えー インテリ気取りの謎めいたタイトルですが――
けっきょく「マリみて」なんですわ(笑)……
いや、今回の記事はヒッチコックなのですが……(なにいってんだ)
◎福沢祐巳の曲がったタイ=マクガフィン=〈対象a〉
「マリア様がみてる」は日本文学史上に残る傑作であること。
今野緒雪先生もまた 大文豪であることを証明すべく――(本気です)
↑↑この高尚なる(笑)公式を証明したいので、
〈マクガフィン〉
〈対象a〉
に関して まず説明したいとおもいます。
……
……ん。
説明?
……いや、ジャック・ラカンは何冊か読んだのですが……
さっぱりわからず。
なので、スラヴォイ・ジジェクの説の「紹介」だな。
はい。「紹介」です。
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まず。ヒッチコック作品を語るうえで欠かせぬ用語……
・〈マクガフィン〉
ですが、
ヒッチコック×トリュフォーの「映画術」では このように説明されております。
ヒッチコック:そう、たしかに〈マクガフィン〉はひとつの〈手〉だ。仕掛けだ。しかし、これにはおもしろい由来がある。きみも知ってのとおり、ラディヤード・キプリングという小説家はインドやアフガニスタンの国境で現地人とたたかうイギリスの軍人の話ばかり書いていた。この種の冒険小説では、いつもきまってスパイが砦の地図を盗むことが話のポイントになる。この砦の地図を盗むことを〈マクガフィン〉と言ったんだよ。
つまり、冒険小説や活劇の用語で、密書とか重要書類を盗みだすことを言うんだ。
それ以上の意味はない。
だから、ヘンに理屈っぽいやつが〈マクガフィン〉の内容や真相を解明しようとしたところで、なにもありはしないんだよ。
――(中略)――
ところで、この〈マクガフィン〉という言葉そのものの由来は何なのか。たぶんスコットランド人の名前から来ているんじゃないかと思う。こんなコントがあるんだよ。
ふたりの男が汽車のなかでこんな対話をかわした。
「棚のうえの荷物はなんだね」
とひとりがきくと、もうひとりが答えるには、
「ああ、あれか。あれはマクガフィンさ」
「マクガフィンだって? そりゃ、なんだね」
「高地地方(ハイランド)でライオンをつかまえる道具だよ」
「ライオンだって? 高地地方にはライオンなんかいないぞ」
すると、相手は、
「そうか、それじゃ、あれはマクガフィンじゃないな!」
と言ったというんだよ。
――(中略)――
トリュフォー:じつにおもしろいですね。ケッサクなアイデアですね……。まさにそれこそヒッチコック映画の妙味と言えます。
ヒッチコック:しかし、そんなわたしのやりかたに慣れてないシナリオライターと仕事をするときには、きまって、〈マクガフィン〉のことでもめるんだよ。相手は〈マクガフィン〉とは何かということにどうしても執着する。
なんでもないんだ、とわたしは言うんだよ。
たとえば、『三十九夜』だ。スパイたちの真の目的は何か。小指のない男の正体は? それに、映画の最初のほうで殺される若い女は何を求めていたのか。他人のアパートで背中を刺されて殺されるほどの重要な秘密をにぎっていたとしたら、それはいったい何なのか。
そんなことはどうでもいいんだよ。
わたしたちは映画をつくるんだからね。
プロットのための口実
が、大きくリアルになりすぎると、シナリオとしてはおもしろくても、映画としてはややこしくてわかりにくくなってしまう。
――(中略)――
トリュフォー:ヒッチコック映画の基本原理としての〈マクガフィン〉は、シリアスな意味がある必要はないどころか、
むしろデタラメでなんの意味もないほうがいい
ということですね――『バルカン超特急』のあのなんでもない小唄のメロディーみたいに。
ヒッチコック:そのとおりだ。『三十九夜』の〈マクガフィン〉というのは、要するに航空機のエンジンの製造に関する公式なわけだが、これはきちんと書式に記されたものではなく、
事実上存在しない。
(晶文社、ヒッチコック/トリュフォー「定本 映画術」125~126ページより)
以上、長々しく引用しましたが――
ようは映画のプロットを構成する出発点 それを〈マクガフィン〉といっているのですが、
それはなんでもいいし、逆に無意味ででたらめな方がいい。
というのです。
『三十九夜』(1935)の航空機エンジンの機密情報は、
それが戦車の情報だとしても爆弾の情報でも軍艦の情報でも 秘密基地の情報でも
国家元首のスキャンダル写真でもなんでもいいわけです。
たとえば次に画像を載せます
ケイリー・グラント/イングリッド・バーグマンの
『汚名』(1946)だと――
〈マクガフィン〉=ウラニウムの瓶 というわけです。
これまたヒッチコックに言わせると、たまたまウランだっただけで
ダイヤモンドだってなんだってよかった、ということになります。
(↑↑このショット……イングリッド・バーグマンのお胸をスクリーンにグラスの影が映ってますね。つくづくヘンタイですね、ヒッチコック)
またまた「定本 映画術」引用しますと――
ヒッチコックの案に納得しないプロデューサー相手の会話を回想しているのですが……
「ストーリーの土台ではなく、マクガフィンにするだけですよ」とわたしは言って、
マクガフィンというのは単にサスペンスのきっかけであり手口であって、すべてを単純にドラマチックにするための一種の口実であり仕掛けなんだから、全然気にする必要はないんだと説明してやったんだよ。
それでも納得してくれないから、
「ウラニウムがいやなら、ダイヤモンドにしましょう」とまで言ってやったんだよ。
(同書160ページより)
えー、以上、<マクガフィン>とは何か?
だいたいおわかりかとおもうので、
以下、スラヴォイ・ジジェクというおっさんの
<マクガフィン>=ジャック・ラカンの〈対象a〉
というはなしにうつります。
「ヒッチコック×ジジェク」という小難しい本の中で、ジジェク先生は
ヒッチコック映画の「対象」の三つの型を
①マクガフィン
②〈現実界〉の残滓・排泄物
③不可能な享楽の無言の具現化
とかわけのわからん分類をしているのですが――
ここは①マクガフィンだけみていきましょう。
(1)したがって最初はまずマクガフィンそのもの。
それは「まったく何でもないもの」であり、「空っぽの場所」であり、純粋な言い訳である。
その唯一の役割は物語を先に進めることである。『三十九夜』における戦闘機のエンジンの製法、『海外特派員』における海軍条約の秘密の条項、『バルカン超特急』における暗号のメロディ、『汚名』におけるウラニウムの瓶、等々。
これらは純粋な見かけである。
それ自体はまったく意味がなく、構造的必要性から、それ自体はまったく登場しない。
その重要性は純粋に自己反省的であり、他人にとって、つまり物語の主要登場人物にとってはきわめて重要だという事実の中にしか、その重要性はない。
(河出書房新社、スラヴォイ・ジジェク編「ヒッチコック×ジジェク」14~15ページより)
まあ、ヒッチコックによる解説を、かっこよく言いかえただけ、という感じですが――
さらに、ジジェク先生によると、
この〈マクガフィン〉ってやつは ジャック・ラカンがいう〈対象a〉なんだよ。というのです。
・マクガフィンは明らかに〈対象a〉、すなわち象徴的秩序の中心にある間隙であり、解釈という象徴的運動を起動する〈現実界〉の欠如・空無であり、説明・解釈されるべき〈謎〉の純粋な見せかけである。
(同書17~18ページより)
これだけだと〈対象a〉がさっぱりわからんので、
ジジェクおじさんの別の本を引用。
(わたくし、ジャック・ラカンの翻訳本を何冊か持っているので それを引用すればいいのですが
ご存知の方はご存知ですが、 ジャック・ラカン 本当の本当に意味不明なので それは不可能)
えんえん意味不明なことを書いているので ざっと読み流してください。
字を大きくしたところだけが重要なところですのでそこだけ読んでいただければよろし。
「快感原則」が躓く限界は快感原則の内部にあるのだ。この異物、すなわち「内的限界」に対するラカンの数学素はもちろん〈対象a〉である。〈対象a〉は「快感原則」の閉回路を中断し、その均衡のとれた運動を狂わせる。
――(中略)――
したがって踏み出すべき最後の一歩は、この内在的障害物をそのポジティブな次元において捉えることである。たしかに〈対象a〉は快感の円が閉じるのを妨げ、縮小不能な不快感を導入するが、心的装置はこの不快感そのものの中に、
つまり到達しえないもの、つねに失われているものの周りを永久に回り続けることに、倒錯的快感をおぼえる。
いうまでもなくこの「苦痛の中の快感」に対してラカンが与えた名前は享楽(jouissance)であり、どうしても対象に到達できないこの循環運動――この運動の真の目的は目標へといたる道程と合致する――が、フロイトのいう欲動である。
欲動の空間はこのように逆説的で曲がった空間なのである。〈対象a〉は空間内に存在する実在物ではなく、究極的には、空間そのもののもつある種の歪みに他ならない。
このゆがみのせいで、われわれはまっすぐに対象に到達しようとするとかならず曲がらなくてはならないのだ。ラカンが宮廷恋愛の逆説にあれほど魅了されたのは、この歪みのためである。貴婦人は欲望の空間を歪める逆説的な対象であり、自分へと至る道として、無限の迂回と試練を差し出す。より厳密にいえば、貴婦人それ自身は何者でもなく、
欲望の空間の歪みを体現している純粋な見かけにしかすぎない。
(筑摩書房、スラヴォイ・ジジェク著「汝の症候を楽しめ」84~85ページより)
まあ、わけのわからんことは一旦ほっときまして……
ヒッチコックに戻りまして――
「北北西に進路を取れ」(1959)ですがね――
ケイリー・グラントが演じる ロジャー・O・ソーンヒル という主人公は
アメリカ政府の防諜機関がでっちあげた不在の人物「ジョージ・カプラン」に間違われることで 物語が動くのですが……
食堂車での エヴァ・マリー・セイント との会話。
「真ん中のOは何なの?」
「ゼロさ」
まあ、おしゃれな会話の一種としてあるわけですけど、
はからずも
「ゼロの男(ソーンヒル)」が「ゼロの男(カプラン)」になる、というあたりを見事に表現しているわけです。
このゼロをめぐって アメリカ政府の機関(エヴァ・マリー・セイントはその一員)
敵国のスパイ(ジェームズ・メイスンたち) が物語をくり広げる。
ジジェク先生の小難しい用語でいうと、彼らは……
つまり到達しえないもの、つねに失われているものの周りを永久に回り続けることに、倒錯的快感をおぼえる。
これは観客たちも同様なのでしょう。
カプラン=〈対象a〉=
空間そのもののもつある種の歪み
というわけです。
空っぽの空間の歪みのまわりを
ケイリー・グラント エヴァ・マリー・セイント ジェームズ・メイスンはぐるぐる回り続けるわけです。
この O の話の直後――
エヴァ・マリー・セイントが自分のコンパートメントの番号を ケイリー・グラントに教えるところ
なんかエロエロな会話がありますが……
ヒッチコックファンにとって神聖なる 「39」が登場するあたり 芸が細かい。
(The 39 Steps 『三十九夜』)
39+0+1
で、いろいろあってラスト、ラシュモア山のシーンで
『三十九夜』 のマデリン・キャロルの あのストッキングの脚の引用があり――
(エヴァ・マリー・セイントの脚を撮りたいがためにこのシーンがあるという気さえする)
ケイリー・グラントがもっているのは
機密情報のマイクロフィルムがはいった像……
もうおわかりですね。
例の〈マクガフィン〉=〈対象a〉です。
「0」の男が 空っぽの空間の歪みを持って
歪みまくった空間(ラシュモア山))を歩き回っている、という構図です。
「汝の症候を楽しめ」で、 ジジェク先生が 〈対象a〉をアインシュタインの理論にからめて解説しているんですが
理系の方にはこっちのほうがわかりやすいかもしれない。
相対性理論が達成した決定的な一歩については、誰もが知っている。すなわち、物が空間を「曲げる」「歪ませる」という理論から、われわれが「物」と呼んでいるものは空間の湾曲にしかすぎないという理論への一歩である。これと同じように考えれば、
〈対象a〉は純粋な形式である
というラカンの主張も理解することができよう。
〈対象a〉は、ポジティブな実体(たとえば宮廷恋愛における貴婦人)に見えるにもかかわらず、欲望の道を狂わせる湾曲のポジティブで物質的な原因などではなく、欲望の空間の歪んだ構造そのものが幻として現実化したものである。
そして、精神分析の認める唯一の「実体」(「物質」)は享楽であるから、享楽とは究極的に、快/不快の空間の純粋に形式的湾曲に他ならないといえる。この湾曲のせいで、われわれは不快そのものによって快感を得るのである。
(同書294ページより)
補足しておくと――
「重力」というものを ニュートンは「万有引力」…… 万物は引きつけあう。引力を持っている。 というのですが、
アインシュタインによると 「重力」=「空間の歪み」になるのです。
となると このポロポロと悪い連中が落っこちていくラシュモア山。
そしてケイリー・グラント&エヴァ・マリー・セイントのカップルも吸い込まれそうになるラシュモア山。
まるで巨大なブラックホール=空間の歪みに見えて来るから不思議です。
□□□□□□□□
以上。
ヒッチコックの〈マクガフィン〉=ラカンの〈対象a〉
というあたり、スラヴォイ・ジジェク先生の著書の受け売りを えんえん書き写しました。
次回。これを神聖なる「マリア様がみてる」に応用し、
福沢祐巳ちゃんの曲がったタイ=〈マクガフィン〉=〈対象a〉
であり、
小笠原祥子さまは 〈対象a〉=空っぽの空間の歪みに恋してしまったのだ、
というあたり見ていきたいと思います。