銀座堂時計店

店名がはっきり読み取れます。

 

 

写真⑲銀座一丁目

いよいよ最後の写真となります。

 

左端は――京橋の親柱で現存しています。

なんでも 大正11年(1922)、関東大震災前に建造されたものだそうです。

 

番号をふります。

 

108……×不明

大きな建物で、よくわかりません。

ただ、「銀座細見」から推測するに、

「日本火災保険株式会社」「常盤火災海上保険」「常盤貯蓄銀行」

この三つの店舗というか会社? が入っていたようにおもえます。

 

同系列の企業でしょうかね?

 

109……〇桜田機械製造所直営京橋金物屋

 

110……〇東京美術館

111……〇玉木額縁店

112……〇池田園

 

この近辺に関して「銀座細見」を引用します。

 角は池田茶店。ここの看板は震災の時に焼け残ったので、それをそのまま用いている。端のところが焦げていて、当時の惨状を語り顔である。

 その隣は玉木額縁店。ここでむかし岸田劉生たちが第一回の草土社の展覧会を開いた。入場無料で開いたにもかかわらず一人の入場者もなかった。神原泰たちの未来派展覧会もここで開いたことがあると記憶している。伊藤大好堂は震災後出来た銀座通り唯一の骨董屋である。

(同書219ページより)

 

現在、銀座一丁目に「池田園ビル」があるみたいですが、

このお茶屋さんの子孫がオーナーでしょうかね。

 

さいごまでやれるかどうか?

あまり自分を信用していませんでしたが、

無事一丁目の角までたどり着きました。

「あたい」の市川春代スクラップブック その1

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最近「あたい」が作った

A4判の市川春代(1913-2004)スクラップブックを手に入れましたので

ブログに載せてみます。

 

わたくしがひとりでおもしろがっているだけで、

自分以外の人にはまったくおもしろくないような気もしますが、

載せてみます。

 

おそらく1930年代のもの。

90年くらい前のものですが、それほどの古さは感じません。

かなり大切に扱われてきたように感じます↓↓

 

背表紙には

「市川春代集」とあります。

 

達筆。

おそらく字の癖から、「あたい」が書いたのだろうとおもいます。

 

はじめに注をいれておきますと、

わたくし(トマス)の市川春代知識は ほとんどゼロに近いです。

 

アサヒグラフ復刻版……

昭和8年(1933)1月1日號の

華やかなモダン・ガアルぶりにノックアウトされまして↓↓

(この頃、19歳か)

 

「鴛鴦歌合戦」(1939)で

動く春代たんを鑑賞して、和服・日本髪姿でもかわいいとおもいました。

……というそれだけの 市川春代歴です。

 

というか、あとで調べたら、この頃の市川春代さんは

もうすでに子持ちだったのね。

 

閑話休題、本題に戻ります。

スクラップブックをページ順に見てまいりましょう。

 

〇1ページ

 

達筆……サラサラと流れるような筆跡で

あたいの好きな市川春代ちやん

とあります。

 

作者について、一体どこの誰なのか?

全く情報がありませんので

とりあえず「あたい」と呼ぶことにします。

 

1ページ目、全貌。

 

お澄まし顔の市川春代。

 

「あたい」は この文句なし美人写真を1ページ目に持って来たかったんだろうとおもいます。

 

「あたい」の特徴として、

写真のコーナー、「角」を容赦なく切ってしまう、というところがあります。

 

この1ページ目の写真なんか、

市川春代ファンにとっては「春代たん、きたぁぁぁ……!!」

というようなショットだとおもうんですが、

仮に自分(トマス)だったら、雑誌のページそのまま切り取ると思うのですが、

「あたい」はそうはしないわけです。

 

〇2ページ-3ページ

 

この1ページから次の見開きの展開が素晴らしいとおもいます。

お澄ましモダン・ガアルからの

大胆水着ショット。

 

そして3ページ目はカラーという展開。

とにかくオープニングから 「あたい」の構成力はすごいです。

 

そしてコーナーはスパスパ切り取ってしまう「あたい」です。

 

〇4ページ-5ページ

 

コーナーは切り落とす。

色の組み合わせがいいな、とおもう。

 

というか、段々わかってくるとおもうのですが、

「あたい」は年代順に並べる、とかいうことはまったく考えていない印象です。

 

〇6ページ-7ページ

 

ものすごいのが……

 

赤丸で囲んだ粗い印刷の紙片……紙切れです……

これは接着せずに はさんであるだけです。

 

どれだけ大切に保管されてきたものかを物語っているとおもいます。

 

〇8ページ∸9ページ

 

こうしてみると、けっこうセクシーめな写真も多い。

2ページ目の水着写真

4ページ目のレビュウ・ガアル風写真

6ページ目の(当時としては)短いスカートの写真

 

大変失礼ながら、お胸はあまりない方なので

脚線美で攻めて行こうということなのか?

 

〇10ページ-11ページ

 

なんとなく夏っぽい組み合わせ。

洋装―和装の組み合わせ。

色使いもいい組み合わせ。

とにかく「あたい」はセンスがいい、というのがわかります。

 

デザイン的に……今でも広告に使えそうなレベルだとおもう。

 

この見開きに挟まれていた紙片。

若い母親役だろうか?

 

やっぱりコーナーはすぱっと切り取ってある。

この紙片は貼るスペースがなかったらしい。

どこにでも貼ってしまえばいい、とおもうのだが、

「あたい」には「あたい」なりのこだわりがあるのだろう。

 

紙片の裏側はこんな感じです↓↓

 

アイホーン美眼器、二重マブタになれるらしいです。

今もありそう。

 

〇12ページ-13ページ

 

「鴛鴦歌合戦」みたいな日本髪の春代たんですが、

われわれはやはり 斜めに貼ってしまう「あたい」のセンスにやられるわけです。

 

〇14ページ-15ページ

 

セクシー水着ショットと 清楚お嬢さまショットの組み合わせ。

 

パフスリーブの白いワンピース。

さらさらの黒髪。

サイン付きの一枚。

でもコーナーはばっちり切り取る「あたい」であった。

 

ええと……「未來花」という日活の作品で

小悪魔キャラを演じたらしいのですが、

 

このタヅルを演じたは市川春代さんでした。これ程俳優と登場人物とがピツタリ一致した場合があるでせうか?

 

だそうで、メディアがどういうキャラ付けをしていたかがわかります。

「今年二十一で」というのは満年齢のことなのか、数え年のことなのか?

 

〇16ページ-17ページ

 

17ページ目に謎の空間があります。

 

↓↓へんなぬいぐるみ(?)を抱っこしている春代たん。

 

「スパイファミリー」のアーニャのぬいぐるみにちょっと似てる。

似てないか。

 

貼られていない、ノリのあとなどがない紙片がはさんでありましたが、

しかし大きさからみると、この謎の空間とは関係がないようです。

 

日活の大スタア・夏川静江さんとの組み合わせ。

夏川静江―市川春代の組み合わせは、このスクラップブックで何度かお目にかかります。

 

裏かえすと、

「タンゴドーラン」なるものの広告。

 

美と魅力の近代化化粧料

タンゴドーラン

 

三宅艶子お嬢さまの「ハイカラ食いしんぼう記」にもタンゴの話題が出てきた。

どうやら20年代の終わりから30年代にかけて流行ったらしいんである。

 

〇18ページ-19ページ

 

ここは「あたい」のハサミさばき(笑)

大胆に切りまくっている、その様を楽しむべきでしょう。

あと色の組み合わせもいいです。

 

日本髪だろうが洋髪だろうが、

和装だろうが、洋装だろうが、

そこらへんは「あたい」にはどうでもいいらしいです。

 

18ページの帽子のショットは

10ページの衣装とまったく同じか?

しかし18ページの写真はなんとかクリームという化粧品の瓶をもってますので

広告の切り取りだろうか?

 

すごい切り取り方↓↓

 

〇20ページ-21ページ

 

21ページのこの……

海辺の「百合」路線だか、セクシー路線だかよくわからないショットは、

 

相棒は伏見信子かな??

伏見信子が松竹蒲田に移籍する以前……日活時代の写真か?

 

二人とも新興キネマにいたことがあったようなので、その時代なのか??

 

〇22ページ-23ページ

 

おてんば・小悪魔キャラの写真で統一されている印象。

 

当時の水着の構造がよくわかります。

ベルトの意味はあるのか??

 

明るく、健康なセクシー路線。

少女体型なのであまりいやらしくはなりません。

 

蓮っ葉な印象のショット。

ピアノの上にでも乗っかっているのか?

 

へんな柄の壁紙である。

 

15ページのパフスリーブのかわいいワンピースといい、

このドレスといい、

日本人女性がようやく洋服を着こなしはじめた時代のようにおもえます。

全然不自然ではないですね。洋装が。

 

えー、今回はここまで。

というか、こんな記事に興味がある人がいるのだろうか??

「あたい」の市川春代スクラップブック その2

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1930年代に「あたい」が作った、市川春代スクラップブックを眺めております。

 

30年代少女「あたい」は何者なのか?――というのをよく考えるのですが、

・字がやたらうまい

・独特の美的センスの持ち主

・80年後まで残る質のいいスクラップブック(舶来品?)

・大量の雜誌と暇な時間が必要なスクラップブック作成

というところから、ある程度裕福なお嬢さまだっただろうと推測できます。

 

「お前、そんな暇あるなら、うちの仕事手伝いな!」

などと言われる御身分ではなかっただろうと推測できます。

 

また、スクラップブックに、のりで貼られなかった切抜きが何枚もはさんであることから、

このスクラップブックは、中古車でいうところの「ワンオーナー」なのではないか?

と推測されます。

(ワンオーナーでなかったら、こんな小さな切抜は散逸して、残っていないと思う)

 

さらに……勝手な推測、というか妄想ですが、

「あたい」は幸せな結婚をして 空襲やら天災の被害を受けず

あたたかな家庭を築いて 長生きをして亡くなった、のではないか。

 

「あたい」のご子息・ご息女はあたたかい人たちだっただろう、とおもいます。

「あたい」を尊敬していただろうとおもいます。

冷たい人たちなら、即座にこんなスクラップブック、処分してしまったのではないか?

古本屋に持って行くより、ゴミ箱にポイ、のほうがはるかに楽です。

 

けれど……

「このスクラップブック、婆さんが大事にしてたものだけど」

「昔の女優さんかねえ?」

「私達には価値がよくわからないけど」

「古本屋さんなら価値がわかるかも」

と、某古本屋の手に渡り、そこから戦前日本大好きトマスの野郎の目にとまった……

 

んーー……というか、「あたい」は結構な有名人、著名人という可能性だってあるような気もする……

 

□□□□□□□□

もとい、

〇24ページ-25ページ

この見開きはロリータ趣味でまとめている印象です。

 

(もちろんナボコフの「ロリータ」(1955)が存在しないから、そういう概念は1930年代には存在しない)

(ただ菊池寛の小説などよむと「ベビーエロ」などという言葉が出てきたりはする)

 

んーなのだが、24ページはすごく謎な一枚↓↓

インダストリアルな雰囲気の……一体どこで撮ったのか?

なんとなく船のなかのような印象があるんですが、おわかりの方ご教授願いたい。

 

あと、気になるのは靴下で。

戦前アサヒグラフを読みふけっているわたくしからみると、

こういうくるぶし丈のソックスは子供が履くもの、という感じがする。

 

この頃の日本人がいう「靴下」は 今でいう「ストッキング」で、

太ももまで丈があってガーターで留めるもの。

この写真で、ハル坊がはいているような靴下は「半靴下」と言ったようです。

 

だが、まあ万年ロリータのハル坊はこういう恰好が許されるのでしょう。

にしても何に腰かけているんだ??

 

右の写真は

「藥用 モンココ洗粉」の廣告なのでしょう。

洗顔フォームみたいなものか?

 

左の写真は

キューピーさんが若干気味が悪い(笑)

ハイヒールのせいか、すごく脚が長く見える。

 

この見開きに挟まれていた切抜。

前回も同じことを書きましたが、

「あたい」は独特のこだわりがあって、適当な隙間に貼るということをしない。

 

〇26ページ-27ページ

この見開きは、右下の写真だけが異質な印象。

しかし、ハル坊の視線の向きが見事に揃っているんだよな。

どれも左ななめ上に向かっている。

 

やはり「あたい」には何か考えがあって、この構成なのだろう。

 

かわいいです。

モデルのハル坊としてはちと苦しそうな姿勢。

座らせて撮っているのか?

 

なにかの映画のスチールか?↓↓

カレッジ・ロマンスみたいなものか?

(同時代のハリウッドにはそういう作品がよくあった)

(日本では当時、共学の学校は文化学院だけだったとおもうが)

 

――にしても、高所恐怖症ぎみのわたくしにはちょっと恐ろしいような写真でもあります。

プールの飛込み台で撮っているのか?

二人はまったく怖くないのか?

 

男の俳優さんは誰なのか? 松竹の俳優さんならまあまあわかるのだが、この人はわからない。

 

しかし……おお、怖っ……合成じゃないよな??……

合成だとしたら、左手前の前ボケしている物体(はしご?)の説明がつかない。

 

〇28ページ―29ページ

 

左の写真。やはり「あたい」の切り方は独特です。

ふつう、左上をこうやって切りますかね?

 

〇30ページー31ページ

モダンガアル特集、という感じの見開き。

 

30ページは折り目がついちゃってますが、元々こうなってました。

「あたい」は几帳面なのか、乱暴なのか、不思議なことをやります。

 

30ページ。

26ページの写真のハル坊を正面から撮るとこうなるのでしょう↓↓

 

26ページの写真の方が動きがあっていい写真だとおもう。

これもかわいいですが。

 

〇32ページー33ページ

27ページのプールの写真が再登場します。

切抜き方が凝りに凝っています。

 

プールの写真のとなりが和装・日本髪のハル坊。

その下が縦ロール……

 

1ページ目の写真もそういえば縦ロールだった。

縦ロールがやけに似合うハル坊であった。

 

というか、前回紹介したアサヒグラフの写真と似ている衣装。

同日に撮影されたものか??

なにかの映画のプロモーションか?

 

33ページはやけにシリアスな表情です。

 

〇34ページー35ページ

 

作品名はわかりませんが、なにかシリアスな作品に出演したのでしょう。

和服のおしとやかなハル坊が、一人の男を洋装のフラッパーと取り合う、みたいなお話か??

 

右下に30ページの朗らかなハル坊の写真が再登場するあたり、

「あたい」のセンスはすさまじい。

なんか青で揃えたくなってしまったのかな。

 

 

 

〇36ページー37ページ

楽しげな雰囲気の写真が並びます。

 

またまた夏川静江とのペア。

夏川静江は看護婦さんか。

「鬼滅の刃」の蝶屋敷の女の子たちがこんな格好をしてゐましたね。

 

ハル坊は和装です。しかし……

 

珍万軒

チンマンケン

とは……

 

純白・清楚な夏川静江との組み合わせがすさまじい。

 

〇38ページー39ページ

 

ここは個人的に一番好きです。この見開きは。

 

38ページの背景はフランク・ロイド・ライトの帝國ホテルなんじゃなかろうか?

建築好きにはたまらんです。

 

当時の日本人は、律儀だったので

フォーマルな洋装の時は、きちんと帽子&手袋を身につけておりました。

(まるで見てきたかのように書いている、この人は)

 

それだけにこれだけゴージャスなドレスを着て

帽子なし、というのは何だかセクシャルな印象すら感じてしまう。

何にしても大人びた表情のハル坊です。

 

手袋はきちんとしています。(たぶん)

おしゃれなバッグも持っている。

それだけに……帽子がない、というのがただ事ではない印象なのです。

 

背景は勝手に帝國ホテルと推測してしまっていますが、

当時は

一番イケてる建築=帝國ホテル=フランク・ロイド・ライト

だったので、

模造品みたいな建築も多かったので。

 

確定はできないようにおもいます。

でも帝國ホテルだと思いたい。

 

参考までに わたくしが明治村で撮ってきた帝國ホテルの写真をのせます。

 

ハル坊の写真はなんとなく南側で撮っているような印象がありますが、

 

明治村の帝國ホテルは

日比谷に存在した時と向きがまったく変ってしまっているので

あまり参考にはならなそうです。

 

で、

大人びた……どこかセクシャルな匂いのする写真と

子供みたいに微笑むこの写真を組みあわせる「あたい」はさすがです。

 

この衣装は 26ページ 30ページと同じものでしょうかね。

帽子はかぶっていませんが。

 

「帝國ホテル」&「自動車」とモダンの象徴の組み合わせがいいです。

 

〇40ページー41ページ

 

いかにも映画のスチール、という写真が並びます。

「あたい」は「作品」ごとに揃える、ということをあまり考えませんが、

40ページの写真と 41ページ上の写真は同じ作品なのでしょう。

 

銀座での撮影風景?

カメラがかなりローポジションです。

 

〇42ページー43ページ

 

43ページに34ページの写真が再登場するんですが……

 

すさまじいのは……

 

赤丸で囲んだ写真、

これは貼らずにはさんであるだけ。

 

おそるべし「あたい」……

 

〇44ページー45ページ

 

ここはおてんば……フラッパーなハル坊でまとめています。

 

この組み合わせは天才的だとおもう。

 

44ページは

21ページ同様、伏見信子(おそらく)と一緒のショット。

ハル坊が明るく、伏見信子はどこか影がある感じなので(偉大な姉のせいか)

いい組み合わせ。

 

45ページ。

楕円に切ったのは「あたい」のセンスか?

もともと楕円だったのか?

 

〇46ページー47ページ

 

手袋+帽子

そうそう、戦前の律儀な洋装とはこういうものです。

バッグを持っていませんがね。

 

背景は一体なに? 何の建築ですか?

 

〇48ページー49ページ

 

「夏」な印象の組み合わせ。

 

49ページのこのセクシーショットは――

 

14ページにも登場してゐました↓↓

インクの色が同じなので……「あたい」ってば 同じ雑誌を二冊持っていた……

買ってもらっていた、ということなのか??

 

んー切抜用と保存用と二冊買ってもらう、というのはありそうな話だ。

 

〇50ページー51ページ

 

この見開きは「緑」で揃えたのだろう、という気がする。

 

 

21ページのこのハル坊は

おそらくレビュウ・ガアル役なのだろう。

 

というと……

4ページのこの写真と同じ映画なのだろう。

いや、確定でしょう。作品名などさっぱりわからんが。

 

スクラップブック、まだ続きます……

「あたい」の市川春代スクラップブック その3 (豊田四郎「若い人」(1937)感想)

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一か月ぶりの記事。

ようやく「あたい」のスクラップブック終わります。

が、はじめはちょっと別のはなし。

 

せっかくいい機会なので、市川春代出演作を見たわけです。

豊田四郎監督「若い人」(1937)

 

はじめに結論をいってしまえば、そんな大した作品ではない。

函館のカトリック系の女学校を舞台にした映画ですが、

同じ「教育もの」だったら清水宏のほうが――

「信子」とか「みかへりの塔」とかのほうがおもしろいし、作品の質も高いような気がするんですが

 

映画史的にみると……

豊田の「若い人」(1937)が評判になって、

そのあと 清水の「信子」(1940)「みかへりの塔」(1941)が出現する、という順番なので、

エポックメーキングなすごい作品ではあったのかもしれない。

 

ただ、繰り返しになるが、わたくしはそんな大した作品とはおもえなかった。

 

物語の軸は

・大日方伝(教師)

・夏川静江(教師)

・市川春代(生徒・問題児)

この三角関係にあるんですが、

 

大日方も夏川も、四角四面のつまらないキャラクターで

市川春代の怪演がひたすらに目立っている、という作品です。

 

↓↓これは東京への修学旅行のシーン。

戦前帝都好きのわたくしにはたまらなかった。

 

おそろいの帽子がかわいい。

 

市川春代は若干病的な……問題児。

 

清水宏の「信子」「みかへりの塔」にも 女の子の問題児が出てくるんですが、

たぶん、この市川春代の影響があるんでしょう。(推測)

 

大日方伝と。

おはなしの序盤。

夏川静江の女教師は 自分がひそかに好意を持っている大日方伝にむかって

(生徒の)市川春代の面倒をみたいなら、彼女と結婚なさい、とかめちゃくちゃなことを言ったりします。

 

そこらへんからして現代の人間はついていけない感じ。

現代のモラルから大昔のシナリオの価値観を責めたりするのはよくないが、

これは行き過ぎだろう。

 

しかし、当時の評判は良かったらしいんである。

 

 重宗務の主宰する東京発声に移った彼女は、ここで豊田四郎の演出で「若い人」(昭和12年)をとった。石坂洋次郎が『三田文学』に連載した長篇で、彼はこの一篇で一躍、流行作家になるのだが、市川春代もまたこの一作で天下のファンを唸らせた。暗い北の港町に母と二人の生活をする女学生の、どこかエキセントリックな性格、それを彼女は実にいきいきと演じ、先生役の先輩・夏川静江を完全に食うありさまだった。大日方伝の先生も、やはり彼女の魅力には遠く及ばなかった。彼女の激しい性格、エキセントリックな行動ぶりに、われわれの世界ではエキセンという言葉が流行したくらいだから、いかに強い感銘を残したか想像にかたくあるまい。

(現代教養文庫、猪俣勝人、田山力哉著「日本映画俳優全史」251ページより)

 

なるほど、市川春代ひとりだけが輝いている、という作品です。

 

「あたい」は「若い人」見たのかな?

このスクラップブックはたぶん、「若い人」(1937)より前に出来たもののようにおもわれます。

 

「若い人」の頃は、もう別の俳優・スターに夢中だった可能性もあるな。

結婚・子育てで忙しい、という可能性だってある。

「あたい」の年齢がわからないので、なんともいえんが。

 

□□□□□□□□

閑話休題。本題に移ります。

〇52ページ―53ページ

洋服と和服の組み合わせ。

 

52ページは多色刷り。

カラー印刷の切抜はこれと、あと3ページの切抜だけです。

 

例によって斜めにスパッと切り裂く「あたい」

一体何のページを切り抜いたのか?

 

53ページ。

やっぱしこの頃の日本女性は和服の方が似合っていた、

とつくづく思う一枚です。

 

ハル坊の

子役時代の苦労話がいろいろ書いてあります。

 

〇54ページ―55ページ

 

女学生二人。

背景はどこだろう?

なんとなくアントニン・レーモンド先生の東京女子大学のような気もするが……

 

違うな。

左側にチラッと和風様式の建築がみえているあたり、違う。

どこでしょうね?

 

セーラー服がなんかもっさりしているのに

和服がキリっとしている。

わざとか??

 

現代の日本人は、セーラー服への妙な信仰があるが、

戦前は……自分が読んだり見たりした限りでは セーラー服信仰みたいのはないような感じがする。

 

やっぱり戦前の人にとっては

セーラー服=水兵さんの制服だったんだろうか。

 

セーラー服信仰は帝國海軍の滅亡と関係があるのだろうか?

 

〇56ページ―57ページ

 

謎な一枚。

おなじみ夏川静江との安定コンビ。

 

老け役をやったんでしょうねえ。

 

〇58ページー59ページ

 

左側は伏見信子かなぁ??

夏川静江かもしれない。ちとわからない↓↓

 

こういう写真をみると、戦前の男子の 和服+日本髪への執着の意味がわかります。

 

しかし乳母車ねえ。

こういう形の乳母車は不穏な予感しかしない。

はたして階段を転げ落ちていくのでしょうか……

 

〇60ページ―61ページ

 

60ページ。ゲレンデの樣子などありますが、

あまりいい表情ではない。

ハル坊、長野の人らしいのでスキーできたのかな??

 

右側はしつこく

例の珍万軒(チンマンケン)

万は旧字の「萬」ではない。

 

一体どんな映画なのか??

夏川静江の看護婦姿が清楚です。

 

〇62ページー63ページ

 

マゼンタ色で刷られたこれは↓↓

 

子供時代? 子役時代?

わからないが、たぶんそうなんだろう。

 

〇64ページー65ページ

 

夏川静江との安定のペア

この写真は前にもお目にかかりました。

 

ハル坊は何を抱えているのか?

まさか、骨壺じゃあるまいな?

(なんかサイズがそんな感じがするのよ)

 

これは片岡千恵蔵との一枚。

千恵蔵はタバコなんか手にしているから なにかの映画のスチールではなくて

撮影の合間の1ショット、なんでしょうか?

 

〇66ページー67ページ

 

66ページ ええと。この俳優さんは誰ですか。

超有名人だったりしたら恥ずかしいが。

 

新婚夫婦、みたいなショット。

カメラが気になる。

 

〇68ページー69ページ

 

68ページ

かわいいが

ごてごてした衣装。

 

この見開きはナルシスティックな印象がある↑↓

 

〇70ページー71ページ

 

70ページ

ハル坊は、こういう夢見る乙女、みたいなポーズが多い。

 

この衣装はシンプルでいいな。

戦前の洋服は68ページの写真じゃないが妙に装飾過多なところがある。

へんなところに刺繍がいれてあったりして。

 

帽子の羽根とネックレスはごてごてしているが。

背景もシンプルでよろしい。

と色々偉そうなことを書いてます。

 

〇72ページー73ページ

 

終りに近づいております。

 

〇73ページ

 

ここで「あたい」のスクラップブックは終わります。

 

 

スクラップブック全体の構成をみますと――

こういう凛々しい、ちょっとふてぶてしいような表情の一枚ではじめて……↓↓

どこか夢幻的な……

夢の中の一シーンのようなショットで終らせるという

この構成がすばらしいとおもいます。

 

服装で比べてみても

1ページ→革手袋にヴェールという重装備。

73ページ→水着。限りなく裸に近い。

 

この対照がすばらしいです。

池田理代子「おにいさまへ…」×今野緒雪「マリア様がみてる」・比較 考察

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池田理代子先生の「おにいさまへ…」を読んだので、その感想です。

いわゆる「少女漫画」は、だいぶ前に「風と木の詩」を読んで以来だとおもいます。

 

感想。といっても、ご存じの方はご存知かと思うが

例の「ソロリティ」なので(笑)

どうしても「マリア様がみてる」との比較になってしまいます。

 

ちなみに今野緒雪先生自身は「おにいさまへ…」の影響は語ってはいないのではないかと思われます。

(違っていたら教えていただきたい)

 

(質問:いわばBLと対になるようにして生まれた『マリア様』ですが、今野さんはBLを読んでいましたか?)

今野:ハードなものは読んでいないですけど、ソフトなものは。萩尾望都先生、木原敏江先生、山岸涼子先生……BLというよりも少年愛的なものですが、私の世代は漫画で触れるひとが多かったと思います。もともと、漫画は大好き。いま名前を挙げた先生もそうですし、大島弓子先生、岩舘真理子先生、内田善美先生、小さい頃だったら上原きみ子先生……いっぱいいて挙げ切れないです。

(ユリイカ・2014年12月号「百合文化の現在」35ページより)

 

ユリイカのインタビューでも直接、その名前は出てきていません。

が、元漫画家志望だった今野先生、池田理代子作品を読んでいない、とは考えられない、のではあるまいか?

 

もとい、比較してみます。

・「おにいさまへ…」×「マリみて」似ているところ①

「ソロリティ」=「山百合会」

 

ふうむ。

「山百合会」は「マリみて」誕生以前――誕生の二十数年前から存在していたのか……と思ってしまいました。

 

いろいろと違うところはありますが、

「学内の選民による貴族主義的な秘密結社」というところは似ています。

こういう見方は 「マリみて」ファンは否定なさるとおもいますが、

身も蓋もない言い方をしてしまえば、そういうことです。

 

おしえてあげるわね

ソロリティというのはね…

アメリカの女子大生の社交グループのことなの

会員になるには 家がらや財産や

教養、容姿、人がら

健康などを上級生のメンバーズに審査されて

投票で選ばれるわけ

(マーガレットコミックス「おにいさまへ…①」28ページより)

 

まあ、そこを「姉妹」(スール)という愛のシステムで救っているのが

今野緒雪の独創なわけですが。

 

・「おにいさまへ…」×「マリみて」似ているところ②

反「ソロリティ」=反「山百合会」

 

そして……貴族主義的秘密結社を否定する勢力がある、というのも似ています。

「おにいさまへ…」――薫の君、こと折原薫

「マリア様がみてる」――ロサ・カニーナこと蟹名静

 

ただ作家として、根っこにある理論が……

池田利代子――マルクス主義・フロイト心理学という(はっきり言って古臭い)19世紀的イデオロギー

今野緒雪――資本主義的な「ゲームと儀式」

という風にまったく異なるため、

今野緒雪は「山百合会」を生かし続けますが、

池田利代子は「ソロリティ」を廃止してしまいます。

 

マルクス主義から見て「ソロリティ」の貴族主義は許しがたいですし、

フロイト心理学から見ると 「同性愛」は「異性愛」に至る過程でしかありませんので

やっぱり「女の子による女の子のためのシステム」などというものは否定されてしまうわけです。

 

・「おにいさまへ…」×「マリみて」似ているところ③

信夫マリ子=細川可南子

 

「おにいさまへ…」――おそらく一番魅力的なキャラクターである 信夫マリ子が

「マリみて」のモンスター的異物・細川可南子に似ていてたまげました。

 

二人とも男嫌いの設定ですが……

 

ちょっとあなた!

男の人とつきあっているんですって!?

だめよッ!! だめだめだめ ぜったいにだめ

あなたはね知らないのよ 男がねえ どんなにきたならしくて

おぞましくて じぶんかってで

おまけに無責任で いやらしくて

狂暴で はじ知らずで

そりゃあ多少はやさしいけど そんなのは見せかけだけでねーっ

とにかく男の人なんて だめーっ!!

(マーガレットコミックス「おにいさまへ…②」46ページより)

 

「男の人のこと嫌いなの?」

「大嫌いです。最低の生き物だと思います」

 そう宣言するからには、本当に男の人のことを大嫌いなのだろう。

(中略)

「最低な男の人もいるかもしれないけれど、すべてじゃないわよ」

「でも、大半はそうです」

 可南子ちゃんは、自信を持って言い切った。これは、かなり根深そうである。

「でも、男性がいて女性がいて、それで人類が成り立っているって保健の授業で習ったはずだよ。可南子ちゃんにだって、お父さんいるでしょう?」

「いません」

「えっ、……そ、そう」

「あんな人、父親じゃありません」

「――」

(コバルト文庫「マリア様がみてる 涼風さつさつ」143ー144ページより)

 

信夫マリ子・細川可南子 両者ともに「父親」との関係に悩んでいるあたりも似ています。

 

□□□□□□□□

その他、似ているところはいろいろあるんですが……

……

〇主人公(御苑生奈々子&福沢祐巳)がそれぞれ 幼児体型や無垢さを強調されるところ。

〇フランス趣味

など……

キリがないので今度は違うところをみていきます。

 

・「おにいさまへ…」×「マリみて」違うところ①

私服―制服

 

「おにいさまへ…」―「青蘭学園」……制服はいちおうあるが、皆私服で通学している。

「マリみて」―「リリアン女学園」……「汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ」

 

「マリア様がみてる」は、例の名高いオープニングが

「タイが、曲がっていてよ」という名ゼリフですので、

これは制服(セーラー服)でないといけないわけです。

 

「おにいさまへ…」は、毎回毎回、主要キャラクターは違う服装で登場します。

どうも、少女漫画というメディアの特性上――読者サービスの面から考えて――私服が選ばれたのはないか?

という気さえしてきます。

あと、戦前のエリート女学校「文化学院」が、制服を定めていなかったというのと関係があるのかもしれません。

 

しかし、なぜ「おにいさまへ…」は私服でなければならず、

「マリア様がみてる」は制服でなければならないか?

うまく言語化できそうにありません。

この「私服」―「制服」問題はなんだか日本文化の根幹に関わるような、そんな気さえしてきます。

 

・「おにいさまへ…」×「マリみて」違うところ②

異性愛に収れんする―収れんしない

 

「おにいさまへ……」―折原薫&辺見武彦、信夫マリ子&一の宮貴 二組の異性愛カップル

「マリみて」―鳥居江利子&山辺先生、という例外はあるが、基本異性愛は存在しない

 

上記の通り、池田理代子先生はどうも フロイト心理学の影響下にありそうですので、

同性愛は否定せざるを得ない。

正直、「おにいさまへ…」の後半はつまらんのですが、

つまらん原因は、異性愛に収れんしてしまうあたりにあるとおもわれます。

 

・「おにいさまへ…」×「マリみて」違うところ③

スティグマを負った人物―スティグマは存在しない

 

「おにいさまへ…」―マイナスのスティグマを負った人物が多数登場。

「マリみて」―藤堂志摩子のエピソードで明らかなようにスティグマはまったく問題視されない。

(お寺の娘であることを気に病んでいるが、まわりはまったく気にしていない)

強いて言えば、小笠原祥子が例外なのか??

 

「おにいさまへ…」はマイナスの烙印を押された人物ばかりです。

・御苑生奈々子→父と血がつながっていない。後妻の連れ子。

・信夫マリ子→父はエロ小説家、と罵られる。

・朝霞れい→めかけの子、と罵られる。

さらに、主要キャラクターである 折原薫は乳がんの手術の傷跡があります。

主要キャラクターは全員が全員、なんらかのスティグマを負っており、差別され、

それが物語を推進するという――まあ、きわめて古臭い基本構造があります。

 

「マリみて」の基本構造は……

詳しくはトマス・ピンコのブログの「マリみて」関連の記事をみていただきたいですが……

「ゲーム」→「儀式」→「ゲーム」→「儀式」……

というイデオロギーから自由な構造をとっているため、

スティグマは物語を推進する燃料にはなりえませんし、

リリアン女学園内部にはそういった差別構造は見当たらないようにおもえます。

 

□□□□□□□□

とまあ、「おにいさまへ…」×「マリア様がみてる」の比較は以上となります。

なんだか「おにいさまへ…」を古臭い、と片づけてしまったような感じもしますが、

信夫マリ子の魅力、そして朝霞れいを想い続ける主人公は、作者の古臭いイデオロギーからはみ出ているようにおもえますし、

(だからこそ、作品としては破綻しているのだとおもう)

 

なぜ「おにいさまへ…」は私服であり、「マリア様がみてる」は制服なのか?

というのはけっこうデカい問題をうしろに秘めているような気もします。

 

さいごに……

御苑生奈々子と信夫マリ子が一緒にお風呂に入るシーンなんですが、

 

この1カットが、

山岸涼子先生「白い部屋のふたり」の表紙にそっくりだ、というのは何事なんでしょうか??

 

例の「ユリイカ」の「百合文化の現在」で……

 

「女どうしの愛」が少女マンガにおいて描かれ始めたのは、男どうしの愛=少年愛が描かれ始めたのと同じ、七〇年代初めのことであった。

 最初期の作品に、仲のいい女友達にボーイフレンドができたことへの少女の嫉妬といらだちを描いた、矢代まさこ「シークレットラブ」(一九七〇年『デラックスマーガレット』掲載)があるが、これはその後の展開の基になったとはいいがたい。

 この時期、衝撃的な現われ方をして、その後の「女性同士の愛」作品の原型を作ったと言えるのが、一九七一年、『りぼんコミック』に掲載された山岸涼子「白い部屋のふたり」である。

(「ユリイカ」2014年12月号「百合文化の現在」101ページ、藤本由香里『「百合」の来し方 「女同士の愛」をマンガはどう描いてきたか?』より)

 

なのだそうで、

(だからわたくしはけっこうなプレミア価格のついた中古コミック本を買ってしまったんですが)

 

つまりは山岸涼子リスペクトという意味でのこのカットなのか?

それともあたしの方がすごいのが描ける、という意味のカットなのか?


昭和三年(1928)・横浜地図 昭和四年(1929)・東京地図

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毎度毎度の地味な記事です。

古地図を買ってきて、それをA1サイズのアルミのフォトフレームに入れて楽しんでおります。

 

100年くらい前の地図ですが、まだまだかなりキレイです。

 

ああ、そうそうはじめに書いておきますが、

東西南北は90度ひっくりかえってます、この地図。

 

  西

南   北

  東

 

こんな感じになってます。

 

昭和調査番地入 横濱市地圖

 

真ん中、染みみたいになってるのは↓↓

フォトフレームに映りこんだトマス・ピンコ(撮影者)の影です。

 

昭和三年なので 関東大震災からまだ間もないです。

復興の最中。あちこちに焼け跡が残っていたとおもわれます。

 

よくわからないのは「發行所」(発行所)が三つ並んでいることで、

これは何なんでしょうね?

 

横浜の地図なので、有隣堂出版部が出したんでしょうか?

違うのかな?

「赤」とか「青」とか色ごとにべつの発行所が担当しているのか?

そんなめんどくさいことやるのか??

 

定価35銭。

……広瀬正「マイナス・ゼロ」に 昭和7年の物の値段が書かれていますが、

うどん 一杯 一〇銭

牛乳 一本 五銭

エビスビール 一本 三三銭

 

そこから判断するに 35銭というのは 今の500~1000円くらいなのか??

 

さて、以下 ざっと1928年の横浜を見て行きたいですが、

 

横浜駅(横濱停車場)がほんとに何にもない場所に作られたのだとよくわかります。

 

赤丸が↓↓ 横浜駅。

 

今は大商業地帯ですが、この頃は地図でみるかぎり工業地帯っぽい。

石油会社のタンクがたくさんあったのではなかろうか。

「貯油所」という文字がいくつかみえます。

 

あと・・・

 

軍艦碇泊所 というのも気になる。

 

自分が学生時代住んでいた「保土ヶ谷区」は、

当時「保土ヶ谷町」で

「横濱市」ではなかったらしい。残念。

 

とはいえ、地図に書いてあったとしても

田んぼや畑ばかりでたいしておもしろいものではなかったとおもいますが。

 

大さん橋やら、赤レンガ倉庫やらの付近↓↓

赤線は「市電」です。路面電車。

あちこちに張り巡らされているので

ちょっとした距離の移動だったら、この頃のほうがはるかに便利だったんじゃないか?

そんな気がします。

 

上の画像をトリミングしたもの↓↓

色々と気になることだらけ。

 

まず、ホテルニューグランドが気になってしまう。

1927年、年末に渡辺仁のあの建物は竣工してますので

赤丸をつけた場所にホテルニューグランドはあるはず↓↓

 

山下公園は、震災の瓦礫で埋め立てて造ったらしいので、

まだないのか? 造成中か?

 

ホテルニューグランドのななめまえ。「報時球」とあるのがたいへん気になるが一体なにものか??

船舶向けのなにかの施設か??

 

右上↓↓

大さん橋は「税關桟橋」という名前だったようだ。

水上警察署、象の鼻は今と変わらないですな。

 

山手ですが、

 

布惠利須女学校が気になる。

フェリスかい。

 

根岸の競馬場が目立ってます。

 

お次。東京の地図です。

早わかり番地入 東京市全圖

 

東京都、ではなくて東京市。

これは1929年発行。

 

凡例として……

 

皇族邸 陸海軍官衙 華族邸……などは今の地図にはないでしょうねえ。

ないですね。

 

「電車」というのはもちろん市電。路面電車。

横浜の地図は赤線でしたが、

東京の地図の「市電」は赤だったり黒だったり青だったり路線によって色が違う。

なんにせよ、市電がメインの交通手段だったことがわかります。

 

最新横濱圖、も、おまけで付いてます。

 

が、よくみると、関東大震災で焼失したはずの「グランドホテル」が描かれていたりするので

信用性があるのか??

(グランドホテルは、ホテルニューグランドとは別会社で直接の関係はない)

 

宮城……皇居附近。

 

靖国神社 千鳥ヶ淵のあたり。

ほぼほぼ陸軍関係の施設ばかり。

 

上野は‥…

 

こんな感じ。

コルビュジエの西洋美術館のあたりはお寺だったのかな。

トーハクや動物園はだいたい同じなのか?

 

浅草も、

あんまし変わってなさそう。

「花やしき」

「六區」

「中ミセ」

「雷門」……今の立派な雷門ができたのは戦後らしいですが。

 

東京駅付近。

 

銀座はこんな。水の都だったということがよくわかる。

銀座は「四丁目」までしかない。(地名としては)

銀座五丁目~八丁目ができたのは昭和五年だったかな。

 

数寄屋橋付近。朝日新聞のビルがあるはずだが、書いてません。

邦楽座、という有名な映画館は書いてありますが。

 

築地は帝国海軍の施設ばかり。

 

それから勝鬨橋はまだなくて、「勝鬨の渡し」

船が出てたんでしょう。

勝鬨橋の竣工は1933年だそうです。

 

東京駅付近はこんな。

丸ビル 東京海上保険ビル 丸ノ内郵便局

モダンなビルヂングが立ち並ぶ一画です。

 

日比谷公園のあたり。

 

ははん。

日比谷公園をはさんで 帝國ホテルと海軍省が向かい合っているわけか。

海軍省の目の前は銅像が並んでいるらしい。

 

日比谷公園に「東郷大將 手植月桂樹」とあるのも気になる。

今もあるのかね?

 

今の国会議事堂は……

 

目下建設中。

「帝國議事堂建築場」というのがそれでしょう。

 

このあたりも陸軍関係の施設、多し。

 

□□□□□□□□

縮尺は 横浜の地図が15000分の1 東京が20000分の1

もうちょっと詳細な……5000分の1くらいの地図が欲しいのですが、

なかなか手に入らないです。

今野緒雪「白き花びら」(マリア様がみてる)感想・分析 時計とカメラと。

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あいかわらずのマリみて関係の記事なのですが――

ようするに 自分向けの「頭の整理」みたいな記事です。

最近考えていることの整理をしておきたいな、と。

 

なので、表題の「白き花びら」の分析は、前置きのあとに始まります。

 

①萩尾望都作品があまりおもしろくなかった。

 

先日、池田理代子先生の「おにいさまへ…」の感想を書きましたが、

あれがおもしろかったので 70年代の黄金期の少女マンガに足を踏み入れてみようとおもったわけです。

 

んで、周囲の評価が高い……萩尾望都先生を読んでみたいのですが、

あまりにまわりが「天才」「天才」いうもので、

ラジオを聞いていても 「アフターシックスジャンクション」で コンバットRECなる人物が

「天才」「天才」連呼する始末なもので。

で、お高いプレミアム版で 「トーマの心臓」「ポーの一族」買ってしまったのですが、

 

……これが、んーー

トマス的にはあんましおもしろくなかった、ということがありました。

 

池田理代子先生の、

まあ、はっきりいうと 作品全体としては破綻しているような気がする「おにいさまへ…」のほうが

はるかに傑作のような気がしてならないわけです。はい。

 

なぜ、萩尾望都にはまらないのか?

理由は色々考えられるのですが、

・独逸嫌い……

知り合いの某美魔女さんなどによると「ドイツじゃないとダメなのよ」ということらしいのですが、

わたくしはやはり、戦死した帝国海軍軍人の末裔としては

さっさと降参してしまったあんな国は許しがたいし、

ドイツ車なんぞも大嫌いなわけですよ。それと、

 

・女の子のイチャイチャがみたい

んー女の子が出てこない。

「ポーの一族」にメリーベルとかいうのがでてくるけど、まったく個性は感じられない。

 

とか理由は色々ありそうなのですが、

じつはもっと作品&作家の根幹……根っこのところに問題は潜んでいるのではあるまいか?

とおもい始めたのです。

 

それが

②アーキテクト型×ストーリーテラー型

ということです。

日本語にしてしまえば

「建築家型」×「語り部型」ということになりましょう。

 

これはわたくし個人の勝手な分類でして、

高名な〇〇先生の分類によると……などというものではないです。

 

小説家、漫画家、シナリオライター、映像作家、などには、

「アーキテクト型」「ストーリーテラー型」

この二種類があるのではないか? というはなしです。

 

どっちが優れている、とかどっちが天才、とかいうのはなく

タイプの問題です。

 

ただ、トマス・ピンコ個人の好みとしては「アーキテクト型」が好きで、

「ストーリーテラー型」はいまいち好きくない、ということになりそうで、

 

で、さっきの話題に戻ると――

・池田理代子「おにいさまへ…」は、

作品全体はガチャガチャしていて破綻しているが、「アーキテクト型」であるので好き。

・萩尾望都「トーマの心臓」「ポーの一族」は、

作品としては完璧で美しい、物語はしっかり組んであるというのはわかるのだが、

「ストーリーテラー型」であるので嫌い。

(個々の設定が甘い気がする)

 

ということになります。

 

では、「アーキテクト型」「ストーリーテラー型」とはそもそも何ぞや?

ということになりますと……

 

〇「アーキテクト型」

まず、作品の舞台設定・人物設定を綿密に組立てる。

そのあとで 人物を具体的に動かしていく。

〇「ストーリーテラー型」

まず、物語がおもい浮かぶ。物語の起承転結がはじめにある。

そのあとで 人物、舞台設定を決めていく。

 

ということになります。

池田理代子、萩尾望都でいうと……

 

〇池田理代子→「アーキテクト型」

綿密に調べ上げた革命期のフランスに、オスカルなる人物を放り込む=「ベルサイユのばら」

ソロリティ・システムのある青蘭学園に、御苑生奈々子、信夫マリ子、という人物を放り込む=「おにいさまへ…」

〇萩尾望都→「ストーリーテラー型」

登場人物の設定は、物語の中心(トーマの死)に従属している=「トーマの心臓」

バンパネラ(吸血鬼)の細かい設定はどうでもよくて、これまた物語ありきである=「ポーの一族」

 

ということになります。

繰り返しになりますが、どちらが優れている、ということではなく あくまでタイプの問題です。

また、はっきり2タイプに分別できるものでもなく

どちらの資質も兼ね備えた人もいるのだろう、とおもいますし、

どっちのタイプにもあてはまらない人もいるんだろう、とおもいます。

 

ただ、わたくし個人は 「アーキテクト型」……

舞台設定と人物設定を綿密に……綿密すぎるほどに組むのが好きで

あーしはストーリーとかははっきりいってどうでもいいです。

というタイプの作家が好きで――

 

・ペトロニウス(「サテュリコン」)

・曲亭馬琴(「南総里見八犬伝」)

・中里介山(「大菩薩峠」)

・稲垣足穂

・ドストエフスキー

・トマス・ピンチョン

・小津安二郎

 

考えてみると、自分の好きな作家は皆「アーキテクト型」であることに気づきます。

 

上の三人ははっきりいって作品としては完成する気がゼロの作家です。

稲垣足穂は「人物設定」はやらずにひたすら「舞台設定」だけやってるようなダメな人で

ドストエフスキーも さてどんなお話だったか? は覚えていないわけですが、

個々のキャラクター、ラスコーリニコフだのイワン・カラマーゾフに関しては

強烈によく覚えているわけです。

トマス・ピンチョンは設定を綿密にやりすぎるので 執筆時間がかかりすぎのバカな人で

出来あがった作品はわけがわからないですし、

小津安二郎は「ストーリー」ははっきりいってどうでもいいので

何度も何度も「婚期を逃がした娘が結婚する」というおはなしを飽きずに撮ってた変な人です。

 

③今野緒雪=「アーキテクト型」=時計とカメラと。

はい。

で、ようやく本題。

我らが今野緒雪先生は どこからどうみても「アーキテクト型」であろう、とおもうわけです。

 

まず、私立リリアン女学園という舞台設定がしっかりとあって、

姉妹(スール)システム・山百合会のシステムもしっかりとあって、

そこにきっちりと人物設定の組み上がった 福沢祐巳やら 小笠原祥子を放り込む。

設定。設定。設定。

 

これが「マリみて」の方法論のすべてで――

「物語」なんぞは後回し。

 

逆に言ってしまうと、今野緒雪が「通俗ストーリー」を語ってしまうと……

つまり「ストーリーテラー型」みたいなことをやってしまうと、

それはどうしても失敗してしまう、ということになります。

その代表例が「白き花びら」だとおもうわけですが、

それは後回しにしまして……

 

「時計」と「カメラ」の話です。

 

具体的な細かい分析はそのうちやろうとおもうのですが、

「マリみて」は「時計」と「カメラ」(写真)が動かしているような気がしまして……

まあ、誰もがお気づきのように

 

「時計」→時間・移りゆく時間の象徴。

「カメラ」(写真)→止まった時間の象徴。

ということになります。

 

ざっとみていきますと……

「マリア様がみてる(無印)」序盤は……

 

 そう言いながら、桂さんは時計を見た。

 朝拝の鐘が鳴る。

 つづいて校内放送で賛美歌が流れる。

(コバルト文庫、今野緒雪著「マリア様がみてる」18ページより)

 

「私が、写真部に所属しているのはご存知よね?」

 蔦子さんは祐巳に向き直ると、唐突に言った。

「え、……ええ」

 有名人ですから。

 授業中以外は、ほぼカメラを手放さない。シャッターチャンスを逃した時の悔しさを思うと、そうせざるをえないという話を、いつだったか聞いたことがある。

(同書19-20ページより)

 

そして「小笠原祥子さまと祐巳との、ツーショット写真」が21ページに出てくるという展開。

カメラという横軸と時計という縦軸がおはなしのリズムを決めているようにおもえます。

 

2巻目の「黄薔薇革命」をみると、この構造はさらにはっきりしていて……

 

「ああ。それにしても、どうして目覚ましのセットを変えるの忘れちゃったんだろう」

 日曜日の夜寝る前に行ったトイレの便座の上で一度は「変えておこう」と思いついたのに、自分の部屋に戻る頃にはすっかり忘れてしまっていたのだ。

 手を洗った刺激が記憶に蓋をしてしまったのか、はたまたトイレのドアの閉まりが悪くて往生してしまったのがいけなかったのか。いやいや、階段の踊り場で弟と会って立ち話してしまったのが一番の原因かもしれない。

 その上振り替え休日は久しぶりに朝寝を決め込もうと、一昨日の夜は目覚ましスイッチをオフにして布団にもぐったものだから、今朝起きるまで目覚まし時計のセット時間のことなんて思い出すこともなかった。

(コバルト文庫、今野緒雪著「マリア様がみてる 黄薔薇革命」10-11ページより)

 

「『祐巳、何をそんなに急いでいるの?』」

 声の主を確認しようとゆっくり振り返ってみれば、最新式の小型カメラのレンズと目があった。

「ごきげんよう。どう? 祥子さまだと思った?」

 言葉とともに、カシャッという音がかぶって聞こえた。写真部のエース、武嶋蔦子さんだった。

(同書12ページより)

 

祐巳、祥子さまの妹になる→山百合会の正式メンバーになる→目覚まし「時計」の設定時刻が変わる、

という素晴らしい描写があって、その直後「カメラ」「写真」の登場となります。

 

④「白き花びら」分析。

(写真を撮っていれば二人は別れずに済んだのではなかろうか?)

(もしくは、聖さまが腕時計をしたばかりに……)

 

で、ようやく「白き花びら」の分析です。

結論をいってしまえば、

この短編は「時計」(時間)はたくさん登場するのに

「カメラ」(写真)は一切登場しない、という

「マリみて」にしては異常な構造が目につきます。

 

 

 もともと時計が嫌いで、いちいち時間を確認するということをしない性分。目覚ましのアラームを聞くくらいなら遅刻した方がましと本気で考えているのだから、こういう失敗は今後とも起こりうることだと諦めている。

(コバルト文庫、今野緒雪著「マリア様がみてる いばらの森」209ページより)

 

「もう、よろしいでしょうか」

 少しの沈黙の後、栞は腕時計を見てつぶやいた。

「そろそろ行かないと」

(同書216ページより)

 

まず、ですな。聖―栞の出会いは

腕時計を持たない少女(聖)―腕時計を持つ少女(栞)

の出会いとして描かれているのが凄まじいです。

 

で、このあと「時計」「時間」はぜんぜん出てこなくなりまして……

温室の中での 例の美しいラブシーンなどありまして……

(ふと思ったのだが、

ガラスの温室=カメラ(語源は「部屋」)

なのだろうか?

というか、天才・今野緒雪はそこまで考えていそうだ……)

 

終盤、

聖―栞が駈落ちしようというところで 「時間」「時計」の乱れ打ちです。

 

 私は約束の時間より四十分も早く、待ち合わせ場所に着いてしまった。

 M駅の三、四番線ホームに午後五時。わかりやすいように、進行方向側の一番端を選んでいた。

 栞はまだ来ていなかった。

 私は少し戻って近くのベンチに腰掛け、駅ビルの書店で買った時刻表を開いた。このホームに降りる階段は一つだから、バスで駅まで来る栞は、必ずこのベンチの前を通るはずだった。

 時計嫌いの私が今日は腕時計をして、栞と会える時間を待ちわびた。

 けれど、栞を待つ時間は苦にならなかった。むしろ、私はその時間を楽しんでいた。

(同書263ページ)

 

聖さまが腕時計をしてしまう時点で、鋭い読者は「やや」と気づいてしまうわけです。

不吉な予感を。

で、

「五時十二分」「五時四十分になっても、栞は現れなかった」

と具体的な時刻(時計をみなければわからない正確な時刻)を示して 栞が来ないことを表現します。

 

で、お姉さまの登場。

 

「十一時過ぎたわ。もう、今日中に東京を出るのは無理じゃない?」

 呆れたような、ほほえみを浮かべ立っていたのはなつかしいお姉さまだった。

(同書268ページより)

 

 街路樹の下を並んで歩いていると、突然、お姉さまの腕時計のアラームがなった。

「ハッピー・バースデー!」

 私以外の二人が、立ち止まって同時に叫んだ。

 私は、十二月二十五日になって、自分が一つ年を取ったことを知った。

(同書273ページより)

 

――という風に「時計」「時刻」の乱れ打ちで結末になだれ込んでいきます。

うがった見方をすれば……

久保栞は、時計のない……時間のない佐藤聖が好きだったのでしょう。

時間のない人間となら、一緒に生きられるとおもったのでしょう。

それが、駅にいた佐藤聖は 腕時計をして時刻表をもっていた。

 

また「時計」&「カメラ」という目でみれば、

聖―栞は 武嶋蔦子に写真を撮ってもらえば めでたく姉妹になれたのではないか?

(祥子-祐巳のように)

ただ不幸なことに 蔦子さんはまだ中等部の生徒だったためにそのような事態は起こらず、

藤堂志摩子が白薔薇ファミリーからあぶれるということもなくなった、わけです(笑)

 

□□□□□□□□

・久保史緒里(くぼしおり)さん、なる方が 乃木坂46にいらっしゃるのですね。

現実がようやく 今野緒雪のセンスに追いついてきた、ということか。

 

・Huluでアニメ版「マリア様がみてる」をようやくみております。

私ごときが偉そうにいうのは何ですが、たいへんよく出来ておりますな。

毎日涙を流しながら、見ております。

 

瞳子ちゃん、かわいい。

というか、あの髪型はアニメ化を見越してのことだったのか?

まさかね。

 

「マリみて」二次創作では

恥骨マニアさんの「座禅ガールズ」というのがたいへん気に入りました。(かなり前の作品だが)

「座禅」でなにもかもを解決しようというギャグ漫画。

(志摩子さんの実家の小寓寺で山百合会メンバーが座禅するというだけ)

 

ですが、「姉妹(スール)」の儀式でなにもかも解決しよう滅茶苦茶が「マリみて」なので

今野緒雪の方法論に実に忠実だといってよいだろう。

日本郵船・氷川丸① 中央階段(階段室)

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去年の12月 山下公園の氷川丸を見学しまして

大量に写真を撮りまして

……それを最近ようやく整理したので 何回かに分けて記事にしたいと思います。

 

山下公園に行って何百円か入場料を払えば見れるものなので

珍しくもなんともないものですが……

 

自分(トマス・ピンコ)のメインの関心分野として 1920・30年代の日本 というのがありますので

自分向けのメモという側面が強いです。

(氷川丸の竣工は 1930年(昭和5)4月25日だそうです)

 

参考資料としては――

横浜市教育委員会 「横浜市指定文化財「氷川丸」調査報告書」

これを使います。

(以下、「調査報告書」と書きます)

 

蛇足で言うと、この本のメインの著者の吉田鋼市先生は自分の恩師なのですが……

吉田先生というと、アールデコ建築の権威だったりしますが、

ポストモダン思想なぞをかじっていた自分はアールデコの研究をしてたりしたわけじゃないので

アールデコ、全然詳しくはないです。(まあ、それは以下の記事を読めばすぐにわかるでしょう(笑))

 

□□□□□□□□

で、今回の記事は中央階段です。

 

氷川丸の中で売っているパンフレット「氷川丸ガイドブック」の中では「中央階段」と書いてあります。

 

「調査報告書」では建築寄りの「階段室」という名称を使っているんですが、

たしか船の中の解説も「中央階段」と呼んでた気がするので 中央階段とします。

 

公式の順路通りに見学したとすると、

エントランス→一等児童室→一等食堂→中央階段

という順番になります。

 

 

まず、照明がかわいい。

 

「調査報告書」に 船内設計のマルク・シモンのカラースキームがのってるんですが、

この照明はシモンさんの設計どおりのものです。

 

アールデコって あれです。

名探偵ポワロの雰囲気のアレです。

 

以降、シグマの魚眼で撮る。

上の3枚は マクロプラナー50㎜

 

↓↓左手に見えるのが「一等児童室」 右手に見えるのが「一等食堂」

ちなみにここはBデッキ(2階)

 

一等食堂の入口

 

Bデッキ。船首方向を見て写真を撮ってます。

 

ドアの上の表示 DINING SALOON

吉田先生の「調査報告書」では この表記通り「ダイニングサロン」と呼んでます。

 

たぶんですが――

「ダイニングサロン」→マルク・シモンの設計書の呼び方

「一等食堂」→日本郵船の呼び方

ということなのかな。

 

しかし、凝ったディテール。

 

トリミングしたところ。

氷川丸はここだけではなく「マイナスねじ」が多いので大興奮です(笑)

 

逆に言うと、「プラスねじ」を使っているところは

「ああ、これはオリジナルじゃないのだな」ということです。

 

↓↓

Bデッキ 左舷方向をみて撮った写真。

写真の右側が船首方向

 

ひたすら魚眼で撮る。

 

 

 

「調査報告書」によると、階段室はオリジナルからほとんど改装されていないらしいです。

引用しますと

 

真ん中に円形飾りがあり、上下に溝掘りを施した正方形のパネルからなる壁、笠のついた壁付き灯など、まったく当初のままである。最も特徴的なのが階段の手すりで、8の字のような曲線とロータス紋様、それに波のような模様と蕨手を組み合わせたアール・デコ特有の造形を示している。そしてAデッキレベルの中央に見られる円形文様。これは氷川丸の名のもととなった氷川大社の神章「八雲」であるが、本来の「八雲」とは上下がさかさまになっているようである。

(「横浜市指定文化財「氷川丸」調査報告書」9ページより)

 

 

 

 

 

 

あちこちに このピンクの照明。

「調査報告書」のいう 「笠のついた壁付き灯」というやつ。

 

 

 

これが逆さまの「八雲」↓↓

 

マルク・シモンのカラースキームだとCとMを組み合わせた文様になっているようなので

これは日本で改変されたもののようです。

 

天井の照明。

これは部材自体もオリジナル……

(つまり、レプリカではない)

とたしか現場の解説に書いてあったように記憶してます。

たしか……

 

↓↓Aデッキ

右舷方向をみています。

つまり写真・左側が船首。(ややこしいか)

 

船の中って方向感覚がわからなくなる。

実際に船旅とかするとどうなのかな?

体験してみたいものです。

 

Aデッキ。中央階段脇から船首方向を撮ったところ。

正面にチラッとみえる部屋は「一等社交室」

 

Aデッキ。

左舷方向をみて撮ってます。

 

左側にあるのは船内郵便局。

 

↓↓船内郵便局の様子。

つまり中央階段と向かい合っているわけですな。

 

写真の「順路」の通りにいくと展示室、いろいろな資料が置いてある部屋にたどりつきます。

 

船内郵便局 いい職場だ。

サボれなさそうだが。

 

ただ、今のように飛行機があちこち飛び交い

スマホひとつで地球上のあちこちにメールを送れる時代とは違いますから……

責任重大です。

 

↓郵便局から中央階段をみたところ。

左側奥 一等読書室。

 

壁の火災報知器。

重要な装置はあちこちイギリス製だと読んだので

これもイギリス製か?

 

マイカ(雲母)を壊してボタンを押せ、という。

 

いまだとプラスチックを使うが、この頃はマイカか。

 

直接関係ないですが、小栗虫太郎の「後光殺人事件」(1933)でマイカを使ったトリックがあって

なんでマイカなんだ? とおもったものですが、

この頃はいろいろな工業製品にマイカ(雲母)を使っていたんでしょう。

今だとプラスチックを使うわけですが。

 

あ。マイナスねじです。

 

これは郵便局のポスト。

局員がいない時はここに入れるんでしょうかね。

 

Aデッキの表示。

マイナスねじ。

年季の入った色合いが良い。

 

船内郵便局の解説。

お読みください。

 

↓↓

これは個人的に「いい写真だな」とおもってる一枚。

資料的にどうこうではなくて。

いい雰囲気だな。と。

 

あ。船内郵便局の照明です。

この照明はオリジナルのデザインなのか? 「調査報告書」をみてもよくわかりません。

なんとなくマルク・シモンの趣味とはズレている気はする。

 

船内郵便局の英語表示。

……なのだが、enquiry office というと 船内全般の「受付」とかそういうことなのでは?

 

コンシェルジュ的な……

「船の中の分からないことあったらお答えしまっせ」的なニュアンスを感じるんだが、

どういうことなんだろう?

 

郵便局とは意味が違うような?

分かる方に教えていただきたい。

オリジナルの表示ではないのかな。

 

 

AデッキからBデッキを見下ろしています。

あ。以下6枚は 5年前に見学した時の写真になります。

5年後とたいして違いはないんですけど。

 

どれもマクロプラナー50㎜です。

 

Bデッキ

一等児童室をみて撮った写真。

 

一等食堂をみて撮った写真。

5年前は中央の照明が点いてたんですね。

いろいろと世知辛くなってる気がする。

 

あと ピンクの照明がついたところ↓↓

 

↓↓ピンクの照明が消えたところ。

 

なんでこの2通りの写真があるのか? 5年も経ってるので不明。

たまたま誰かがスイッチを押してしまったのか?

 

Aデッキ

左舷方向をみてます。

 

日本郵船・氷川丸② 一等児童室・一等食堂・Bデッキ

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昨年……2022年12月に撮った氷川丸の寫眞をベタベタ貼っていきます。

あ。「寫眞」ではなくて「写真」か。

漢字変換すると1番目に旧字が出てくるトマス・ピンコです(笑)

たとえば日本郵船の「船」の字も本当は「舩」と書きたいですが、

誰も読めなくなるのでやめます。

 

前回同様、資料は

・横浜市教育委員会「横浜市指定文化財「氷川丸」調査報告書」(以下、調査報告書と略します)

・「氷川丸ガイドブック」(船内で販売されているパンフレット)

を、使います。

「氷川丸ガイドブック」は、値段忘れましたが、(数百円だったとおもう)

とても出来がいいものなので、マニアックなことを知りたい方以外は、

これ一冊で氷川丸のことはあらかた理解できるとおもいます。

 

また、氷川丸に関して

海文堂出版、郵船OB氷川丸研究会編「氷川丸とその時代」

という本がありますが、

この本は「船」それ自体よりも、船を動かしていた「人」がメインの本なので

私の興味からは少しずれるので、こちらは使いません。

逆に、チャップリンが乗船した時はどうだった、とか

秩父宮殿下ご夫妻が乗船した時はどう、とかが知りたい方はこちらを読まれるべきだとおもいます。

ただ……あくまで個人の感想ではありますが

この本、プロの物書きが書いたものではないっぽいので

文章が生硬で内容も薄い気がします。そんないい本ではないです。

(繰り返すが、個人の感想)

 

□□□□□□□□

もとい、氷川丸。

入口にエントランスロビーというのがありまして、

これは新しく作られたスペースなので

1930年代にしか興味のないトマスはまったく写真を撮りませんでした。

 

エントランスロビーの次にあらわれるのが

一等児童室です。

調査報告書では「子供室」

 

セレブのガキ……失礼、お子様方をお預かりするお部屋です。

なのですが、コロナのせいか、部屋の入口に黄色いテープが張り巡らされていて入室できませんでした。

(例えは悪いが、ドラマの犯罪現場とかで貼られるようなああいうテープです)

 

照明、おしゃれ。

カラースキームをみるかんじ、マルク・シモンのデザインに忠実に作っています。

吉田鋼市先生の文章を引用すると

 

天井下の斜めの壁部分の絵は、カラースキームではイソップ物語を素材にしたもののようであるが、実際は日本の児童をモチーフにした絵に変えられている。創建当初からはそれほど変わっていないようであるが、天井のサークル灯の下部にカヴァー状のものが付加され、壁の塗装が変えられている。

(調査報告書、10ページより)

 

えー「カヴァー状のもの」がよくわからなかったのですが、

「調査報告書」の写真だとカバーが確かについてます。

たぶん……吉田先生達の調査をふまえてオリジナルの状態にいろいろと戻しているようです。

(下記、一等食堂でもそのことがわかる)

 

空調の設備が特徴的ですが、これはあとで触れます。

 

↓↓これが日本の児童の絵

 

 

上述の通り、テープに囲まれて入室できなかったので

以下2枚、5年前の画像。

この頃は入室出来ました。

 

ただ、あんまし広い部屋ではないので、

あと、「ここがすごい!」というポイントも見つけられなかったので

あまり写真を撮ってないです。

 

木馬が置いてありました。

なんか西洋のセレブな感じ。

凝った壁の造りなど、よくわかります。

今、マイホームなどでこれをやるとしたら、かなりお金がかかりそうです。

 

えー次、Bデッキの通路のご紹介。

Bデッキは建物の感覚で言うと「2階」にあたりまして……

エントランスロビー、

それから今回紹介する「一等児童室」「一等食堂」がこのフロアになります。

 

Bデッキの御案内↓↓

二等客室がこのフロアなんだろうとおもいます。

が、見学できないのでどんなだかわからない。

 

あと、Bデッキ船尾近くに

二等喫煙室というのがあって、調査報告書によればかなり保存状態がいいらしいのですが、

見学コースには入ってないです。

見学できる機会はあるのか。

(調査報告書に白黒の写真は載ってます)

(吉田先生はここのデザインは褒めていない。そんな大したものでもないのか)

 

Bデッキ通路の様子。

 

これもBデッキ通路。

 

一等客室のAデッキになると、通路が若干広く、

あと照明が 前回の記事の写真にいっぱい出てきた

ピンク色の笠のついたかわいい照明だったりします。

 

そうそう。これが空調の説明。

「パンカー・ルーヴル」という装置。

戦時中は病院船だったりしたこともあるというのに、

こういうものをきちんととっておくという精神。

昔の日本人がなにもかもすごかったわけではないだろうが、

モノを大事にするというのは立派。

 

空調に関しては正直よくわからんのですが……関連する文章を書き写しますと、

 

蒸気発生ボイラー

本船の暖房や厨房用熱源となる蒸気を発生するボイラー。燃料の重油を温めて流動性と燃焼性を改善するのにも使用されるので、2基装備された。

(調査報告書、40ページより)

 

冷温の流水設備は一等船客の各室に、サーモタンク会社設計の換気・電気暖房装置は全客室に設置されています。

(「氷川丸ガイドブック」10ページより)

以上の記述から、

冷房は装備されてはいなかったんだろうとおもいます。

 

あと……↓↓

フレッシュ・エア云々と書いてあるところを見ると 暖気がここから出てきたわけではないのか??

換気……ベンチレーターなのか?

扇風機的に使ってくれ、とも書いてあるな。

でも冷気が出たわけではないよな??

いろいろわかりません、パンカー・ルーヴル(Punkah Louvre)

 

確実に言えるのは――

スコープドッグに似てる。

「装甲騎兵ボトムズ」のファンは確実に萌えるデザインでは、ある。

 

 

 

つづいて一等食堂。

 

 

 

貝殻みたいな照明。

貝殻というとどっちかというと「アールヌーヴォー」な感じがするな。

アールデコではなくて。

 

だからダメだ、とかいうことではなくて。

 

しっとりと落ち着いた雰囲気。

ここで食事したい。

目の前のホテルニューグランドとコラボして なんか上手いことできないのか?

(とか勝手な事言ってます)

 

 

このように↓↓

入れないようになってますが、5年前はこんな柵みたいのはなかった。

 

自分は 昭和3年の「アサヒグラフ」を全部持っているのですが、

昭和3年の一番めでたいニュースは 秩父宮殿下の御結婚なもので

とにかく 当時の「アサヒグラフ」には秩父宮&松平節子姫の話題ばかり出てくる。

 

それもあってこのご夫妻には勝手に親近感があります。

 

はい。例の空調設備。

「パンカー・ルーヴル」

ボトムズみたいな……スコープドッグみたいな装置。

 

ちょっと施工は雑かな。

 

このトップライトは「調査報告書」の頃は塞がれていたらしい。

吉田先生達の調査をふまえて復活したようです。

(2006~2008年に改装工事があったそうです)

 

逆に言うと↓↓ このトップライトはオリジナルではないということになります。

妙にキレイだとおもった。

 

引用。

天井廻りの矩形を交互にずらせた帯装飾、その下の2段の三角形断面を連続させた帯飾り、デンティル風の柱頭装飾、柱形左右の三角形を組み合わせた装飾、扉のガラス文様、壁付灯など、当初の姿をとどめた部分も多い。特に柱形の左右の装飾と扉のガラス文様は典型的かつ上質のアールデコである。

(調査報告書、9ページより)

 

魚眼でいろいろ撮る。

 

吉田先生のいう

「天井廻りの矩形を交互にずらせた帯装飾、その下の2段の三角形断面を連続させた帯飾り」

というのが……例の「パンカー・ルーヴル」のあたりのこと↓↓

 

 

 

以下6枚 5年前に撮影したもの。

今は上述のように柵で囲まれていますが、この頃は椅子に座ったりすることもできました。

 

「デンティル風の柱頭装飾」というのは柱の上部の「歯」みたいな飾り↓↓

勉強になるなあ。

というか、学生時代、当の吉田先生の建築史の授業で「デンティル」教わったはずだが、

完全に忘れてる。

 

トリミングしたもの↓↓

吉田先生、激推し(?)の

「柱形左右の三角形断面を連続させた帯飾り」というやつ。

 

なるほど。そういわれると凝っててかっこいい気がする。

作るのは大変そう。

 

もし……当ブログを読んでから氷川丸を見学なさる方は、

「柱の横の装飾が、マルク・シモンのアールデコデザインのキモですの。オホホ」

などと同行の方にカッコつけてみるのもよろしいでしょう(笑)

 

照明もかっこいいですね。

LED電球でもはまってるのかな? 今は。

 

 

 

 

 

 

この壁は……なんの木材かわからないけど。

おカネかかってる感じ。

素人目にはメープル材……バーズアイメープルとかいうのに見えるが違うか?

(知ったかぶり)

 

棚はザ・アールデコという感じで、名探偵ポワロにでもでてきそうなシロモノ。

角を丸めるのが なにもかも「流線型」というのが流行っていた30年代の特徴。

 

パンカー・ルーヴルがとにかく可愛い。

 

 

以下2枚 昨年(2022年12月)撮ったもの。

時計。

パテック・フィリップのカラトラバという有名な腕時計があるが、

あれと同じようなセンスを感じる。

 

今調べたら、カラトラバは1932年だから、やっぱり30年代ですね。

 

これは当時の用語でいう「電気時計」かな?

(ゼンマイの穴がないので)

ネジがプラスネジになってしまってますが、

メンテナンスの際、いつかはわからないけど、入れ替えられちゃったんでしょうかね。

 

最後。

前回載せた画像をトリミングしたんですが……

 

これも吉田先生激推しの

「典型的かつ上質のアール・デコ」の「扉のガラス文様」↓↓

 

これはシグマの魚眼じゃなく、きちんとツァイスのレンズで撮るべきだったと猛烈に後悔しております。

また行く機会があったら、ぜひ撮り直したい物件です。

 

まだ続きます。

国防婦人会の写真① 高杉早苗、桑野通子、千葉早智子(?)、入江たか子、原節子

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氷川丸の記事が途中なのですが、

国防婦人会の写真を大量にゲットしてしまったので

その記事です。

 

「大日本國防婦人會」というのが正式名称なのか?

↓のボールペンと比べると分かるが、小さな写真。

7㎝×9㎝

 

一体どういうものなのか? 不明。

活動のPRなのか。

割烹着着てる写真ばかりではなく、華やかな格好が多い。

 

絹代ちゃんは割烹着着て、日の丸の旗振って、というのが絵になる。

 

まあ、工場に託児所作って、家庭の奥さんたちに飛行機作らせていたアメリカ合衆国相手に

これでは勝てない、というのは確実にわかる。

戦前日本大好きのわたくしが言うのだから確実である(笑)

 

日本人は「応援」とか、そういう役に立たないこと好きね。

けっきょく近代国家ではないんでしょうねえ。

 

高杉早苗目当てで買ったのですが、

早苗ちゃんはこの4種類でした。

 

下の二枚は日の丸も国防婦人会のタスキもない。

ただのブロマイドである。

 

高杉早苗&桑野ミッチー

これがベストかな。

というか、これ目当てで大量の写真を買ってしまったのであった。

 

この二人が並ぶとどうしても姉妹

(吉屋信子小説のエス、「マリア様がみてる」のスール)

桑野通子:姉 高杉早苗:妹 になってしまう。

 

実際にミッチーのほうが年上なんだな。

桑野通子、1915年生まれ 高杉早苗、1918年生まれ

 

ミッチーの服装もおもしろい。

スポーティというかミリタリーっぽいというか。

ジッパーで前をとめるのか。襟は革?

 

入江たか子は、なんというのか格の違いみたいのを感じてしまう。

まあ、本当の姫さまなので。

写真からでもいい仕立ての服なんだろうな、というのがわかる。

1911年生まれか。

 

えーこのセーラー服の方が、よくわからないのですが、

千葉早智子?? かなあ。

1911年生まれ、というから入江たか子先生と同年代なのか。

明治生まれだよ。

 

ポーズといい、セーラー服の着こなしといい、

「戦前」な感じゼロ。

一瞬、吉永小百合ちゃんかとさえ思えます。

 

いや、しかし、容赦なくかわいい。

セーラー服の写真はこれだけだった。やっぱり「国防婦人会」という性格のせいか?

 

千葉早智子で正解なのか? 詳しい方教えてください。

 

女優さんじゃない可能性もあるな?

宝塚の人?? わからない。

 

原節子の写真も2枚ありまして、

ふつう、これ目当てで買うような気もするが……

 

個人的には原節ちゃんは戦後の人という勝手なイメージがあるんだよな。

戦前の原節子はなにか別人のような……

やっぱり「晩春」以降の、二十代後半が一番輝いているような気がする。

 

つづく? かな??

氷川丸の記事ちゃんと書かないと。

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