小津安二郎の「浮草」(1959)には、
京マチ子の「顔」
……をめぐって以下の3法則があるのではないか?
という記事。
3回目です。
3法則とは。
「S96 楽屋口」以前……
法則①京マチ子は、中村鴈治郎に対して常に「左側の顔」(やさしい顔)を向けている。
法則②京マチ子は、中村鴈治郎以外の人物に対して常に「右側の顔」(きびしい顔)を向けている。
「S97 人のない客席」以降……
法則③京マチ子は、誰に対しても常に「左側の顔」(やさしい顔)を向けている。
以上となります。
――……なのですが、厳密にいうと
法則①がなりたつのは S8~S71の途中まで 及び S119~S120 となります。
あと
S71の途中からS97まで
法則④京マチ子は、中村鴈治郎に対して常に真正面を向いている。
この法則も必要になるかもしれません。
見切り発車で書き始めてしまったので
なんかバタバタしてすみません。
□□□□□□□□
今回は一番有名な あのシーンから。
S74 倉庫などのある横丁
雨の中を、駒十郎とすみ子が見合っている。
京マチ子たん 鴈治郎さん
両者の頭は対角線に接しております。
そして傘は「赤」でなくてはならない。
DVD所収の撮影風景。
セットおよび雨を降らせる道具。
パイプを長方形状に組んだ道具、ですな。
これが大映オリジナルの道具なのか?
映画界共通の……雨といったら「これ」でしょ、というメジャーな道具なのか??
ご存知の方がおられたら
教えていただきたいものです。
最近CSの衛星劇場で 寅さんの撮影風景のドキュメンタリーをみたが、
あれはホースから直接ジャブジャブ雨を降らせていたような記憶がある。
でも、セットじゃなくて あれはロケだったな。
もとい、
このシーンに関する 宮川一夫先生の証言。
宮川=雨の街で鴈治郎さんと京さんがけんかする長い場面ですが、ワンカットで全部ガラガラまわしちゃったんです。そんな撮り方は一ぺんもしたことなかったという。
下河原友雄=小津映画には珍しいオクターブの高い演技のシーンだった。
佐藤忠男=でもあそこはカットバックでしょう?
宮川=引きっぱなしで全部撮っちゃって後からカットバック用をいくつか撮って入れたんです。小津先生としては、そういう撮影スタイルはないんじゃないですか。でも、あの場面はその方が面白いことになると思って提案したら直ぐ乗っちゃった。
(蛮友社「小津安二郎・人と仕事」311ページより)
と、溝さん……溝口健二みたいな1シーン1カットで撮ったらしいのです。
まあ、会話は丁寧にカットバックするわけですけど。
で、まあ、わたくしの興味もカットバックのところにしかないわけですが。
駒十郎「この阿呆! 馬鹿ッたれ! 何が何ンじゃい! ええ加減にさらせ!」
すみ子「何が何やッ!」
法則①のとおり、つねに「左側の顔」(やさしい顔)を鴈治郎さんに向けていた京マチ子。
それがS71の一瞬の会話
「どこ行くんや」
「お礼言うとくんや、あんたの旦那に」
ここで真正面のカットバックになり、
法則④京マチ子は、中村鴈治郎に対して常に真正面を向いている。
という法則④が発動し始めます。
でS74の 雨の中の大げんかで えんえん真正面のカットバックをくり広げる。という流れです。
京マチ子の「顔」
をめぐって実に丁寧な作りをしております。
以下、このシーン やりとりが長いので
適当なところを二、三とりあげます。
すみ子「フン、偉そうに! 言うことだけは立派やな!」
駒十郎「ぬかしやがったな!」
すみ子「ぬかしたらどうやって言うんや!」
すみ子、睨み返している。
驚くのは、京マチ子たんの表情のバリエーションの豊富さ、でしょうかね。
原節ちゃんあたりだと こうはいかないでしょう。
あと くるくる表情がかわる、というところでは「東京の女」(1933)の岡田嘉子を思いだしたりもします。
俳優の演技で作品を引っ張る、ということを 小津はあまりやらないので、
そういう意味でも特異なシーンだったのでしょう。「浮草」S74は。
大喧嘩が終わりまして
S77 二階(楽屋)
すみ子と加代「野崎村」のお光お染のこしらえで、鏡台に向っている。
↑法則②のとおりで 京マチ子は右側の顔(きびしい顔)を 若尾文子たんに向けております。
これは戦前の「浮草物語」の配置とは真逆↓↓
戦前サイレントの、ねっとりとどこか淫靡な雰囲気に比べて
戦後のカラー作品はカラッとしてますね。
撮影風景。
小津安っさん、何を見ているのかな。
健康そのものの雰囲気。
とても「晩年」の姿とはみえない。
すみ子「――なァ、加代ちゃん、あんたに頼みがあンのやけどね」
対角線。
戦前(1934)の坪内美子たんは 裸足の足をみせていたが、
戦後(1959)の若尾文子はそんなことはしない。
構図も含めて なにもかもキチッとしている印象。
ただ、あたりまえなのですが、1959年の作品のほうは トーキーですのでね。
若尾文子たんがロリータ顔のくせに 妙に色っぽい声を出すというのが
なんともエロい。
なにが言いたいのかというと、
きっちりした構図+足を見せない というS77ですが、
それでもエロ声のせいで いい意味で破綻している ということが言いたいのだとおもいます(笑)
加代(すみ子見て)「なに?」
そういえば 坪内美子という人も ベビーフェイスのくせに妙に色っぽい声の女優さんだったな。
1934年の「浮草物語」……もちろんサイレントなわけですが、
坪内美子→若尾文子というのは 実に正当な後継者を選んだという気がします。
すみ子「ここの郵便局にな、若い男の人がおるんや。……
対角線。
……清さん言うてな、ちょっとええ男――」
で、
「あんた、その人に会うてな、ちょっと誘いかけてみてンか」
というはなしになります。
加代「うちにやれるかなァ、そんなこと……」
すみ子「出来るよう。そやから頼むンや。あんたがニッコリして白い歯みせたら、海老でも章魚でも岸ィ寄ってくるわ」
このセリフはリズムもテンポも良くて、しかも海辺の話ということもあって上手いですね。
でも 戦前の「浮草物語」S54
おたか「お前さんの可愛い目で睨めば、大がいの男はお弁当持って追っかけて来るよ」
というセリフも秀逸。
加代「もろとこ、おおきに」
戦前の「浮草物語」はこのコトバに対応するセリフはない。
「いただきます」とか「ありがとうございます」とか
江戸弁でそういうことをいうといやらしくなってしまうからではないか?
その点、関西弁だと
「おおきに」と、
お金に対してきわめて明るく処理できるので
じつに便利なコトバである。
すみ子「ほンなら、明日な」
とひたすら「右側の顔」(きびしい顔)をみせつけてくる京マチ子です。
で、S78からS90まで
京マチ子はまったく登場しませんで
お話の中心は 若尾文子&川口浩 若い二人のラブストーリーとなります。
(小津映画のくせに なにかというとキスをする(笑))
で、S94で 鴈治郎さんが 若い二人が「デキてる」ことを発見。
で、問題のS97になります。
これは本当にすごいシーンで……
シーンの途中、京マチ子&中村鴈治郎が格闘、もつれあって
二人の位置がドンデンを返すところがあるのですが、
そこで照明の雰囲気を180度変えているのですよね。
S97の前半
京マチ子の「左側の顔」(やさしい顔)に照明を当てている↓↓
(注)あと、背景の「幕」および「座ぶとん」というワードの柔らかいイメージも
これは考え抜かれているのではないか??↓↓
で、
ドンデンを返しまして
S97の後半
京マチ子の「右側の顔」(きびしい顔)に照明を当てている↓↓
(注)背景はうって変わって硬質なイメージなんである↓↓
じつに丁寧な作り。
宮川一夫先生さすが。
そんなS97を見ていきましょう。
S97 人のいない客席(土間)
すみ子(冷たく)「何ぞ用?」
駒十郎「ちょっとこっち来い!」
すみ子「なんやね?」
と傍に寄る。駒十郎、いきなり引き寄せて殴りつける。
というバイオレンスシーン↓↓
駒十郎「このアマ、わいの倅をどうしよッちゅうんじゃッ! おのれ、どうしよッちゅうんじゃッ!、わいの倅をッ!」
ここらへん。駒十郎が激怒する理由が正直今の観客……わたくしにはわからない。
戦前の坪内美子だと タバコを吸い慣れてて すれっからしの不良っぽい雰囲気で
あと、まあ戦前の価値観(芸人=賤民)というのもあるだろうし、
理解出来るのだが。
「浮草」の若尾文子はそんな不良には描かれてないのよね。
まあ、川口浩に会ってすぐ ブチューっとキスしちゃうビッチではあるわけだが。
同時代の観客も違和感があったのではあるまいか。
このあたり この作品はファンタジー色が強い、というべきなのか。
全集のシナリオをみますと
一座の作家の杉山君というのが どうも加代ちゃん(若尾文子)に気があるように描かれていて
しかし、実際のプリントを見ると 杉山君うんぬんはまったく反映されていない。
そのあたり 1934年の作品を1959年にリメイクしようとする試行錯誤がうかがえたりもします。
すみ子(振放して、ふてくされ)「フン、お前さんの息子のことなんぞ知るもんかィ! 偉い息子さんや! 女役者イロに持って!」
まあ、ここらへんの価値観も理解不能なわけです。
若尾文子が彼女でおめでたいではないですか。としか思えない(笑)
ファンタジーとして見るべきなのでしょう。
しかし、当ブログの興味は
画面上に起こっていることがメインなもので。
対角線。
すみ子(冷笑して)「口惜しいか、フン、たんと口惜しがるがええわ!」
駒十郎、肩で息をしている。
という、小津作品でよくあるやつ。
このあと、土間を出て行く鴈治郎さんに京マチ子が追いすがるというところ……
で、またバイオレンスがあります。
駒十郎、身を翻して去る。
すみ子、途端に気を変えて追い縋る。
すみ子「待って、あんた!」
駒十郎「なんじゃイ! 放せ!」
ここでクルッと 二人の位置が180度変わりまして
背景・照明の雰囲気がガラッと変わるんですね。
おもしろいですね。
そしてすみ子=京マチ子の態度もガラッと変わります。
すばらしいです。
すみ子「お前さん、そんなにうちが邪魔なンか?」
駒十郎「何ィ?」
すみ子「うちの身にもなってみて。なァ、これでうちとあんたは五分五分やないか。なァ、もうええ加減に機嫌直してェな」
「なァ、ええやないか。仲直りしよ。芝居の方もご難やし、なァ、もう、どたん場まで来とるんやないか、ねえ」
駒十郎「やめとけッ! ウダウダ言うなッ、今更なんじゃいッ! 泣きごというなッ! 泣きごと!」
と見向きもせずに去る。
すみ子「あんた! 親方!」
そしてそのままそこにうずくまってじっと考えこむ。
対角線。
シーンのはじまりとおわりは 必ず芸術的なショットでなければならない。
と小津はいっていたそうで……
となると「芸術的」とはなにか?
ということになってきますが、
小津にとっては「幾何学的」ということと同義語なのかと思います。
もとい、
「S97 人のない客席」以降……
法則③京マチ子は、誰に対しても常に「左側の顔」(やさしい顔)を向けている。
ということで、
このショット以降、われわれは 京マチ子たんの「左側の顔」だけを見ることになります。
「右側の顔」は一切見せません。
S99 「梅廼屋」の店
三井弘次、潮万太郎、田中春男……一座の脂ぎった面々が呑んでいるところに
京マチ子がふらっとやってきます。
すみ子が這入ってくる。三人には気が付かず、
すみ子「小父さん、熱いの一本つけて」
と土間の卓に着き、何か暗く考えこんでいる。
これもまた「対角線」とみていいでしょう。
仙太郎「姐さん、いらっしゃい」
すみ子「アア、あんたたち、来とッたんか」
ここが実に驚くべきショットなのは、
今まで駒十郎にしか見せていなかった「左側の顔」(やさしい顔)を
一座の面々にみせている、ということです↓↓
先ほどのS97の ぐるっとドンデンを返したところ以降で、
京マチ子をめぐる演技プランはまったく姿を変えるということになります。
吉之助「先乗りからまだ音沙汰ありませんかィ」
このあと一座の金を持ち逃げする吉之助=三井弘次は――
戦前の「浮草物語」では 信吉役……
一座の座長、坂本武の隠し子の役を演じていたあたり、
なんとも性格が悪い小津安っさんです。
先ほど「シナリオの不自然さ」というのを書きましたが、
小津にはそんなことはどうでもよくて、
画面上の幾何学ゲームである、とか、
かつてのお気に入りのキャスト三井弘次をめぐるアイロニーとか、
そういうことがおもしろかったのでしょう。
すみ子「うん、……」
「……なんとも……」
ひとり暗く考えこんでいるすみ子――
記事の本筋とは関係ないですが、
このペンダントライト↓↓
軽井沢の三笠ホテルでみたペンダントライトに似てるな、などと思いました。
写真は女の子の幽霊が出る、とかいう部屋ですが↓↓
特に深い意味はないです。
金魚鉢をひっくりかえしたみたいな形です。
ピンク色はどうも「金」を使って出すらしいですな。
(三笠ホテルの解説に書いてあった)
万平ホテルまた行きてぇな……
野菜おいしかったな。
閑話休題。
以降、京マチ子はまったくセリフがなく、
ただ「左側の顔」をみせる、というシーンが続きます。
S101 客席
三井弘次が金を持ち逃げして 一座は解散、というシーンですが、
まったくセリフはありません。
S103 二階(楽屋)
別れの宴ですが、まったくセリフはなし。
仙太郎(すみ子に)「アア、姐さんもこっちィ来て、やって下さいよ」
潮万太郎の呼びかけにも無言です。
当然ながら 「左側の顔」を向けています。
んで、若尾文子&川口浩のゴタゴタが描かれますが、
そこは京マチ子たんが登場しませんので飛ばしまして
一気にラストシーン。
S119 駅の入口
駒十郎が来る。切符売り場の窓口に「暫くお待ち下さい」と書いた札が出ているので、そのままそこのベンチに腰をおろそうとしてふと見ると――
その待合室の片隅にすみ子がしょんぼり腰かけて、じっと見ている。
とうぜん 京マチ子がみせるのは「左側の顔」……
ふと、思ってしまったのだが、
1934年の作品をリメイクするにあたり、小津&野田がやるべきだったのは
性・ジェンダーをひっくり返すことだったのではないだろうか?
などともおもう。
京マチ子を座長に据えて――というわけにはいかなかっただろうか?
いかないよな。明治生まれの連中にそれは要求できないな。
清水宏あたりだと 平気でそういうことをやってのけそうな気もするが。
清水作品になると、当然こんなきっちりした作品にはならないわけで。
駒十郎、気まずい顔で、そのまま腰をおろし、タバコを銜えるが、マッチが見付からず、探す。
すみ子、黙って立って来て、マッチを擦って出す。
駒十郎、変な顔で見返し、また探す。
すみ子、マッチが短かくなって捨て、二本目を擦って出す。
駒十郎、吸いつける。
――という、美しいラブシーン。
京マチ子の立ち姿がなんともあでやかです。
京マチ子でないとこうはいかなかったでしょうねえ。
これはDVD所収の演技指導↓↓
俳優さん、
ミゾグチとは真逆で すべて小津の指示通りに動きます。
すみ子、並んで腰かける。
安定の二人の並び方が復活します。
すみ子(吸いつけて返し)「ねえ、どこいきなはんの?」
と、「どこ」という「空間論」です。
「ねえ、よりを戻して」「また一緒にやっていきましょう」
なんていうんじゃないんです。
小津のシナリオはあくまで「空間」を語るのです。
駒十郎「――桑名の……カネヨシの旦那にでも泣きついてみよかと思うとンのやけど……」
桑名、というから
伊勢松阪出身の小津家にとってはなじみ深い地名でしょう。
駒十郎「――もう一旗あげてみよか……」
すみ子「うん。やりましょ。やろ、やろ」
S120 夜汽車の中
ねむりこけている各種各様の乗客――
駒十郎とすみ子が向い合って、一つの駅弁のおかずを二人で突っつきながら瓶詰を呑んでいる。
戦前の「浮草物語」では
真逆の並び方になります↓↓
たぶん――
これはセットだな。この客車は。
そのあたり、厚田雄春先生は 「あーあ」と思ったかもしれない。
厚田さんなら実物にこだわっただろう。
というか、他社作品だから 小津も遠慮して セットですませたのだろう。
――と、
京マチ子の「顔」
をめぐる「浮草」の分析。終わります。