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「マイナス・ゼロ」・銀座三越の噴水・銀座エスキモー・シロモの免許証

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以下、めちゃくちゃな内容の記事ですが――

 

まずは――

小林彰太郎「昭和の日本 自動車見聞録」という本をながめていて

広瀬正「マイナス・ゼロ」の意味不明だったディテールがようやく理解できた。

というはなし。

 

美しい、美しすぎる夜景ショットですが↓↓

 

撮影者、影山光洋先生。

(というか、こんな ザ・写真家という名前の人 他にいないな)

朝日新聞本社ビル屋上から撮った銀座の夜景。

1932年(昭和7)7月。

 

シャッタースピード2~3秒でしょうかねえ?

時刻は何時頃なのか?

まだ街は明るいので6時、7時なんでしょうか? 

 

左側もちろん服部時計店(和光)の時計塔がありまして

右奥でピカピカ輝くのは松坂屋なのでしょう。

 

細部まで鮮明に写ってます。独逸製のレンズでしょうか?

 

話があちこちにとびますが

朝日新聞本社ビルは アサヒグラフ1927年(昭和2)4月20日号に

これ見よがしに載っております↓↓

まあ、戦前の気骨ある時代の「朝日」だから許してやろう。

 

ここから影山光洋は撮ったわけです。

影山先生は朝日の社員でした。

 

広瀬正「マイナス・ゼロ」のはなしに戻ります。

「マイナス・ゼロ」はタイムスリップもので、1963年の世界の青年が 1932年(昭和7)の世界を訪れます。

 

 工事場のような音がしたので、俊夫はおどろいて見上げた。音は、目の前の和光……服部時計店のビルからだった。つまり、服部時計店は目下工事中なのである。未完成のビルが多い。新宿から銀座へ来る間に市電の窓から見えた警視庁のとなりのビル――あとで内務省とわかった――や日本劇場なども工事中だった。昭和七年はオリンピックの年だが、開催地は海の向こうのロサンゼルスだから、べつにそれに間に合わすためとも思えない。やはり青嵐市長お声がかりの「伸び行く東京」を実践しているのだろう。

 服部時計店の向かい側の三越の建物も真新しい。屋上に鳥かごのような骨組が見えるので、俊夫は展望台でも建築中なのかと思ったが、あとでこれは噴水型のイルミネーションとわかった。

 五丁目の角はエビスビヤホール。こちら側の三愛の場所にあるキリンビヤホールと相対峙している。

(集英社文庫、広瀬正著「マイナス・ゼロ」187-188ページより)

 

 俊夫が、銀座四丁目の角でタクシーを降りたとき、服部時計店の大時計がちょうど鳴り出した。

 服部の新館は、六月に開店していた。その、真新しい、八時を指した時計が、夜空に浮かび上がっている。

 時計の音は、教会の鐘の音に似ていた。元の世界によくあるような、電気的に増幅された音でなく、澄んだ美しい音色だった。

 (中略)

 三越の屋上に、噴水型のイルミネーションが、五色の光を撒いている。

(同書265ページより)

 

この「鳥かご」「噴水」がさっぱり意味がわからなかったのですが――

 

ようやくわかりました。

ははん。なるほどこういうものですか。

おそらく上から流れ落ちるようなイメージで 電球が点滅していたのでしょう↓↓

 

そして向かい側の光まばゆい建物が エビスビヤホールおよびキリンビヤホールなのでしょう。

エビスビヤホールは、1931年(昭和6)8月オープンらしく、

それ以前は 名高い「カフェー・ライオン」でした。

 

今和次郎「新版大東京案内」(1928)

安藤更生「銀座細見」(1931)

の記述だと、三越の真向かいは「カフエ・ライオン」となっていますので、

「マイナス・ゼロ」の記述は 一瞬「間違いかな??」「ライオンじゃね??」と戸惑うのですが、

さすが広瀬正の記述は正解のようです。

 

1932年にはここは 「ライオンヱビスビヤホール」だったわけです。

 

三越の屋上のイルミネーションは……

わたくしの手持ちの資料ですと 博文館「大東京寫眞案内」(1933)にも登場するんですが、

 

昼の写真なのでなにがなんだかわからない↓↓

ただの鳥かご。

 

影山先生の夜景写真ではじめて

「マイナス・ゼロ」の意味不明な記述がわかったという次第です。

 

個人的には

銀座-服部の時計 というと連想するのは、「全日記小津安二郎」

1933年(昭和8)

6月6日(火)

 服部の大時計が八時を打つた

 竹葉のよしの戸から銀座の夜の町が美しい

 九時がなつて one hour with you だ

9月20日(水)

 昨夜 さむざむとした藁ぶとんの寝台で夢をみた

 服部の大時計の見える銀座の二階で

 僕がビールをのんで グリーンのアフタヌンの下であの子はすんなりと脚を重ねてゐた夢だ

 

 竹葉というからウナギでしょうか。

 どうも小津安っさん含めて 男性三人 女性二人で食事をしているようです。

 女性二人は 逢初夢子↓↓

 

そして水久保澄子。

 

青年・小津安二郎は 水久保澄子たんしか見てなかったかとおもわれますが―――↓↓

 

なぜ水久保澄子はグリーンのアフタヌーンドレス姿なんでしょう?

撮影の衣装なのかな?

(小津の作品の衣装ではない。「非常線の女」の撮影はもう終わってますし、そもそも洋装するシーンはない)

 

見つめ合う(?)二人の頭上では 三越の噴水型のイルミネーションが輝いていたはずですが、

残念ながら その描写は小津の日記にはありません。

 

□□□□□□□□

はなしがあちこち飛びます。

「エスキモー問題」です。

 

またまた「全日記小津安二郎」

1933年(昭和8)

11月7日(火)

▲ヱスキモで東洋の母のストリーの相談

12月29日(金)

皇太子 継宮 明仁親王と御命名

夕方清水から電話でヱスキモで会ふ

 

と、小津の日記にたびたび登場し、

そして、ツヤコお嬢さま、こと 三宅艶子「ハイカラ食いしんぼう記」にも登場する銀座の「エスキモー」です。

 

そんな「エスキモー」が最近買いました

教育評論社、「東京名物 食べある記 〈復刻〉」にも出てきましたので報告いたします。

 

1929年(昭和4)の本の復刻版らしいのですが、

エスキモーの描写は――なんと散々です……

 

 夏向きの名のエスキーモへ飛込む、入口はロンドン辺のドラッグストアを想い浮べさせる構えだ、夜は比較的感じの宜い(よい)店なのだが、昼間入って見て案外なのに驚いた。全体の感じが薄暗い、それが落付いた気分を出させるなら格別そうでないんだから、取柄が無い、サーヴィスもすっかり客に慣れ過ぎて、投げている調子がある、新らしい店がどんどん出来て来て、客の新陳代謝の激しい銀座だ、サボっていると追い越されて了いますよ(しまいますよ)、註文品二度三度と聞き直されて漸く通じる。

 久「此の店は皿や其他の器物が不潔でね、ホラ見給え、この皿の廻りの脂の附き方、食欲が何処かへ飛んでって了った、ハムサラダ(六十銭)はハムは上等だがサラダは味の変り易いマイヨネーズソースを使っているので、この温気(うんき)に戴きかねる」

(教育評論社、「東京名物 食べある記 〈復刻〉」5-6ページより)

 

店が暗い、サービスがなってない、皿がきたねえ、夏にマヨネーズとか信じられねえ、ともうクレームの嵐です。

新聞記事でこれをやっちゃうんですから、立派なクレーマーでしょう。

1929年というと 同時期にツヤコお嬢さま(←勝手にトマスがそう呼んでいるだけである)も

エスキモーに入り浸っていたはずだが、そんなことは一言もおっしゃっていない。

 

時期が少しはずれるが 1933年の小津も そんな店をわざわざ利用するだろうか?

小津安二郎にしろ、清水宏にしろ、かなりのうるさ型だとおもうけど……

 

たぶん……ワイロというか、マージンというか、それ次第だったんじゃないか?

とすら疑ってしまうトマス・ピンコであった。

 

そうそう。店名はやはり判然としません。

 

・三宅艶子(ツヤコお嬢さま)「ハイカラ食いしんぼう記」→エスキモー

・「全日記小津安二郎」→ヱスキモ

・今和次郎「新版大東京案内」・安藤更生「銀座細見」→エスキーモ

と、見事にバラけております。

 

ただ……今和次郎・安藤更生と どちらもインテリの学者先生が「エスキーモ」と言っているのは気になる。

別にツヤコお嬢さまや小津安っさんが信用ならない、ということではなくて

アカデミックな訓練を受けている今・安藤両者の方がこういうデータでは信頼できるのではないか?

ということをおもったわけです。

そして、上記のクレーマー野郎も「エスキーモ」といっているんだよな。

「エスキーモ」が正しいんじゃないのかな??

 

えー

これだけだと記事の内容が寂しいので

1920年代1930年代つながりで――

 

復刻版アサヒグラフの気になる写真を載せてみる。

 

1927年(昭和2)6月8日号↓↓

断髪……バブドヘアーに和装。

 

この姐さんは今の銀座を歩かせてもカッコイイ。

 

1929(昭和4)8月7日号

流行語となる「大学は出たけれど」

 

小津安二郎氏監督のモダン・コメデイ。

 

1929年(昭和4)6月19日号

「夏の流行 海水着」

モデルは松竹蒲田の女優さんらしい。

気になったのは傘……パラソルで……

 

清水宏「港の日本娘」(1933)↓↓

及川道子&逢初夢子が ヘンテコな傘をさしているんだが、

アサヒグラフの復刻版をみるかぎり あちこちにこういうパラソルをさした女性がでてくるので

そう突飛なものでもなかったようなのである。

 

ちなみに二人は横浜のチャブ屋の娘、という設定。

今風にいうと風俗嬢です。

 

で、ツェッペリン。

1929年(昭和4)8月28日号。

 

海軍軍人の未亡人だったひい祖母ちゃんが

ツェッペリンが霞ケ浦にきたときのことを話してくれたっけ。

 

ひい祖父さんは霞ケ浦の航空隊にいたから特等席でみれたのかもしれない(?)

 

 

□□□□□□□□

ついでのついで……

余計な付け足し。

 

PUIPUIモルカーのブルーレイのおまけ。

ポテトの「ぬいぐるみマルチスタンド」です。

T子さんにとりあげられる前に写真を撮っておく。

 

おしりがかわいい。

 

 

 

スマホをさしたところ。

 

上からみたところ。

 

引っくり返したところ。

 

タワーレコードの通販で買ったのだが、

シロモの免許証がついてきた!

 

交付……7月28日

さっきちらっと書いた 海軍の飛行機乗りのひい祖父さんが鹿屋で戦死した日なので

妙な縁を感じる。

――と、ムリヤリ ツェッペリンと話をつなげようとする。

 

んーだが、

1920年代1930年代にこだわるわたくしは……

海軍パイロットの曾祖父に会いたくて この時代を調べているんだろうか??

など、ともおもう。

 

はじめ何の意味だかわからなかったのだが↓↓

やっとわかって爆笑した(笑)

 

シロモ 2/9にゾンビになって

3/9に元の姿に戻ったのか!

 

以上、めちゃくちゃな内容でした。


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