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アントニン・レーモンド作、星薬科大学本館(1924) その2

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その2です。

星薬科大学本館、

階段室の写真を載せます。

 

正確に書くと、「階段のない階段室」ということになるか?

 

んーすさまじいです。これは。

スロープ天国……スロープの嵐……

 

前回同様 荒俣先生の著書を引用。

 

星薬科大学のホール内部は、階段を持たないランプ方式(スロープ)の昇降路が延び、その両側に目を驚かすほど壮大な4枚の壁画が描かれている。これは古代日本の薬草採取をテーマにした雅やかな連作で、同校の象徴的なデコレーションになっている。製薬という営みの古さと重要さを物語り、東京の西洋館巡りを志す路上観察者には必見の物件といえる。

(ちくま文庫、荒俣宏著「大東亜科學綺譚」109ページより)

 

荒俣先生は「必見」とかおっしゃってるが……

自分は「建築」を見に行くので……

正直、壁画とか知らんわ……

 

などと訪問前 ちらっと「大東亜科學綺譚」読んで、おもったのですが――

 

壁画、ぜったい必要ですね。

 

壁画があるからこそ、空間に深みが生じていますな~

 

逆に壁画がなかったら、とか想像すると、

このスロープ天国は不気味だったかもしれない……などとおもいます。

 

どこを撮ってもけっこう絵になるのですが……

 

3階の天井はどうなのかね?

ただガラスが なんとなくはまっているだけ。↑↓

 

なんか工夫がない気がして……

ここもやっぱしステンドグラスでしょ??

ねえ、レーモンド先生。

 

そんな派手なやつじゃなくていいからさ~

 

画像だと なんだかそう見えませんが、

じっさい行くと、ちょっとがっかりしますよ。これは。

 

あとですね……

写真じゃわかりづらい点、書いておきますと……

 

スロープの角度 きつくね??

 

まあ、もともとの「星商業高校」にしろ、今の「星薬科大学」にしろ、

若者が利用する施設なんで、

スロープきつくても まあ問題はない……のでしょうが……

 

今回訪問して 驚いたのはまずそこでした。

スロープ けっこうきついのよ。

 

たぶん。

ここ、みんな広角レンズで撮るのだろうとおもう。

(わたくしもそう)

標準だとちょっと絵にならない、ので。

で、その……広角で若干引き延ばされた画像をみているから、

スロープのきつさはわからんのだとおもう。

 

しかし……

いろいろけなしましたが……

 

ディテールのきっちりしたおさまりは見ていて気持ちがいいです。

柱の上の部分も手を抜きません。

 

階段の手すりの部分。

これもみていて気持ちがいいです。

 

 

 

 

 

 

えー とくに書くこともなくなりましたので……

わたくしの手持ちの本で

レーモンド先生に触れているのを 引用しておきます。

 

レーモンドは1888年、チェコのボヘミア地方に生まれた。若くして米国に渡り、フランク・ロイド・ライトの事務所に入る。帝国ホテルのプロジェクトのために来日し、完成を待たずして独立。日本に残り、建築家として活動するようになった。第二次世界大戦の時には米国へいったん帰るが、終戦後に再び来日。リーダーズ・ダイジェスト東京支社(1951年)など、日本のモダニズム建築を主導する作品を手がけていた。

(日経BP社、磯達雄、宮沢洋共著「昭和モダン建築巡礼 東日本編」65ページより)

 

この本ではアントニン・レーモンドの作品としては

高崎の群馬音楽センター(1961)と 新潟県新発田市の新発田カトリック教会(1965)がとりあげられております。

どちらもおもしろそうだ。

 

 

 

お次。

今じゃすっかり「建築家」になってしまった

藤森照信先生の「日本の近代建築」

 

下巻の後半部分の主役は……

若き日の丹下健三、中堅村野藤吾、そしてこのアントニン・レーモンド先生だったりする。

 

 歴史主義が全盛を極め、対抗する表現派がようやく盛り上がったのと同じ時期に現われたレーモンド邸は、それまで誰も見たことのない、おそらく世界でも、姿をしていた。四角な箱がいくつも喰い合わさり、そこに長方形のパネルが垂直・水平に差し込まれただけの構成もはじめてなら、鉄筋コンクリートの壁が石もタイルも張られず、白くも塗られず、ざらざらとした地肌をむき出しにするのも驚きだった。

(中略)

 日本のモダンデザインはレーモンド邸によって世界の先端に届いたのである。

 この記念すべき作品をもたらしてくれたのは、建て主でもある建築家のアントニン・レーモンドで、彼は一八八八年チェコに生れ、キュビズムの本拠のプラハで建築を学び、後、渡米してライトの事務所に入り、大正八年、帝国ホテルの建設のために来日した。しかし、ライトのマンネリズムにあきたらず、けんか別れして独立し、当初はライト式を手がけていたが、急速にヨーロッパの新傾向に反応し、自邸のレーモンド邸を皮切りに、日本のモダニズムのリーダーの一人となり、前川国男、吉村順三を育て、日米戦争の一時期を除き日本に本拠を置いて生涯の設計活動を展開している。

(岩波新書、藤森照信著「日本の近代建築(下)―大正・昭和篇―」206~210ページより)

 

と、藤森先生大絶賛のレーモンド自邸は この星薬科大学と同時期の作品。

 

ですが、こちらは自分の家とは違って好き勝手できなかったせいか、

ばりばりのライト流ですね。

 

あと、藤森先生の本だと気になる記述は……

太平洋戦争中のレーモンドに関するきな臭い記述。

 

レーモンドは、日本での経験を買われ、米軍の日本都市空襲計画に参画し、アリゾナ砂漠に東京の下町を再現し、焼夷弾の有効性を試している。

(同書253ページより)

 

このことは、大学の職員の方の 建物ガイドでも触れられていて、

大学の方ははっきりと

「スパイ」

といっていたが……

んーそれはちとニュアンスが違うような……

 

きっと、いろんな事情があったんだとおもうよ。

 

……こうした仕事を残し、昭和一二年、レーモンドは日本を去りアメリカに向い、昭和二〇年の敗戦まで帰ってこない。昭和一二年に日本を離れた直接のきっかけはインドで仕事が生じたからだが、本当の理由は、前年、日独防共協定が結ばれ、日本がナチスと手を組んだからと思われる。レーモンドがチェコに残した五人の兄弟はすべてナチスのユダヤ人撲滅作戦によって生命を絶たれている。

(同書231~232ページより)

 

もとい、レーモンドはそういう計画にからんでいたから

自作の 星薬科大学は空襲の標的にならないですんだ。

 

……というおはなしをされていたのだが、

職員の方は それに続けて

「でも当時の爆撃の精度ってそれほど高いものともおもえないので 残ったのは偶然なのでしょう」

などといっておられました。

 

んー 僕は、

「お言葉ですが、ノルデン爆撃照準器というものがあってだな」

とアメリカ軍の精密爆撃のすさまじさを反論しようとしたのですが、やめにしました。

 

ええと、何の話だっけ。

そんなアントニン・レーモンド先生でございました。

高崎の群馬音楽センター みたくなりました。


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