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徳大寺有恒「ぼくの日本自動車史」感想

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ぼくなんぞはやはり、根っこは工学部の人間なので

自動車評論家ではやはり

福野礼一郎氏が好きであったりする。


「横方向のモーメントが~」とか

「低ミュー値の路面の場合は」とか

「FR車の重心はどうしても」とか

そういうインテリヤクザ的な記述にやられちまうわけである。


そこへ持ってくると、なんか徳大寺のおっさんの書くものは

今回紹介する本からさっそく引用してしまうが……


(トマス注:スカイラインに関して)

それはきわめて日本演歌的な義理人情的なムードを強く背負ったクルマである。「オレの目を見ろ、なんにもいうな」の世界なのだ。

(草思社文庫「ぼくの日本自動車史」351ページより)


こんな感じの小市民的印象批評であり、

それはそれですこぶるおもしろいのだけれど、

なんとなく床屋談義の域をでない感もして、

「徳大寺?ああ、あなたみたいなシロートにはいいんじゃないっすか?」

などという反応を示したくなってしまうものがあるにはあるのである。

トトやんのすべて


うー…ようするに、ですね、


「あるにはあるのである」

…――などと口ごもってしまうあたりが、

徳大寺のおっさんの本領のような気がしますのよ、あたくしは。


つまり堂々と「徳大寺のおっさんが好き」ということはなんか恥ずかしいような

そんなところがある人なのだな。

例えば、だ。

今「マイケル・ジャクソンが好きです」とか言っているそこの君。

君はMJ氏が生きていた時代もやっぱり

「マイケル・ジャクソンが好きです」と堂々と主張していたのだろうか?

違うんじゃないのかい?

「エイミー・ワインハウスが」とか

「やっぱりあのブルージーなセンスが」とか

いってたんじゃないのかい?

だが、

MJ氏が死んで、レジェンドになって、それではじめて

堂々と「私はマイケル・ジャクソンのファンです」といえる状況になったのでは

あるまいか?

まあ、MJをエルヴィスあたりと置き換えても良い。

それと同じ状況が徳大寺のおっさんのまわりにはある気がするんだ。


いやいやまだ、おっさんは元気だし(だよね?)死んではいないんですけど。

あと、ぼくはべつにマイケル・ジャクソンファンではないし。


まー、そんな徳大寺のおっさんです。

そうそう水戸の人らしいので、その点も親近感をおぼえます。

ようするにぼくは徳大寺のおっさんが好きなのです。


□□□□□□□□


感想:トヨタという会社の凄まじさ。


「ぼくの日本自動車史」というタイトルであるが、

これはようするに

「トヨタ」

なる、外国嫌いのちょっと国粋主義感のある変わった会社が

どうして日本の自動車市場を支配し、

その勢いをかって世界に乗り出していくのか…

(後進工業国家であった日本にとって「外国嫌い」というのは、ま、どれだけ勇気がある態度・行動だったことか……)


徳大寺のおっさんが描くのはそこ…

つまり「トヨタ」のサクセスストーリーである。

…要するにトヨタというメーカーは何を作ってもクラウンなのだ。カローラしかり、コロナしかり、マークⅡしかり、トヨタのクルマはすべてクラウンがスタンダードなのである。

 おそらくトヨタのクルマが好きなユーザーは、きっとそれが好きなのだろう。それが安心なのだろう。そして、それがまたトヨタのクルマがここまでシェアを広げてきた理由なのだろう。クラウンはついにトヨタというメーカーのアイデンティティたりえたクルマなのだ。

(同書102ページより)

カローラの最大の特徴は1100㏄エンジンを与えられたことである。もちろんサニーの1000㏄エンジンを意識してのことである。そしてこのあたりからトヨタのスペック主義が始まる。「ユーザーは乗ったところで、しょせんクルマのことなんかわかりゃしないんだ」とするトヨタの考え方が、このカローラから歴然とその姿を現すのである。

(同書270ページより)


ここ四十年近くを振り返れば、日本のユーザー大衆がトヨタ車に目をくらまされて、トヨタ車を買いつづけたのは、よくわかる。ジャグァーにしてもデイムラーのダブルシックスにしても、実際にそれらのクルマにしばらく乗ってみると、その安物的な部分が誰にも見えてくるはずだ。ところがトヨタのクルマはそれを許さない。トヨタのクルマを買った人は「いいね、いいね」で、八割近くが満足してしまう。トヨタというメーカーは、ユーザーを酔わせるツボを探り当てているのだ。対する日産は、とうとうそのツボを探り出せないまま今日に至ってしまった。そして「ウチのほうが、モノはいいんだけど……」と、涙にかきくれるというわけだ。

 日産はクルマ作りにおける普遍性ということを、とことん考える必要があった。自動車メーカーにとって、自分独自のモノ作りのポリシーはたしかに何よりも大事だが、そのポリシーと普遍性をどうすりゃすり合わせるのかを考えていくことはもっと大事なのだ。

(同書306ページより)


と、まあ、引用してみるとこんな感じ。


「ユーザーは乗ったところで、しょせんクルマのことなんかわかりゃしないんだ」
――と、完全に大衆を侮蔑しきったトヨタ様。

見せ掛けだけのゴージャスさで、

実はいいものを作っていた競合他社(日産とか)を、蹴散らしていく。



ここでぼくは最近読んだアドルフ・ヒトラーに関する一文を

思い出したのでありました。


大衆を見下し、軽蔑するヒトラーの宣伝観は、民主主義の不倶戴天の敵とされてきた。だが、自ら大衆人であることを十分自覚しているヒトラーの大衆人に対する侮蔑は、読み手が大衆である場合、教養エリートが牛耳る名望家政治に対する憎悪に転化し、「大衆民主主義」を推進するスローガンとなる。政治に疎外されていると感じる大衆は、ヒトラーの罵声を浴びることで自分たちが政治の真っただ中にいると感じるのだ。

(学研・歴史群像シリーズ42「アドルフ・ヒトラー権力編」97ページより)


なんか、ちとわかりにくいが…

ようするに「大衆」そのものであるヒトラー、

貴族でもエリートでもないヒトラー、

その彼が「大衆」を、あのものすごい声で罵りまくるとき、

大衆は、彼にものすごい親近感をおぼえることになる。

それで投票しちゃうことになる。


…なんかそんな感じですかね。


うーん…なんかごめんなさい。

「トヨタ=ヒトラー」

なんてことをいおうとしているんじゃないのよ、あたくしは。

断じて、トヨタ関係者にケンカをうってるんじゃありません。


ようは、さ、

なにかこう、「ベストセラー作家の心得」みたいなものが

裏に隠れているんじゃないのか、と思うわけ、よ。

ぼくちゃんだってさぁ、成功したいもんね。

大金稼ぎたいもんね。


つまり…


大衆に受け入れるためには

自ら大衆になりきらねばならない。

(白いクラウン、のように、あるいは「我が闘争」のように)

だが、それでいて

大衆を完全に蔑視しつづける必要がある。

かつ、大衆が喜ぶツボを知っている必要がある。


そしてあきらめないこと…


トヨタはしぶといメーカーである。日産の歴史を振り返ると、手がけては放り出すのくりかえしだが、トヨタは一度手をつけたものはなかなかやめようとしない。それを好むか好まないかは別として、たしかにクラウンには、初代以来一貫してトヨタのある種の理念が流れている。クラウンはごくごくオーソドックスな、なんでもないクルマである。しかし、世界の自動車の歴史を見ると、この「なんでもない」ということは、きわめて大事なことなのだ。

(草思社文庫「ぼくの日本自動車史」103ページより)


そうそう、

ベストセラーって「なんでもない」んですよ。

とくにとんがってるわけもなく、

とくにお利口さんぶってるわけでもなく…


でも難しいね。そういうの。


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