前回、
・勇ちゃん=観客
なる謎の等式を示しただけで
証明せずに終わりました。
今回は証明していきたいとおもいます。
……が、はじめに申し上げておきますと、
しょっぱな、ちょっと退屈な話が展開するとおもいます。
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「映画の骨格をどうやって作るか?」
というのは、作家にとってものすごく大きな問題です。
これは
「観客の注意をいかに引き止めるか?」
という問題かもしれません。
その点、めちゃくちゃ上手いな~
とおもわせるのは黒澤明で……
処女作の「姿三四郎」から、
もう黒澤はクロサワしていました。
どういうことか? というと、
「映画の骨格に 神話・おとぎ話の構造を使用する」
というやり方のことです。
「姿三四郎」を例にとると――
・三四郎が柔術の強いお師匠さんを探す→父親捜し
・三四郎が師匠に「死ね!」といわれて池にとびこみ、
蓮の花の咲く光景に感動する→真理・宝物の発見
・檜垣源之助との決闘→自分の分身との対決
という具合に、「姿三四郎」は
誰でも知っている神話、おとぎ話の構造に乗っているので
どの時代のどの国の人がみてもおもしろい作品に仕上がっています。
戦後の「野良犬」はどこか
ダンテの「神曲」めいた趣があります。
闇市=地獄
志村喬の先輩刑事=ウェルギリウス
「用心棒」「椿三十郎」は
放浪する神の物語、です。
放浪する神が、危機に瀕した共同体を立て直し、そして去っていく。
まー、ミフネの場合、悪いやつを皆殺しにするんですが……
……そして、クロサワ信者のジョージ・ルーカスが
ハリウッドで作ったのが
「スター・ウォーズ」
なる、SF神話であったわけです。
これまた背骨は「父親捜し」の神話であるわけです。
父親殺し、でもあるか。
一方、小津安っさんは……
「映画の骨格をどうやって作るか?」
この問題をどう処理していたか?
初期サイレント作品は非常にはっきりしています。
「ホワイトカラーの直面する社会問題をリアリスティックに描く」
――これ一本槍です。
「東京の合唱」にしろ
「生まれてはみたけれど」にしろ
同じこと。
この姿勢が評論家に支持されたわけですが、
雇用主の松竹としては
「インテリの受けはいいが、売れない監督」
というのが正直な評価だったわけです。
「でも、インテリ向きの看板になるから飼っておくか。小津君いい奴だし」
というのがホンネだったでしょう。
では「喜八物」への転換はどうしたことだったのか?
それが1933年という……ドイツでナチス政権が誕生した年だったことは
けっこう大きな意味があったとおもえます。
小津安っさんにとって
「ホワイトカラーの直面する社会問題をリアリスティックに描く」
この方向の限界がみえてしまったのでしょう。
1933年に「社会問題」を扱うとすると……
必然的にファシズムの方向にむかうか、
逆方向のコミュニズムの方向にむかうか、
そのどちらかの選択肢しかなかった。
しかし、伝統あるブルジョワ家庭の出身でモダンボーイの彼には
右に進もうが、左に進もうが、
どちらにしろ「野暮なことはやりたくねえや」
といったところ。
バカらしく思えたのに違いありません。
「喜八物」はクロサワほど露骨ではありませんが、
神話・おとぎ話が土台にあります。
「出来ごころ」「浮草物語」
ずばり「物語」とタイトルにあるように、
ストーリーのしっかりした作品群となっています。
しかし小津安二郎はクロサワの方角には向かわず
「東京の宿」「一人息子」
で、再び社会問題を描き、そして一下士官として、戦場へ向かうわけです。
で……
小津安二郎が、
「映画の骨格に 神話・おとぎ話の構造を使用する」
「ホワイトカラーの直面する社会問題をリアリスティックに描く」
この方法にかわる、第三の方法を思いついたのは
戦場でのこと、だったような気が僕にはします。
戦場での圧倒的な体験が、彼を変えてしまった。
「社会問題」だの「神話」だの
いままでやっていたことすべてがバカらしくおもえてしまった。
以下、戦場から帰ってきて直後の小津安っさんの発言をみていきたいのですが、
小津の奴帰ったら何か変ったものを作るだろうと思うかもしれないが、現地で少しは苦労して来たから多少は変るだろうが、大体暗いものは止めることにした。同じ暗さの中にも明るさを求め、悲壮の根本のも明るさを是非盛込みたいと思う。現地では肯定の精神の下に立ったリアリズムのみで、実際あるものはあるがままに見て来た。これからはこれを映画的に再検討する。
(泰流社「小津安二郎全発言1933~1945」103ページより)
例えば、何というのか、自嘲だけれども、日本の写真は巧ますぎると思ったな。もっとぶっきらぼうな、何となく雲をつかむような、棒杭を抱いているような感じの写真があってもいいのじゃないか。総体に……
(同書121ページより)
だが最近では小手先きだとか技巧なんかから離れて、映画の本質的なものに近付こうとする気持がある。だが未だ小手先きや技巧を捨て切れず、これがちょいちょい顔を出す。その顔を出している所が一番いけないと思うんだ。
(同書127ページより)
「小手先き」のテクニックはやめたい。
「映画の本質」に近付きたい。
で、突如出現したのが「戸田家の兄妹」以下の作品群であったわけですが……
たぶん、僕が「小津の暗号」とかいって騒いでいた、
「3」「△」……
――これがキモだとおもいます。
「戸田家の兄妹」
これは……
これと言って目立った、「社会問題」は出てこない。
そして、神話・おとぎ話も出てこない。
これがおとぎ話だとしたら、
佐分利信はさいご桑野通子と結婚すべきでしょう。
あるいは高峰三枝子と近親相姦すべき……
(神話なら、フツーですもの……)
ところが逃げている。
小津安っさんが、「戸田家の兄妹」で発明した方法論。
それは……
――「幾何学、数字の純粋な運動で客を魅せる」
これだったのでしょう。
作品の冒頭からひたすら「3」「△」をみせつけるやり方。
それが無意識の運動となって、
観客をひきつける。
「戸田家」以降、小津作品がスター総出演作品になってきたのも
ここら辺が理由です。
「神話・おとぎ話」がない、
「社会問題」がない、
……あるのは純粋な運動のみ。
というのでは、さすがにお客が集まるかどうか??
というところでしょう。
われわれ観客は、
華麗なスター達……
高峰三枝子、桑野通子、原節子、月丘夢路が踊る舞踏を……
純粋な幾何学的な運動を……
小津安っさん自身のコトバで言えば、
「もっとぶっきらぼうな、何となく雲をつかむような」
作品を目にするわけです。
なので「晩春」でわたくしが「ニセの△」と呼んだ
・原節子
・笠智衆
・宇佐美淳
ですが、「ニセ」ではなかったのもしれない。
観客を「3」「△」の運動に乗せるための準備体操であったのかもしれない。
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はい。でようやく「麦秋」のおはなし。
「麦秋」はおわかりかとおもうんですが……
「神話・おとぎ話」→皆無。
です。
というか、これは「ストーリー」などといえるのか????
誰が憎み合うわけでもなく、恋愛が始まるでもなく。
大切な何かを失うわけでもなく、
大切な何かを発見するでもなく……
なーーーーーーーーーーんにも起こらない。
「おはなし」としてはものすごくダラ――――ットしています。
「麦秋」冒頭は……
・家族の朝の朝食の風景(前回ご紹介した勇ちゃんシーン)
・横須賀線の中で新聞を交換するオッサン達(笠智衆・宮口精二)
・北鎌倉駅でつまらない会話をする男女(原節子・二本柳寛)
・足の爪切りをするじいさんと孫
これは、
おはなし、ですらない。
ただ「メモ」「スケッチ」の羅列みたいです。
いっさい何の「物語」も膨らんできません。
ところがおもしろいやつにはおもしろい。
というか、「晩春」につづいて、キネマ旬報ベストテン1位。
おもしろいのは「運動」なのです。
「もっとぶっきらぼうな、何となく雲をつかむような」
われわれは
「○」そして「8」の運動に身をゆだねるわけです。
そこで用意されたのが勇ちゃんだとおもわれます。
「晩春」の服部さん(宇佐美淳)みたいなものです。
観客を運動にのせるための道具、です。
・勇ちゃん=観客
われわれ観客は、勇ちゃんになってスクリーンにもぐりこみます。
すると間宮家の全員があたたかく(?)むかえてくれる。
「グズねえ」「さっさとなさい」
といわれますが、
相手が原節子、三宅邦子なので
なんだかうれしい。
しかも、グズなのはあたりまえです。
われわれ観客はまだ、この家族の構成、
そして間宮家の構造がみえていないのですから。
紀子「勇ちゃん、お顔洗った?」
勇「洗ったよ」(と茶碗を出す)
紀子「駄目々々! ゆうべの卵、まだお口のまわりについてる」
と…「○」の提示があります。
しかも二重の「○」です。
卵。
お口のまわり。
↓↓「勇ちゃん、さっさとしなさい」
勇ちゃん=観客は、
「あ。ここが台所か」と発見します。
記憶力がいい人ならば「晩春」とほとんど同じだ。とおもいます。
勇ちゃん、顔を洗いません。
タオルを濡らして、おわり。
この無意味な行程……
「○」……
というか
勇ちゃん=観客としては
間宮家の構造がみたいだけ、ですので。
別に顔なんか洗いたくない。
このショット(前回の記事のショット9)
「○」だらけなのは見逃せない。
左端には安っさんの大好きな時計が。
で、ふたたび茶の間に戻ってくる。
紀子「もう洗って来たの?」
勇「洗ったよ、嘘だと思ったらタオル濡れてるよ」
紀子「そう。ホントかなあ?」
↓えー、念のため、勇ちゃんの無意味な円環運動を示しました。
一周し終わったあたりで、
間宮家の家族構成、家の構造なんかが
なんとなくわかってきます。
以降「○」のくりかえし。
↓前回の記事の「ショット18」で、
東山千栄子がこれ見よがしにナベの蓋をみせつけるあたり……
「○」
おまけに紀子の縁談の相手は真鍋さん……
あだ名は「ナベ」……「○」
勇ちゃんシーンがおわっても円環運動はつづく……
笠智衆、宮口精二が無言で新聞を交換する。↓↓
これなども、ま、二人の仲の良さがわかると同時に……
観客を「○」の運動に乗せているわけです。
そして爪切りシーン。
勇ちゃんはおじいちゃんに
「大好き」「大好き」「大好き」
といい、
「嫌いだよ」「大嫌いだよ」という。
あくまで「○」です。
つづいて丸の内のオフィス。
佐竹「……このごろ、コーヒー、どこがうまいんだい」
紀子「さアー……ルナなんかどうなんでしょう、西銀座の……狭い店ですけど……」
ルナ→月→○……
「麦秋」オープニングはこんな感じです。
くりかえしますと。
・神話・おとぎ話が一切ない。
・社会問題が一切ない。
・ただ「○」の運動だけがある。
この世界に観客を引き込むために
・勇ちゃん=観客
という装置を作ったわけです。
そうして「グズねえ」「さっさとしなさい」
と尻をひっぱたきながら「○」の運動に観客をひっぱりこむ。
つづいて、横須賀線の○、爪切りの○、オフィスの○……
ここで入り込んでしまえばあとはもう、映画の運動に身を任せるだけ、です。
身を任せてしまえば……
『実「うんと長くするんだよ、なア勇」
勇「うん」』
『実「勇……こい」
と勇を呼んで出てゆく。勇、ついてゆく。』
というように
・実=小津安二郎
――の完全な言いなりです。
そして……
S139 勇ちゃんのウンコ発言も……
勇が不意に立って、トコトコ出てゆく、
史子「勇ちゃん、どこ行くの?」
勇「ウンコ――」
これもずいぶん食べたらしい。みんなが明るく笑う。
これも……
勇ちゃん=観客
観客の「もう終わりだな」という感情を先取りしているといえます。
トイレを我慢しているお客もけっこういることでしょう。
□□□□□□□□
んー……
どうですかね??
・勇ちゃん=観客
ようは、後期小津に入っていけない、
なにを見ていいかわからない人たちというのは……
「ストーリー」もしくは「社会問題」
このどちらかを映画の中に見たい人たちなのだとおもいます。
ところが後期小津(「戸田家」以降の小津作品)には
純粋なリズム、運動、しかない。
(「風の中の牝雞」「東京暮色」といった失敗作にはあります。だからこそ、失敗したわけです)
「麦秋」は中でもとりわけ
「ストーリー」「社会問題」が欠如したとりとめもない内容です。
くりかえしますが……
「もっとぶっきらぼうな、何となく雲をつかむような」
なわけです。
誰が苦悩しているわけでもなく……
誰が英雄的な行動に出るわけでもない……
だからこそ小津安二郎に選ばれたのが
・勇ちゃん=観客
なる装置だったのだとおもいます。