横浜市電保存館 その2
撮りまくった写真を載せていきます。
本日は1007号車(1000型)なのですが……
まずやられちまったのは……
電車とまったく関係なく……
キリンのレトロ広告で……
か、かわええ……
黄色い帽子がちょっとアレだが……
ソックスとテニスウェアの色がそろっているのがなんともかわいい。
モデルさんは誰なのだろ??
ちとわからないな。
ご存知の方教えていただきたい。
どうでもいいが、
ピクニックにガラス瓶のジュース6本……
……重そうだな。
↑↑はい。側面はこんな感じ。
というか、マクロプラナー50㎜ さすがディストーション(歪み)ほぼゼロ……
定規を当てて書いたみたいなきっちりした構図で撮れます……
さすがカールツァイス……
あ。カメラマニア以外には意味不明のこと書きました。すみません。
この「クリーム色」&「水色」の組み合わせ。
このカラーリング
どっかで見た。
なにかの色だ。
なんだっけ? なんだったっけ? えーと……
えーと……
……と保存館の中で
ずっと考えていたのですが……
帰りに市バスに乗って
答えがあっさりわかりました。
横浜の市バスのカラーリングが 「クリーム色」&「水色」なんですね。
それで……わたくし、7年横浜にいたもので 見慣れてたってわけ。
いや、しかし、市電の色をそのまま受け継いでいるとは……
全然知りませんでした。
えーと……
ワイパー、ですよね?
↓↓このパーツは……
でもどうやって作動するのか、さっぱり想像ができない。
昔のワイパー、というと……思い出すのは、
ウォルフガング・ペーターゼン監督 「Uボート」のオープニング近く、
当時の(1941年)メルセデスのワイパー作動シーンがあったりしまして……
艦長(ユルゲン・プロホノフ)が 窓の上の方をなにかひねると……
ものすごいぎこちない感じにワイパーが動きます。
擬音にすると、
ギコッ。ズズッ。ギコッ。ズズッ。
という感じです。
とつぜんドイツ映画の画像なんか出しましたが、
昔の市電のワイパー事情、ご存知の方、ご教授願いたいところです。
んーー……ひょっとして手動だったりして??
市電保存館の解説をそのまま書き写します。
あ。
解説板を写真に撮ったのですが、1か所。
ちょうど照明が反射して文字が見えない場所がありまして……
そこだけ「〇」とごまかしてあります。↓↓
1007号車(1000型)
車種(車号):1000型(1000~1019)
車体構造:半鋼低床式ボギー車
最大寸法㎜:(長さ×幅×高さ)13400×2438×3733
定員:120人
集電様式:単、前後ポール(ビューゲル改造)
製造年/廃車年:昭和3年/昭和44年
初のボギー車。昭和3年(1928年)震災復興事業により20両購入した1000型の1台。屋根は曲面アーチを採用し、中部に入口専用扉を設けた。昭和9年(1934年)、入口の幅をつめて出入り口に改造し、昭和〇年より中部車掌を配置した。昭和26年(1951年)に再び入口専用とし、自動ドアに改造した。昭和44年(1969年)全廃となった。
――ということです。
とにかくドアの改造ばっかりやってますな。
あと、
「うーん! どうしても1000型で中部車掌を配置し始めた年代を知りたい!!!」
という方は市電保存館へ行って解説を読んでください。
すみませんね。
8系統+6系統 ということ? なのでしょう。
わからないことばかりです。
ようやく内部のご紹介。
500型に比べると 「うわ」というほど広いです。
「広い」というか「長い」のが正確か。
床がうねっているの、おわかりでしょうか。
古い市電にお詳しい方には当たり前のことなのかもしれんですが……
台車が設置されている部分――ボギー車なので前後2か所―――
が、なんか盛り上がってるんですよね。
今だったらちょっと許せないレベル。
昔は省線の電車もこんなだったのだろうか??
とにかく電車知識がないもので疑問ばっかり増えてきます。
照明器具はそれほど凝った形ではない。
単純なお饅頭型。
というか、500形が凝りすぎだったのか。
年代物の木材の色がたまりません。
↓↓制御器 というものらしいです。
右に回すと電車が加速する、とか。
背後のパーツはマイナスねじでとめてある。
↓↓いい感じのデザイン。
マイナスねじ天国の中に……
左側。禍々しき+ねじが混じってますね。
最近付け替えたんでしょう。きっと。
どうせならマイナスでやってほしかった。
↓↓これまたマイナスねじ天国。
この装置は
どうもブレーキシリンダの空気圧を示しているようです。
なんでも圧力が高い状態でブレーキをかけると 急ブレーキになってしまうんだとか。
適切な圧力に保つ必要があるらしいです。
……が。にわか仕込みの知識なので、あやしげです。
↓↓ここは……
ディテールの処理が甘いですね……
右側 歪んじゃってます。
当時のメイドインジャパン製品の質があらわれているのか?
それとも経年変化なのか??
ここもマイナスねじの嵐。
ドアを開閉する凝ったシステム。↓↓
「乗り降りを早くしろ」と書いてあります……↓↓
いい時代ですな。
床のうねりをアップで撮りました。
椅子の隅 こんなになってます。
凝ってます。
が。500形も似た感じだったので、
なにかフォーマットみたいなものがあったのかな。
最後にまた、「横浜市電が走った街 今昔」の引用。
1000形(1000~1019)20両
前述の500形と好一対の横浜に相応しい大形ボギー車だった。車体の縁の絞りと前後扉の脇の壁が落ち着いた雰囲気を出していた。馬力が弱いので登り坂は苦手だったが、大きな車体がゆっくり揺れるローリングは好きだった。中央扉は時代の要請に応じて1枚扉・2枚扉を繰り返した。中央扉の車掌はポールの操作を必要としないので、戦前はいつも女性車掌がここに乗務した。昭和23年10月1日に1000号を1020号にした。戦災車の4両は復旧した。昭和21年に1018号が生麦車庫で出荷して焼失したが復旧した。昭和45年に姿を消している。
(JTBキャンブックス、長谷川弘和著「横浜市電が走った街 今昔」163ページより)
やっぱりドアの改造について触れておられます。
あと、「ポールの操作を必要としないので、戦前はいつも女性車掌がここに……」
というのですが、
戦前の「ポール」という集電システムは 電線からはずれやすかったり、
カーブの時にいちいち操作が必要だったらしいのです。
戦後「ビューゲル」という集電システムになって、そういった七面倒くさい操作が必要なくなったようなのです。
市電保存館の記事。まだまだ続きます。