戦前のアサヒグラフがあまりにおもしろいので、
戦前から活躍している写真家の写真集を、
これからちびちび集めてみるか、などとおもいまして――
(ほんとうは一気に大人買いしたいのだが、なにぶん一冊一冊高いのでムリ)
まずは「木村伊兵衛写真全集昭和時代 第一巻[大正十四年~昭和二十年]」
を買ってみた。
これはすんばらしい写真集ではあったが、
自分のメインの興味(昭和初めの都市生活の様相)からすると、ハズレだった。
それは、まあ、考えてみれば当たり前で
いわゆる「いい写真」を撮るためには いろいろと削ったり切り離したりしなければならない要素があるわけで、
しかし、
自分なんぞが一番興味があるのは、そういった一流写真家が削ってしまう部分だったりするわけです。
しかししかし――
1935~1936年あたりの撮影だろうという「煙草屋」↓↓
これは完璧な「写真」「作品」であると同時に、トマス・ピンコの興味も満たしてくれる
すさまじい作品だとおもいました。
まず「写真」「作品」として……
・寅さんのタコ社長みたいな店のオヤジと、ハイパーモダンなマダム(昭和10年ですぞ!)の対比が美しい。
・マダムの軽く体をひねった姿勢。動きがある姿勢(右足の動き・角度)。それからお顔がほとんどみえないあたりもいい。
・マダムのスマートな身体と積み上げられた煙草の箱の山。この画面内の垂直方向の運動がすばらしい。
・モダンな店内と、タコ社長オヤジの店主、この和洋の対比もまたすばらしい。
いろいろ褒めても褒め足りないわけですが――
トマス・ピンコの興味としては、「舶来煙草」というものの持っていたステータス性が
たった一枚の写真ですんなり理解できた、というのが大きいかな とおもいます。
木村伊兵衛「煙草屋」は クレヴィスという会社の「昭和の記憶 写真家が捉えた東京」という本にも収録されているのですが、
その本の解説によりますと
アブダラは英国製、キャメルはアメリカ製。舶来煙草は「少数の金持でなければ、殆ど喫むことができないほど高価である」と作家の徳田秋声が昭和7年に記している。
とのことでした。
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以上をふまえまして、菊池寛「貞操問答」の感想を。
「キャメル」と「チェリー」
舶来煙草と国産煙草をめぐっておもしろい描写がありますので
以下紹介いたします。
もともと新聞小説だったそうです。
連載期間 昭和9年7月22日~昭和10年2月4日 というから、あの「煙草屋」と同時代です。
南條家……という家庭がメインのはなし。
かつて 中流の上、くらいの生活をしていた家が
父親の死とともに稼ぎ手がいなくなり没落しつつあります。
主役はこの家の三姉妹で……
・南條圭子……女子大生。演劇バカ。女優志望で演劇公演で浪費。インテリだが世間知らず。
・南條新子(しんこ)……生活力の無い南條家のメンバーの中でただ一人しっかり者。生真面目のくせにやけにモテる。
・南條美和子……「ベビーエロ」などと形容されている色気たっぷりの末っ子。服、化粧品等を浪費。性格は素直。
メインキャラの新子ちゃんが、
家族の生活を支えるために、前川家というお金持ちの家庭教師に行く、というのが前半のおはなし。
前川家の主人、準之助氏、そして前川家の子供達はすばらしい人たちだが、
前川家の奥様が高飛車で 性格がひねくれきっているので なにかというとトラブルが起きる。
かてて加えて 身内が……
姉の圭子が、新子がせっかく稼いだ金を 演劇の公演に必要だ、とかいって持って行ってしまう。
妹の美和子は、新子の彼氏、美沢さんを誘惑する。
――という、とんでもない内容で、これはおもしろくならないはずはない。
じっさい、新聞連載時はかなり人気だったそうです。
この小説に――木村伊兵衛「煙草屋」で写されていた「キャメル」が登場します。
青年はシガレット・ケースを開けると、夫人に勧めた。
「何?」
「キャメル……」
「ごめんなさい。私、これしか吸えないの。」と、いって夫人は、自分の赤革のケースから、スリー・キャッスルの細巻を出して、青年がライターをつけてくれるのを待った。
「私、三、四日のうちに、伊香保へ行ってみたいんだけれど、貴君も行ってみない。」
(文春文庫、菊池寛著「貞操問答」92ページより)
試合(トーナメント)が了る(おわる)と、小太郎がアイスクリームを食べたいというので、三人はプレッツに寄った。そこで、新子はクリームを買った。
卓子(テーブル)に、子爵は新子とさし向いに坐ると、キャメルに火をつけながら、
「貴女がさっき愛人(アミイ)とおっしゃったのは、愛人か許婚のつもりで、おっしゃったのですか……そんな深い意味じゃないんでしょう。それなら、いろいろありますよ」
(同書120-121ページより)
キャメルを吸うのは木賀子爵、という 例の性格悪い前川夫人の若いボーイフレンド。
(それほど深い仲でもないようだが)
最初のシーンは、夫人との乗馬デートで、
つぎは 新子ちゃん、前川家の男の子、小太郎君、木賀子爵が軽井沢の町を歩いてテニスの試合をみたりしているところ。
どちらにしても、「軽井沢」「上流階級の生活」といったものを背景に、「キャメル」は登場します。
これと対照的に登場するのが国産煙草の「チェリー」でして……
「駄々っ子だねえ。じゃ、小母さんの帰るまで、飲まず食わずにいるさ。」と、いって美沢が美和子と、さし向いに坐ってチェリイをつけると、美和子はすぐ羞しそうに、唇の傍に手をあてたり、下眼づかいをしたり、いたいたしいほど、処女めいた表情をする。彼は、このお嬢さんを、いかに扱うべきか考えずには、おられなかった。
「靴下がとても、汗ばんで気持がわるいの。ちょっと、取っていてもいいかしら。」
「いいさ。」
美和子は、立ち上ると、それでもしおらしく、後を向きながら、スルスルと靴下を取ったが、かの女は彼の眼を、さっぱり恥ずかしがっていなかった。
(同書144-145ページより)
末っ子の美和子ちゃんが、ストッキングを脱いじゃって姉さんの彼氏を誘惑するシーン。
木賀子爵の「キャメル」に対し、美沢さんは「チェリイ」なわけです。
つまり構図として――
キャメル―チェリー
お金持ち―貧乏
軽井沢(避暑地)―東京(暑い)
新子(清純)―美和子(ビッチ)
という対照をもちいて 菊池寛はそれぞれのシーンを組み上げているわけです。
ちなみに――「別冊anan モボ・モガの時代 東京1920年代」には
当時の煙草のパッケージが紹介されております。
モボが好んで吸った煙草はエアーシップやチェリーなどのイギリス巻きであったと思われる。スイート・アンド・マイルドのイギリス巻きで、当時いちばん庶民的なものといえば、ゴールデン・バットだ。パッケージにもスイート・アンド・マイルドが売り文句になっている。しかし、モボは、やや気どってエアーシップだ、チェリーだ、なのだ。
「別冊anan モボ・モガの時代 東京1920年代」84ページより)
だそうです。
また――平凡社の「モダン都市文学」の脚注ですが、
エアシップ
山の上を飛行機と飛行船が飛ぶ油絵調の美しいラベルで、大正十年には十本の箱入りが発売された。昭和五年の価格は十本入り十二銭。ちなみに、ゴールデンバット七銭、チェリー十銭。ナイルは四十五銭である。
(平凡社、「モダン都市文学Ⅰ モダン東京案内」82-83ページより)
とありまして、じっさいの価格がわかります。
さて、洋モクの「キャメル」「スリー・キャッスル」はいくらくらいしたんでしょうね??
その他、「貞操問答」の気になるディテールとしましては……
帝劇を出たときは、ちょっとの間、夕霽(ゆうばれ)にあがりそうに見えた空も、また雨は銀色の足繫く降り出して、準之助氏のラサールという、素晴らしく長い車台の車に送られて、四谷の家近く、だがなるべく近所の人の目にふれない所で、おろしてもらった時は、六時というのに冬の日の暮れのように暗く、運転手が開いた蛇の目に、点滴の音が、さかんであった。
(文春文庫、菊池寛著「貞操問答」257ページより)
準之助氏の愛車が「ラサール」だというのは、控えめな彼の性格に合っているとおもいました。
小林彰太郎「昭和の日本 自動車見聞録」p106によりますと――
ラサールはいわばキャディラックの弟分に当たる高級車。
“キャディラックを持っている”と威張っていうのと、“ラサールです”とでは、月とスッポンほども違うらしいのである。
とのことです。
また、当時。美和子ちゃんのようなおしゃれなフラッパーが
銀座でハンドバッグを買うとしたら 「サエグサ」へ行くのだ、というあたりもわかったりします。
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さいごに、
・「貞操問答」文句なしにおもしろいですが、人物描写は薄っぺらいです。
最近はまってました「マリみて」の あの繊細かつ深みのある描写にはとても及びません。
文学作品としては「マリみて」のほうがはるかに上。
・タバコですが……
自分は今まで吸ったも、吸おうとおもったこともなく、
タバコにはまったく興味はないです。
ただ戦前は猫も杓子も吸っていたようなので、当時の文芸作品にはなにかというとタバコの描写があり
戦前のタバコ事情には非常に興味があります。
またパッケージ……とくにエアーシップのパッケージの美しさには魅かれます。