「戸田家の兄妹」の感想を書きます。
長くなりそうなので その1 その2 の2回に分けて書きます。
戦場から帰ってきた小津安二郎軍曹が撮った最初の作品。
当時のインタビューやら対談やらをみると小津安っさんの次回作に対する
周囲の期待というのは……
「本当にリアルな戦争映画」
「兵士の目から見ても納得のいく戦争映画」
であったようで、本人もなんかその方向を考えていた、…
…ようでもある。
なんつっても日本で一番才能のある映画監督が
日中戦争の最前線をくぐりぬけてきたわけである、
とうぜん大日本帝国の誰もが、それを期待するわけでして……
――なのですが、実際にできたのはこれ。
え?戦争映画…
…じゃないの??
「戸田家の兄妹」
戦争のかけらも気配さえも出てこない「豪華キャストのホームドラマ」
小津安二郎の真骨頂はここから始まります。
紀子三部作から遺作の「秋刀魚の味」まで
戦後作品はほとんどすべて「戸田家の兄妹」の変奏曲だ、といえます。
ただ違うのは、「戸田家」がとんでもなく大きなお屋敷だ、という点ですか……
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「衣」「食」「住」で感想を書くのは不可能なので、
やめにしておきます。
不可能な理由はおいおい書いていきます。
①すなおに最初からみていきます。
オープニングから不気味なのが小津安っさんです。
もうっ、ふつうにやればいいのにっ!
↓↓不気味な木を背景にいれるっ!!
左から 坪内美子(戸田家の次女綾子)
三宅邦子(戸田家の長男進一郎の嫁)
高峰三枝子(戸田家の三女節子)
②戸田家の庭では家族の記念撮影がはじまろうとしていますが、
二男の昌二郎(佐分利信)がぐずぐすして来ません。
兄貴を呼びに来る、三枝子たん。↓↓
ここらへんではっきりいってしまいますが、
「戸田家の兄妹」
これは小津安っさんによる「妹萌え映画」です。
佐分利信―高峰三枝子の近親相姦映画です。
笠智衆―原節子の近親相姦映画「晩春」の祖先にあたるわけです。
ま、あれは「親子」ですが。
佐分利信。若いな。
傘型の電気スタンドにご注目。名脇役です。
お兄さま
記念撮影なんだからお洋服じゃないとダメ、といわれてしまいます。
おなじみ「衣」テーマの登場です。
以下、お着替えシーンは涙が出るほどの完成度。
くわえて完全な「妹萌え」です。
妹「ネクタイどれ」
兄「どれでもいい」
妹「はやくなさい。はやくはやく」
妹は兄の男根(ネクタイ)を完全に支配しています。
「落第はしたけれど」の田中絹代たんを思い出しましょう。
小津映画おなじみ「すべてを知り、すべてを支配する女」です。
兄「今日はバカにきれいだね」
妹「はやくなさい」
兄「ほめてるんだぜ」
っていうか、このシーンの完成度は……
マルクス兄弟のスピード感を思い出すんですが……
「衣」テーマと「住」テーマを複雑に放り込みつつ、
兄妹の(あやしげな)関係も描き切り…
てきぱきした運動(舞踏?)が心地よく…
構図はすべてにおいて完璧、という……
二人とも…消えた…
な、なにやってんの??
も、もしかして??
え?――
あ。でてきた。ホッ……
佐分利信、洋服だ。
で、クルッとな。
今まで家の中から外を見ていたキャメラが
外から内側を狙います。↓↓
まるで手品の種明かしのように……
「はい。なにもありませんでした」
といわんばかりのショットですが、
そんなことわざわざいうから、なおのことアヤシイ兄妹です。
で、小津映画おなじみの記念撮影。
戸田家はレンガ造りの洋館+和様建築というお屋敷です。
ついでにいえば写真屋さんは谷麗光だったりする。
③記念撮影の日の夜。
「ああ。いい気持だ」
――という小津映画においてはきわめて不吉な言葉を発した父が
戸田家の家長が
案の定、死んでしまいます。急死。
で、お葬式なんですが……
帽子……「衣」だけですべてを語ってしまう、という。
このスピード感。
そして…兄妹はお屋敷の隅っこであいかわらずイチャイチャ……
失礼。
泣くなよ、とかいってなぐさめています。
お着物の女性に男物の帽子をかぶせる……
もちろん「その夜の妻」の八雲恵美子の再来です。
④ 料亭にて、佐分利信が大陸への出発を語ります。
学生時代同級生だったオッサンが、料亭で語り合う……
戦後の小津作品ではおなじみの場面。
中村伸郎とか北竜二とかがでてくるアレ。
そう考えると、佐分利信、笠智衆は戦前から同じことばっかやってるわけだ。
このシーンがすさまじいのは…
画面上にみえているのは「食」テーマなのですが、
語られている内容が徹底して「住」テーマであること。
「住」……つまり「空間」に関する話題しか語られません。
しょっぱな友人が佐分利信に声をかけるのは
「おまえいなかったんだってな」
…つまり死にゆく父親と同じ「空間」内にいなかった、
というセリフ。
それから佐分利信のセリフをひろっていっても
「いつかこのうちで親父とメシを喰ったことがあるんだ」
「親父がここで俺がそこに座って、時候も今時分で」
徹底して空間論。
そして天津への転勤を決めた、という決意も……
「俺にはもううちがないんだ」
という一言。
徹底して「住」―「空間」です。
そう考えると、友人たち三人が佐分利信の父親を回想する……
・神宮の始球式でヘマをした。
・弓道が得意だった。
・佐分利信が父親の望遠鏡を無断で売り払ってこづかいにした。
・佐分利信が父親の時計を無断で売り払ってこづかいにした。
というのも「空間」「時間」に関するテーマと見てよいようです。
お前、それはちょっとこじつけなんじゃない?
と思われる方もおられるでしょうが……
二流三流の脚本書きならばここでちょっと泣かせるエピソードとか
道徳的なエピソードとか、あるいは逆に笑わせるエピソードとかを
挿入するのではないでしょうか??
でも小津はそれをやらなかった。
「ボール」「弓」「望遠鏡」「時計」
……このチョイスは明らかに意識的なのです。
おそるべし小津安二郎。
上記のお着替えシーンにおいて「衣」と「住」のコンビネーション。
料亭シーンにおいて「食」と「住」の合わせ技。
んだが、わたくしとしてはもう一歩ひねくれた見方も提案してみたい。
◎兄・佐分利信は妹・高峰三枝子から逃げるために天津へ転勤するのではあるまいか?
父親が死んで、で「俺にはもううちがないんだ」
というわけで転勤をする。
というのは表面的な理由で……
父親が死んで、でなんの遠慮もなく「俺は妹萌えし放題になってしまう」
だから、転勤をする、のではないでしょうか?
そう考えると男たちの会話の中に出てくるのが徹底して「父」であって
「母」「妹」は排除されていたことにはなんか深い意味がありそうです。
はい。で、
⑤兄妹の別れ、です。
大陸行きが決まった
佐分利信の荷物をお母様と妹とでパッキングします。
しっかし高峰三枝子たんですが、
なんで小津作品これ一作品きりなのかしら?
動きもセリフもてきぱきしてて、たたずまいも上品で。
なんか小津ごのみな感じがしますが。
声もさすがに綺麗だし……
ただ水久保澄子、高杉早苗、そして原節子……
小津安っさんがホレちゃうのは
お目目ぱっちりなヒトだったりするわな……
あのバタ臭い顔の人たちから比べると、
純和風な顔だちです。
えー、パッキングシーンというと、
「東京物語」のオープニングを我々はどうしても思い出してしまうわけですが。
ここも「衣」テーマだけではなく
「住」テーマ……つまり空間論を語る、佐分利信です。
「いくら遠いったって飛行機にのればすぐ帰ってこられるんだし、なまじ京都あたりからガタガタ汽車で帰ってくるよりよっぽどはやいくらいなもんですよ」
まー…中国大陸で戦病死した京都人・山中貞雄のことを
どうしても思い出してしまいますが……
うーん…にしても……
↓これは……完全なる妹萌えシーン。
L字になっているトランクにご注目。
このL字で兄妹と母親は切断されています。
L字の右側で兄妹はみつめあっていまして……
おまけに…背景の障子のせいですが…
高峰三枝子が後光に包まれているようにみえる……
やばすぎます。小津安二郎。
で、妹の縁談が父親の死の影響でダメになった、というのですが……
このうしろ姿は明らかにそんなこと考えてません。
お兄さまのことしか考えてません。
兄も兄で……「俺みたいなやつ」をみつけてやる。
といいます。
妹は兄が逃げていくホントの理由がわかっているのかもしれません。
兄貴は自分のホントの理由に気づいていないっぽいですが……
はい。海外への転勤は正解だと思います。
やばすぎますもの。あなたたち。
⑥桑野通子登場。
母、妹、は、
長男一家の家に(斎藤達雄、三宅邦子)厄介になるんですが、
三宅邦子に「今日、お友達がくるんでアンタたち邪魔」
といわれて家を追い出されてしまいます。
あ。戦前の田園調布のセレブですので、
そう、はっきりとはいいませんが。
とにかく追い出されます。
それで母は長女(吉川満子)の家に
妹、高峰三枝子は銀座でお友達とランチ、というわけです。
んー、なんですけど。
小津安っさんのおそろしさ、ってのは、
リアリズムを徹底的に小馬鹿にしているところでしょうか。
一体なんなのだ?↑↑
この抽象画みたいな構図は??
「ここは銀座でございます」
なんてことは一切やらないのだ。
なんか、こう……
兄を喪った妹の心の空虚が伝わってくるような……
さっきみたL字の安定感から
この丸太ん棒が突き刺さる不安定な構図へ……
にしてもすさまじい天井だな。
料亭での男たちの会話とちょうど好対照な場面です。
「食」テーマと「住」テーマのコンビネーションというのも同じ。
桑野通子が語るのは
「ねえ、お兄さまのおうちでうまくいっているの?」
「お母さまご不自由していらっしゃるんじゃなくて?」
高峰三枝子の転居に関する話題です。
……んだがこのシーンの不気味さはなんだろう?
大スタア桑野通子登場!!
というのが一切ないんだよな。
繰り返しになるが抽象画じみているのだ。
背景が無色で、人影もまばら。ほぼ無人。
花の二三本生けておけばいいのに……それをやらない。
高峰三枝子は……
兄弟とはいえ、ひとの家で暮らすのは不自由が多いから、
「あたくしがはたらいてあなたのように お母さまと二人、別に暮らしてみたらとおもって」
という決意を語ります。
んだが、桑野通子はそれをおだやかにとめます。
わたしは父親の代から「人に使われている身分」だが
あなたは「使う方の側」よ。
「ねえ、なんか食べない?」
「安くておいしいもの」
「そう、それよ。そしてたくさんあるもの。それが大事よ」
……と、一見友達同士のなんでもない会話のようですが、
この喫茶店シーンはやっぱし不気味です。
この不気味さがなにに由来しているかというと…
たぶん…
時子(桑野通子)は、節子(高峰三枝子)の分身なのです。
節子の影、が時子。
あまりになんといいますか絵にかいたような…
それこそ吉屋信子の少女小説のヒロインみたいな…
対照的な二人。
「ブルジョア」―「プロレタリアート」
「和装」―「洋装」
「生徒」―「師匠」
この構図。
で、なんでこんな分身が登場したかというと、
それは妹は兄と結婚できないから、です。
高峰三枝子は佐分利信と結婚できない。
なので、桑野通子、なる自分と真逆の分身を生みだして
兄、佐分利信と結婚させる。めでたしめでたし。
□□□□□□□□
はいはい。
全部深読みなんでしょう。
深読みしすぎなんでしょう。
なにもかも無意味でしょう。
あるのは光と影の戯れ、だけでしょう。
でも「兄―妹」の物語でも持ってきて安心するより他ないわけです。
小津安二郎作品の不気味さには。
その2に続く。