つづき、です。
前回、さいごのあたり
「高杉早苗時代」ということを書いたが、補足しておきます。
まあ、わかりやすく書くと
今の猿之助さんやら 香川照之さんやらのお祖母さんにあたる方です。
まず、アサヒグラフ昭和11年1月8日號。
「スタアの食慾」という特集。
蒲田結髪部で 焼き芋を食べている高杉早苗↓↓
同年 昭和11年9月30日號には↓↓
「高杉早苗時代?」……とあります。
「ラヂオはナショナル」という広告も気になるが……
高杉早苗時代?
全く以て當時の高杉早苗の人氣の程はスサマじいものがある。流石の田中絹代が「男性對女性」でシヤツポを抜いた以上、
(トマス注:脱いだ、の誤り?)
最早や「時代の娘」をスクリーンの上に再生し得る女優は高杉早苗をおいてはほとんど絶無となつて了つた!
左の寫眞は或ひは澄まし、或ひは哄笑し、或ひは悶える最近の彼女
手持ちの本だと、
日本放送出版協会「懐かしの復刻版 プログラム映画史 大正から戦中まで」
これは 昭和13年 銀座劇場という映画館が出していたプログラム所収の広告↓↓
「クラブ美身クリーム」
やっぱり時代を代表するスタアだったのだろうなあ、とおもえる。
松竹の女優さんだと 桑野通子と双璧だったようですが、
桑野ミッチーだと なんとも知れない「影」があって
(アサヒグラフのいう)「時代の娘」とは なんだかちょっと違うのかもしれない。
高峰三枝子だと なんだか色っぽすぎるようだし。
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本題に戻ります。小津の日記とロッパの日記の比較です。
〇1934年(昭和9)8月・9月・「或る夜の出来事」
(小津)
八月三十一日(金)
帝劇で フランク・キャプラのIt happened one night をみる 面白し
(ロッパ)
九月四日(火曜)
大勝館へ、評判がいゝので、コロンビアの「或夜の出来事」It happened one night を見る、長きこと二時間近し、とてもよきものなり。シナリオもいゝが、フランク・キャプラってリアリストの監督に参った。音を実によく選んでゐる。此ういふもの見ると、リアルな映画やってみたくなる。
クローデット・コルベール×クラーク・ゲーブル
これは褒めない訳にはいかんでしょう。
小津の日記、映画をみても 感想は書かない。
書く場合は「凡作」とかなんとか けなす場合がほとんどです。
なので「面白し」とは 最上級の褒めことばです。
ロッパは、映画批評から出発した人なので、
さすがに批評が丁寧です。
〇1934年(昭和9)10月3日(水)小津・ロッパ、ニアミスしそうになる。
えー、個人的には 両者の日記を比較して一番興奮したところです(笑)
小津とロッパが同じ時間・同じ場所に存在していたかもしれないのに(!)
すれ違いました……
(小津)
十月三日(水)
若草物語の試写行かず
山中一人みて つばめにて雨の中をかへる
電話あり
(ロッパ)
十月三日(水曜)
八時半起きで、帝劇へ試写を見に行く、昨夜のんでるので、評判のカザリン・ヘプバーンの「若草物語」Little Women の半分頃まで見てたらねむくて辛くなり、出ちまった。
山中貞雄とロッパは同じ時間・同じ場所にいた、といっていいのかな?
一日に何回か上映してるかもしれんが??
わかりませんけど。
小津はこの日見逃した「若草物語」を後日見ています。
キャサリン・ヘップバーンはあまり好きではなかったようだが。
(グレタ・ガルボも嫌いだったようだ)
(小津)
十月十日(水)
飯田 吉川 松井と帝劇に若草物語をみる
さて、
この、いにしえの松竹映画ファンならよくご存知の 飯田蝶子・吉川満子ペアが ロッパの日記にも登場します。
〇1934年(昭和9)12月6日(木)・ロッパ、飯田蝶子、吉川満子に会う。
(ロッパ)
十二月六日(木曜)
ハネて入浴し、銀座のジュンコバーで飯田蝶子・吉川満子等に逢ふ。
ジュンコバーは 松井潤子のやってた店、なのかな?
だとすると、小津の日記の十月十日のメンバーがそのまんま ロッパの日記に登場することになります。
それにしても……
会いそうで会わないです。小津&ロッパ。
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えー、えんえん1934年(昭和9)をみてきましたが、
ここで一気に 1937年(昭和12)に時代が飛びます。
というのは……
「全日記小津安二郎」→1936年(昭和11年)が存在しない。
「古川ロッパ昭和日記」→1935年(昭和10年)が存在しない。
という理由で この2年間、照らし合わせることができないからです。
〇1937年(昭和12)3月・結婚の話題。
両者ともに同時期に「結婚」に関する話題がでてきます。
(小津)
三月二十一日(日)
終日うち 都の小林氏 独身に関しての記事とりにくる
夕方茂原宅に行く
三月二十二日(月)
終日うち
飯田氏来り母は世田ヶ谷に灸をすえに行く
日記を読み返してみると今年になつて 心たのしい面白かつた日が一日もない 未だ三十五だと云ふのに何と云ふことだ 先が案じられる
(ロッパ)
三月十日(水曜)
十時起き。十二時すぎに家を出てPCLへ。家から電話で、報知の記者が来り、道子をつかまへて結婚の話をしろと言ひ、写真を撮って行った由、道子は知らぬ存ぜぬで通したとのこと。やがてこっちへも来るだらう、色々言葉を考へてゐると、市川為雄といふ記者が来た。「事実です。が、今日は此処では何も話せない、明日十二時半に家へ来て下さい」と言ふ。此ういふ機会にパッと発表しちまった方がよからう、明日発表する考へ。
三月十一日(木曜)
(トマス注:徹夜で映画撮影ののち)十一時近く帰宅す。少し休むと十二時半、約束の報知記者来る、アッサリ事実を話し、道子と並んだ写真を撮られ、帰る。夕刊に出るらしい。
なんとも対照的な二人です。
小津は「独身に関しての記事」に登場し、なんだか憂鬱です。
いや、独身だから憂鬱だ、などといってるんじゃないですが(笑)
この年、
2月に「淑女は何を忘れたか」を完成させています。
「桑野(通子)」の名前が日記によく出てきます。
そのくせ、例の小田原芸者の「栄さん」としばしば会っている小津安っさんです。
けっか「面白かった日が一日もない」などと書くのだからひどい。
一方
ロッパは既婚者です。
前年の1936年結婚してます……
(ロッパ)
11月30日(月曜)
本日仕事は一切休んだ。
記念すべき日、結婚。
なんで素直に発表しなかったのかは、謎です。
(日記を読む限り、よくわからない)
さて、小津が取材を受けたのは……
泰流社「小津安二郎全発言(1933~1945)」86-87ページ所収の↓↓
都新聞・昭和十二年三月二十九日夕刊
「小津安二郎は 何を忘れたか 僕は年をとったらしい」なる記事でしょう。
たいして面白くもないので 内容は紹介しません。
〇1937年(昭和12年)3月26日(金)・またまた小津、ロッパ、ニアミスしそうになる。
またまた会いそうで会わない、この二人。
(小津)
三月二十六日(金)
朝 池忠来る 銀座に出る
不二アイス のち 出社
池田義信と荒正 池忠と相州に行く 泊
(ロッパ)
三月二十六日(金曜)
(トマス注:PCLの映画撮影の後)
不二アイスで軽い食事をなし、釜足やリキーと仕事話で夜を更かす。
同じ日に「不二アイス」に行っていますが、会ってはいないようです。
この「不二アイス」
安藤更生の「銀座細見」・ツヤコお嬢さま(三宅艶子)の「ハイカラ食いしんぼう記」
そして「東京名物食べある記」では 「富士アイス」と表記されています。
これは「富士アイス」が正しいのではあるまいか?
たぶん……煙草の銘柄で「不二」というのがあったので
表記を勘違いしたのかもしれない。
富士アイスクリーム
中央銀座と、教文館の二階と両方にある。両方ともいい。教文館の方はちょっと落着かない嫌いはあるが。アイスクリームもいいし、料理もうまい。中央銀座の方はちょっと寄って喰べるのに実にはいりいい。ここのベーコン料理など僕は大好きだ。
(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」114ページより)
銀座の富士アイス(ほんとうは富士アイスクリームという名前だった)は、四丁目の角から数寄屋橋の方に向って少し歩いたところにあった。近藤書店の手前かさきか、今になるとはっきり言えないが、洋書のイエナのあたりであった。
(中公文庫、三宅艶子著「ハイカラ食いしんぼう記」195ページより)
安藤更生は 教文館に支店があったと書いています。
ツヤコお嬢さまはかなり入り浸っていたようで アメリカ風の店であったこと、支配人もアメリカ風だったこと、等々、
こと細かく描いていらっしゃいます。
引用はしませんが、辛口の「東京名物食べある記」もこの店は褒めています。
さて、この「富士アイス」……
影山光洋先生の写真集をみていますと――
こんな写真がでてきまして↓↓
左側の
戦前百合‼
うう……たまらん……
などと、吉屋信子先生の世界から抜け出してきたような二人に見とれておりますと……
(右側のミニスカート・ホットパンツのお姉さんはどうでもいいのだ)
若い女性のスタイルは水兵服かワンピース・スーツ 必ず帽子をかぶっていた
ショート・スカートからロング・スカートに再び戻ったころである
(昭和6年7月)
(講談社、影山光洋著「写真昭和50年史」149ページより)
百合カップルの二人がみつめているのは
FUJI ICECREAM
RESTAURANT
と、あるではないですか!
どうも、こういうオサレなお店であったようです。富士アイスクリーム。
えー、これでようやくラストです。
〇1937年(昭和12)5月21日(金)・神風號
今、現在 「カミカゼ」というと、世界共通語で「自爆攻撃」のことになっておりますが、
戦前「カミカゼ」というと、この「神風號」のことでした。
(小津)
五月二十一日(金)
夕方池忠来り雨上りの町を銀座まであるく
神風機 東京着
(ロッパ)
五月二十一日(金曜)
日劇へ行くと、折柄の雨なのに朝日新聞社の前に一杯の人だかり、神風が欧亜飛行完成して帰って来るといふので熱狂してゐる。
写真は、まず 影山光洋先生。
国産機の「神風号」で東京・ロンドン間を94時間余で飛び 当時の世界新記録を樹て
無事羽田に帰ってきた喜びの飯沼飛行士(左)と塚越機関士
(同書55ページより)
つづいてアサヒグラフ 1937年5月12日號↓↓
歴史的なその瞬間
ロンドン到着の『神風』
ロンドン到着は4月の出来事であったようです。
「神風」って単発機なんですね。
当時のメイドインジャパンのクオリティを考えると、なんだかすごい。
双発機だと記録が出せないからか?
エンジンはアメリカ製だったりしたのか?
飯沼飛行士は なかなか美男子でもあったので
一躍大スターになったようです。
比較は以上です。
小津安二郎はこのあと中国大陸に出征しますので
1937年の日記は 8月6日(金)で途切れます。
(9月10日応召、9月27日上海上陸)
1938年 1939年の日記が残っていますが、これは戦場での日記です。
ロッパの日記も 1937年7月あたりから 〇〇出征という記述が目立ち始めます。
「非常時」「戦時」という言葉も目立ち始めます。